【第5課】〜ヘイク? 〜ニイク?
――王立学園の言語研究棟、朝の職員室。
「今日から一人、復帰生徒が加わるそうですね」
タカシが湯気の立つ木製カップ(中身は麦茶に似た何か)を手に、職員室の椅子に腰掛けると、ミネル・シェリアがにこやかに微笑んだ。
「うふふ、あの子ね。ちょっと変わってるけど、面白いわよ」
「フン……変わってるなんて言葉では足りん。“謎”だ」
腕組みをしてうなるのは、例によって全身鱗のリザード教師、ドラン・ザ・スケイル。
「名前は……クーニャ=ベルン。獣人族。授業は長いこと休んでたんですよね?」
「理由は……『朝が眠いから』ですって」
「…………」
(おいおい、そんな理由で学園サボっていいのか)
「でも、“本物のニホンゴを話す先生が来た”って聞いたら急に目を輝かせてね。『ニホンゴって、ゴロがいいよね〜』って言ってたわ」
ミネルが小さく笑う。
(……ますます不安だ)
◆
教室にて。
「オハヨウゴザイマス……って、あれ?」
ドアを開けると、そこにはいつもの生徒に混じって、ひとり見慣れない少女がいた。
ふわふわした耳がぴこぴこ揺れている。制服はヨレヨレ。机に突っ伏して、ぐでん……としている。
「あ、センセイ?」
「えっ、あ、うん。……キミは?」
少女がのそのそと顔を上げる。
「クーニャ=ベルン。きょうからまた、くることにした~……オハヨウゴゼ〜マス~……」
「……オハヨウ……オハヨウゴゼエマス……?」
「アレ、ちがった? まあ、いっか。ゴロよければ」
(うわ、ほんとにマイペースだ……)
「クーニャはね、ずっと文法とか読むだけの授業が苦手で。けど今は“会話”があるから、来てくれたのよ」
ミネルが後ろから補足する。
「ちなみに読解テストの点は最低記録保持者です」
ドランがなぜか誇らしげに言った。
「クーニャ、よろしくな。今日から“ニホンゴ教室”、ちゃんと続けられるか?」
「へ〜……行けたら行く〜」
(いや、来てくれ)
◆
「さて、今日のテーマは、“イク・クル・カエル”!」
黒板に《第5課 〜ヘ/ニ イク・クル・カエル》と大きく書く。
「たとえば、“ガッコウヘ イク”、“トモダチノイエニ イク”、“ウチヘ カエル”とかだな」
「センセイ、“へ”と“ニ”……どっち?」
質問したのはヴァイス。きれいな発音で、しかも真剣な表情。
「古文書では“ニ イク”が多い。でも、最近読んだ詩には“ヘ イク”もありました」
「お、鋭いな。そう、どっちも使える。……けど、ちょっとずつ意味が違う」
タカシはチョークを取り、例文を書いていく。
● ガッコウヘ イキマス。
● ガッコウニ イキマス。
「さて、何が違うと思う?」
「えっと、“ヘ”の方が、やさしい……?」
リリィがぽつりと言う。
「いや、それはたぶん気のせいだな」
ユウトが言う。
「文献では両方出てきます。“ニ イク”“ヘイク”どちらも成立しているように見える」
「うん……たしかに、“行く”に関しては、意味はそんなに変わらないんだ」
タカシはそう言いながらも、黒板の前で手を止める。
「でも、じゃあなんで”ニ”、“へ”2つの助詞がわざわざ存在するんだろうな……?」
そのとき――。
「センセ〜……キノウ、ベッドニ イッテ、ねむれなかった……」
机に半分埋まりながら、クーニャがぽつりとつぶやいた。
「え?」
「ベッドニ……イッタ。けど、ねむれなかった……。へやは くらくて、ベッドニ イッタケド……のれなかった……」
「……あ〜。それって、もしかして、ベッドに入れなかったって言いたい?」
「そうそう、それそれ〜。
でも、“ベッドに行ったけどねむれなかった”って言ったら、ユウトが“それ、エイゴっぽい”ってバカにしてきた〜」
「もう一つの滅びた言語 ”エイゴ”にも”go to bed”って表現がありますからね。」
「……なるほど」
タカシはゆっくり頷いた。
「“ベッドニ イク”って、“ベッドに向かって歩いていく”って意味にはなるけど、日本語だと、“ベッドニ ハイル”って言わないと、ちゃんと“寝た”って感じにならないんだよな」
「“ベッドへ イク”も……ある?」
「うん。“へ”を使うと、“ベッドの方向に向かった”って意味が強くなる。だから、“へ”は、“曲がる”とか“進む”とかの、方向がはっきりしてる動詞と相性がいいんだよ」
タカシは黒板に例を書き出す。
“ニ” → 終点、場所にいる・入る・のる→ 例)ベッドニ ハイル/イスニ スワル/エキニ ツク/バスニ ノル
“ヘ” → 方向性、移動の向きが重要なとき→ 例)ガッコウヘ イク/ヒガシヘ ムカウ/ミギへ マガル/モクテキチへ ススム
「“ミギニ マガルって言わなくはないけど、“ミギへ マガル”の方が自然なんだよ」
「“ソラへ ノボル”も、“ソラニ ノボル”よりロマンがある……」
リリィが目を輝かせる。
「それだよリリィ。“ヘ”には、“その方向に気持ちも向かってる”っていうニュアンスもあるんだ」
「なるほど……“ニ”は確実に“そこにある”、“ヘ”は“そこを目指してる”。そんな感じですね」
ユウトが整然と図式化し始める。
「センセ〜……アタシ、キノウ、“ドーナツへ イク”って言ったら、ヴァイスに“それはヘンだ”って言われた……」
「え……“ドーナツへ”?」
タカシは一瞬止まって、吹き出しそうになるのをこらえた。
「ドーナツ“へ”イク……?」
ヴァイスがすかさず腕を組んで補足する。
「“ドーナツニ イク”でも妙ですが、“へ”となると、まるでリング状のお菓子そのものに向かって進軍しているようですわ」
「……たしかに、戦いの構えに聞こえるな」
タカシは思わず笑ってしまった。
「クーニャ、ドーナツは“イク”対象じゃなくて、“カイニ イク”場所とか、“タベル”対象だから、“ドーナツヤへ イク”が自然かな」
「そっかー。“ドーナツへ”って言うと、ドーナツそのものにダイブするみたいになるんだ〜」
「おまえ、夢の中でやってそうだな」
「でも、今のって、“へ”の方向っぽさが強すぎるから変に聞こえるんですよね?」
ユウトが鋭くまとめる。
「“ドーナツ屋へ”なら方向になるけど、“ドーナツへ”はモノすぎる」
「その通り。“へ”ってのは場所とか方向とか、“向かう先”を表すから、対象が“食べ物”だと違和感が出るんだ」
「つまり、“へ”は“そこへ進む”って動作のイメージが大事。対象が“空間”じゃないと使いにくいんですね」
「“ニ”なら、“ドーナツニクリームをイレル”みたいに、対象でもOKだけど……“へ”は“向かう先”にしか使えない」
「ふむ……つまり、“に”は器、“へ”は矢のようなものですわね」
「ヴァイス、それすごくいいたとえ!」
クーニャは最後にのんびりとつぶやいた。
「ドーナツは、向かう場所じゃなくて……食べたい気持ちの中にあるのかも……」
「それはもう“心の中”の話だな」
――黒板には、そっと例文が追加された。
✕ ドーナツへ イク
〇 ドーナツヤへ イク
〇 ドーナツヲ カイニ イク
→ “へ”の対象は「場所」や「方向」!
「センセ〜、ワタシ、キョウハ、“ユメノ クニ”ヘ イク!」
「それは寝るって意味か?」
「たぶん〜」
(結局寝るんかい)
タカシは軽く笑いながら、次の課をめくった。
――つづく。




