【第4課】フン・ブン・プン?
王立学園《言語文化研究棟》の南側、一番奥。
そこが、俺――永田タカシの“職場”であり、“戦場”でもある。
異世界に転生してからというもの、ネイティブ話者として《ニホンゴ》を教えるという、わけのわからん役割を任され、俺は毎日必死に黒板と向き合っている。
だが、俺が来る前――この教室は、別の姿をしていた。
◆
「実践授業……? フン。まるで冒険者ギルドの訓練じゃないか」
そう言って目を細めたのは、職員室の隅で大きな尻尾を揺らしていたリザードマン――ドラン・ザ・スケイル。筋肉と鱗に覆われたその体はまるで鋼鉄の要塞。口調は厳しいが、真面目で根は優しい熱血漢。かつて武術指南役だったが、今は“文献読み取り”専門でニホンゴの断片的知識を研究している。
「まあまあ、そんなカタイこと言わないで。彼が来てくれて、教室の空気も少し柔らかくなったでしょ?」
妖艶な微笑みを浮かべたのは、もうひとりの教師――ミネル・シェリア。妖精族の出で、いつも胸元の開いた服に軽やかなスカート。学園内でも“お姉さん先生”として人気を集めている。専門は古文の詩の韻律解析……要するに、めちゃくちゃ詩的な言葉の言い回しばっかり分析してる。
「ありがたいことに、俺は“読める”し“書ける”し“話せる”……らしいですからね」
タカシは苦笑しながら、コーヒーならぬ“黒き豆汁”をすすった。
彼ら二人もまた、ニホンゴの“研究者”ではあるが、どちらも会話を扱う授業はできなかった。過去の断片的な文献を写し取り、その文型や語彙を解析する日々――いわば“古文解釈”だ。
俺がやっているのは、“現代語”としてのニホンゴの、実用指導。
それがどれほど珍しくて、危険なことなのか……未だに自分でもわかってない。
◆
「オハヨウゴザイマス!」
今日も教室には、いつもの元気な声が響く。今日一番乗りのリリィが手を振ってくる。
「オハヨウ、リリィ」
「センセイ、キョウハ“ジカン”ノ ニホンゴ、ヤルノ?」
「そう、第4課。“イマ、〜ジ〜フン デス”だな」
そのあと続々と入ってくるのは、例によって個性豊かな面々。
ヴァイスはいつも通り無言で自席に座り、鏡で前髪の流れを確認。ユウト=カンジはすでに「五分」「五ふん」「五フン」と書いたメモを取り出してブツブツ言っている。
◆
「じゃあ、まずこの文。“イマ、ヨジ イップン デス”」
タカシが黒板にカタカナで書きながら言う。
「“イップン”……?」
ヴァイスが静かに手を挙げた。
「なぜ“ブン”ではなく、“ップン”なのですか?」
「う……」
出たな、“発音警察”。
「いい質問だ。でも正直、理由は……わからん!」
「……」
一瞬、教室の空気がピタッと止まる。
「いやいや、待て! こういうときは、言ってみるのがいちばんだ!」
タカシはチョークを置き、堂々と宣言する。
「では皆さん、“イチブン”と、“イップン”……両方言ってみて!」
「イチブン……」「イップン……」「イチブン……」「イッフン……?」「ニブン……ニフン……ニッフン……?」
教室内は、混乱と笑いで満ち始めた。
「センセイ、“ニブン”って、なんかもごもごする!」
「“ニップン”モ 言いにくい!」
「“ニッフン”ハ、なんだか、さらに雰囲気 だけ!」
「“イチブン”より、“イップン”ノ ほうが、イイ」
ヴァイスが眉を寄せる。
「……たしかに。“イチブン”は“チ”と“ブ”がぶつかって、声が滑らかに流れません」
「発音が自然じゃないってことか……!」
タカシは手をポンと叩いた。
「つまりな、“イップン”とか“ロップン”とか、“チ”や“ク”のあとに“フン”が続くとき、音がつながりやすいように変化したってことだ!」
「おん……がくてき な へんか?」
「そうそう。舌とか、口の形とか……言いにくいものは、言いやすい形に進化してきたんだよ。ニホンゴってやつは、そうやって自然に変わってきたらしい」
「……まるで、水が流れるみたいに?」
リリィがぽつりと言った。
「そう! すごくいい例えだな、それ」
「……言葉も、変わるものなのですね」
ヴァイスが少し納得したように、目を伏せた。
「言いやすさ」って、見えないけど大事なルールなんだな。
◆
その日の黒板には、こう書かれた:
● 1分 → イップン
● 3分 → サンプン
● 6分 → ロップン
● 8分 → ハップン
→ 言いにくいとき、音が変化する!
ユウトがノートの端に「口唇・歯音変化」と勝手な名前をつけて記録していた。
「センセイ、ワタシ、“ジュウニジ サンプン”マデ ガッコウ!」
「お、それは“イイ ハツオン デス”!」
リリィがちょっと得意げに笑った。
タカシも自然と笑みを返す。
(今日もまた、ひとつ“音”の謎がとけた)
――つづく。