【第2課】コレ・ソレ・アレって、どこが違うの?
この世界には、「言葉」が二つある。
一つは、この世界の共通語。王国の民も、森のエルフも、ドラゴン族、リザードマンなども――皆が当たり前のように話す“異世界語”。もう一つは、過去に失われた古代語。学者たちはこう記す。
――《ニホンゴ》は、かつて神々の言葉だった、と。
今、その神語を教える者がひとり。
サラリーマン歴15年のしがないおっさん、永田タカシ(36歳)。駅の階段から転落したはずが、目覚めれば異世界。なぜか彼だけが、この《ニホンゴ》を理解し、話せるのだ。
今日もまた、彼の教室に、生徒たちが集まってくる――。
◆
「こいつらの言葉、なんで普通に聞き取れるんだ……?」
異世界に来てからしばらく経つが、いまだに不思議に思うことがある。俺――永田タカシ(36)、元サラリーマン、現異世界ニホンゴ教師は、この世界の住人たちと普通に会話ができている。まるで、彼らが日本語を話しているように聞こえるのだ。
でもそれは違う。
実際には彼らの言葉は、この世界の共通語らしい。何百年も前から広く使われてきたらしく、書き言葉も話し言葉も、俺にとってはなぜか自然に翻訳されて耳に入ってくる。
つまり――
「異世界転生って、自動通訳機能つきらしい」
すごいのか便利なのか気持ち悪いのかはさておき、とにかく今、俺は“言葉の通じる世界”で教師をしている。
王立学園 ニホンゴ特別教室
「はい、では今日も始めます! 第2課、“コレ・ソレ・アレ”!」
教卓の前で、タカシは元気に教科書――古文書『ミンナノニホンゴ』を開く。見た目はボロボロだが、れっきとしたこの世界の“禁書”である。
今日は第2課、「コレ・ソレ・アレ」。“物の指し方”ってやつだ。シンプルなようで、意外と奥が深い。
生徒は、いまのところ3人だけ。王立学園の中でも“禁書”扱いの《ニホンゴ》を扱うクラスだからか、生徒の数は少ない。しかも、今いるのは一部の「コアな人材」だけらしい。
噂によると、「本物のネイティブ教師が来た」と聞いて、休学していた生徒たちが戻ってくるかも、なんて話もある。……怖いような、楽しみなような。
今日も生徒はこの三人:
◆リリィ=フロリーナ
竜人族の少女。まだ10代前半って感じで、紫色の髪に小さなツノ。真面目でよく笑う、癒やし系。語学のセンスはあるが、助詞と発音がちょっと苦手。ノートの書き方が丁寧すぎて、逆に遅れがち。今日も大きなノートを抱えてニコニコしている。
◆ヴァイス=アルセリナ
長寿のエルフ。見た目は16〜17歳くらいのクール系美少女だが、たぶん俺より年上。
金髪のウェーブに深い青のマント、貴族出身らしく言葉遣いも態度もいちいち尊大。でも、たぶん一番この授業を楽しんでる。口調は高圧的だが、実は一番ノリノリで発音練習している。 前回「ヨロシクって、ナンノ イミデスカ?」と詰め寄った張本人。
◆ユウト=カンジ
人間族の魔導士候補生。眼鏡、マント、分厚いノート。まさに“言語オタク”。「カンジ」とかいう謎の文字体系に異常な執着を持ち、「曖昧」「憂鬱」などの意味を延々と語る癖がある。……でも案外いいやつだ。今日も眼鏡の奥で目がキラついている。
「じゃあまず、“コレ”は、ワタシの近くにあるものだね」
タカシは手に持っていたチョークを掲げて言う。
「コレハ、チョークデス」
「“コレハ、チョークデス”!」と、三人は復唱。いい感じだ。
「じゃあ“ソレ”は、キミたちの近くにあるもの!」
リリィが机の上の羽ペンを持ち上げる。
「ソレハ、ペンデス!」
「グッド! で、“アレ”は、遠くにあるもの!」
窓の外の樹を指さすタカシ。
「アレハ、キ!!」
「アレハ、キィィィィ!」
ヴァイスが叫んで、全員大笑い。
(うん、今日は調子いいな)
――教室は和やかな空気に包まれていた。発音もバッチリ。ここまでは順調だった。
「……でさ、みんな。“コレ”は“私の近く”。“ソレ”は“あなたの近く”。“アレ”は“遠くのもの”。」
俺はそう説明しながら、ふと違和感を覚えた。
(……ん? じゃあ、あの机の上の本は?)
机はリリィとヴァイスの中間、俺から見れば少し遠いけど、リリィからは近い。じゃあ、“ソレ”か? “アレ”か?
「せ、センセイ……?」
リリィが困惑した顔で指をさす。
「え、えーっと……その本は……ソレ……いや、アレ……いや……ソレか?」
自分でも何を言ってるのか分からなくなってくる。
(やっぱり、ただの距離の問題じゃない……? 誰の視点で見てるか? “近い・遠い”って何を基準にしてるんだ……?)
そのとき――
ポトンッ。
「あっ、ごめんなさい、ケシゴム、落としちゃった……!」
リリィが慌てて、椅子の下をのぞき込んだ。
「……ああ、“アレハ、ケシゴムデス”だね」
俺は無意識にそう言っていた。
「センセイ、ドレガ アレデスカ?」
ヴァイスが、ちょっとズレた文法で指さしてくる。
そのうちに、リリィはサッと消しゴムを手に取った。
「ソレだよ、ソレ。ソレは リリィの ケシゴムだ」
「ソレ? アレ?」
混乱するリリィと、ヴァイス。俺も少し混乱してきた。
そのとき――ユウトが椅子の下をのぞきながら、ぽつりとつぶやいた。
「……でも、さっきは“アレ”って言ってたのに、今は“ソレ”って言いましたね、センセイ」
「え? ……ああ」
言われて気づく。
さっき、リリィの机の下に落ちた消しゴムを、俺たちは「アレ」って呼んだ。でも、リリィが手を伸ばしてそれを拾い上げた瞬間――自然と“ソレ”って言っていた。
誰かに教えられたわけじゃない。説明書を読んだわけでもない。ただ、気づいたら言葉が勝手に切り替わってた。
(うわ……こわっ。日本語って、こわっ)
距離で判断してるつもりが、そうでもない。リリィの位置は変わってないのに、俺の言い方だけがスルッと変わっている。しかも無意識に。
(……あっ)
俺は思わず、リリィの手元の消しゴムを見つめた。
(たぶん、変わったのは“距離”じゃない。“所属”だ――)
「……!」
思わず、言葉がこぼれる。
「“コレ”は自分のエリア、“ソレ”は相手のエリア、“アレ”は誰のものでもない場所にあるもの――か……!」
全員がこっちを見る。
「今、誰も手を出していない“落ちてる消しゴム”は、“アレ”だった。でもリリィが拾って“自分のエリア”に入れた瞬間、それは“ソレ”になった」
「なるほど!」
ヴァイスが目を細めてうなずく。
「“アレ”は宙に浮いた存在。“コレ”にも“ソレ”にもなれる、立場未定の物体ということか……」
「“無所属のもの”……オモシロイ!」
ユウトがまたノートに意味不明な図を描き始めた。
「センセイ、ヨク ワカッタ!」
リリィが笑顔で言う。なんだかんだ、俺も少し嬉しい。
(言葉の意味って、文法書じゃなくて使われる瞬間に宿るのかもしれないな)
リリィが感動したようにうなずいた。
「スゴイ……センセイ、アタマ イイ!」
「ううん、リリィがヒントくれたおかげだよ」
タカシは照れながら笑った。
(教えるって、教えながら学ぶことなのかもしれないな)
◆
その夜、また一人、ノートに「コレ・ソレ・アレ」を繰り返し書いている生徒がいた。ユウト=カンジ。すでに彼は、新たな問いをつぶやいていた。
「“コッチ”と“ソッチ”と“アッチ”は、どう違うのか……」
――その謎が明かされるのは、もう少し先のことだった。
――つづく。