【第3課】「ハ」は土台なんだ。
「まさか、“校内宿舎付き”ってのが、こういう意味だとはな……」
異世界に来て数週間。俺――永田タカシ(36)は、いまや王立学園の「特別語学教師」として、生徒たちに《ニホンゴ》を教えている。
“住居付き”という言葉に期待したのは、ちょっとした離れの一軒家とか、せめて下宿の一室。ところがどっこい、実際に与えられたのは――学園の地下にある小部屋だった。
窓はなく、狭いベッドと机と、あとカビ臭い棚がひとつ。元・魔法薬保管室だとか言ってたが、今でも夜な夜な何かがきしむ音がしていて怖い。
食事は一応、学園の食堂で出る。質素なスープと硬いパン、謎の緑色の煮物。給料は……まあ、贅沢しなけりゃ生きていけるレベル。たまに校舎の外れで干し肉を焼いてるオーク族の売店に行くのが、最近の楽しみだ。
それでも、不思議と不満はない。
教室に入れば、今日も待ってくれている生徒がいるからだ。
◆
「オハヨウゴザイマス、センセイ!」
教室の奥から元気な声。誰よりも早く席に着いているのは、竜人族の少女――リリィ。
紫色の髪に小さなツノ。しっかり者で素直で、たまに詰まるけど、一生懸命話すその姿はちょっと見習いたくなる。
「オハヨウ、リリィ。今日も元気だな」
「ハイ! キョウハ、“ココ・ソコ・アソコ”!」
そう、今日のテーマは《ミンナノニホンゴ》第3課――「ココ」「ソコ」「アソコ」+「~ハ~デス」の文型。
教卓の前に立ち、古文書を掲げる。
◆
「まず、“ココハ、キョウシツデス”」
「ココハ、キョウシツデス!」
三人の声がそろう。リズムも発音もばっちりだ。
「ソコハ、リリィ ノ セキデス」
「ソコハ、ワタシ ノ セキデス!」
「アソコハ、オーク センパイ ノ コウチャ ノ ミセデス!」
ユウトがなぜかテンション高く叫ぶ。貴族っぽい店名じゃないが、よしとしよう。
「じゃあ、これも。“リリィハ、ココデス”」
「リリィハ、ココデス!」
ここまでは順調……だった。
「センセイ、ワカラナイコト アリマス」
リリィが眉をひそめて手を挙げた。
「“ドコハ、ココデスカ?”……というのはおかしいデスカ?」
「……!」
ああ、来たか。その質問。
「リリィ、“ココハ、ドコデスカ?”は言えるよな?」
「ハイ。ワカリマス」
「でも、“ドコハ ココデスカ?”は……」
「ワカリマセン。オカシイ ノカ、オカシク ナイノカ、ワカラナイ……」
「センセイ、“トイレハ ドコデスカ?”ハ、普通に言います」
ヴァイスが補足する。
「デモ、“ドコハ トイレデスカ?”ハ、ヘン……」
「……言えるけど、変なんだよな。理屈じゃ説明できないけど、変」
俺は黒板を見つめながら、考えた。
(なんで“ココハ ドコデスカ?”は言えるのに、“ドコハ ココデスカ?”はダメなんだ?)
(“ドコ”も“ココ”も、“バショ”をさす言葉……でも、順番が違うだけで意味が変になる……?)
「……ユウト、“ハ”って何の役割だ?」
「“ハ”は、“ワダイ ノ ジョシ”と書かれています」
「話題、ってなんだ?」
「エート……“ナニ ニ ツイテ ハナスカ”、ということ……?」
(話題……何について話すか……)
(ってことは――)
「“ココハ ドコデスカ?”の“ココ”は、“話題”なんだよな。“ココ”って場所について、知りたいってこと」
「“ココハ……ドコ?”」
「そう。“ココ”という話題について、“ドコデスカ?”と説明を求めてる。だからこの文では、“ここ”が言いたいことの中心じゃなくて、話の土台なんだ」
リリィが、首をかしげたままぽつりとつぶやく。
「でも、“ドコハ、ココデスカ?”って言ったら、なんでヘンナノ……?」
「それはね……“ハ”っていうのは、“そのあとにいちばん言いたいことが来る”っていう助詞なんだ」
「いちばん……言いたいこと?」
「たとえば、“ココハ キョウシツデス”っていう文は、“ココ”っていう場所がどんな場所なのかを説明してるんだよな。つまり、“ココ”が話題で、言いたいことは“キョウシツデス”のほうなんだ」
「ウン、ワカル」
「でも、“キョウシツハ ココデス”になると、今度は“キョウシツ”が話題になって、その教室がどこにあるかが言いたいことになるんだよ。だから、“ドコハ ココデス”って言おうとすると、“ドコ”っていうわかってない情報が話題になっちゃう。わからないことを土台にするって、おかしいだろ?」
「あ……!」
リリィの目がぱっと開いた。
「“ドコ”は、知りたいことなのに、話題にしちゃったら、オカシイ……!」
「そう。“ドコ”とか“ダレ”とか、“まだわからないこと”は、“ハ”の前に置いちゃいけない。“ハ”のあとに来るのは、言いたいこと。だから、“ココハ ドコデスカ”は言えるけど、“ドコハ ココデスカ”は言えないんだ」
「“ココハ キョウシツ デス”と、“キョウシツハ ココ デス”も、ちょっとちがうってこと……?」
「うん、よく気づいたな。“ココハ キョウシツ デス”は、“この部屋って何?”って聞かれて答えるとき。“キョウシツハ ココデス”は、“教室ってどこ?”って探してるときに使う」
ユウトが、がたっ、と立ち上がった。
「ナルホド……“ハ”のうしろが言いたいこと! だから“疑問詞は話題にできない”……!」
「お前、突然ノッてきたな……」
「すごい……すごいです、センセイ!」
リリィが両手でノートを押さえながら、きらきらした目で見つめてくる。
ちょっと照れる。
「いや、お前らがいい質問してくれたからだよ」
(教えるって、やっぱり面白いな)
◆
その日の黒板には、こう書かれた。
●「ココハ ドコデスカ」→◯●「ドコハ ココデスカ」→×
※「ハ」のあとは、いちばん言いたいことが来る。だから「ドコ」「ダレ」などの疑問詞は、「ハ」の前に来てはいけない。
「ココハ キョウシツデス」
「キョウシツハ ココ デス」
リリィはその二つを何度も声に出して読んでいた。
「“ハ”って、すごく……ふしぎ」
「うん。でも、それが“ニホンゴ”ってやつなんだよな」
――つづく。