【第25課】“カエッテモ”、ボクタチ ニホンゴ ワスレマセン!
◆
──実際は半年ほど前だが、もうずっと昔に感じる、本来の世界。
午前7時すぎの山手線。
車内には、いつもと変わらぬ人の波。
永田タカシ、36歳。都内の語学教材出版社で営業と編集を兼ねる、いわゆる“何でも屋”だった。
「……間に合った。ふう……」
ぎゅうぎゅうの電車の中、抱えたカバンには、日本語教育の教材サンプル。
その日、タカシはある日本語学校に営業に行く予定だった。
新しく出た『みんなの日本語・初級Ⅱ』の補助教材のプロモーション。AI教材の台頭で古いテキストの存在感が薄れつつあるなか、彼は「やっぱり“人が教える”って価値があるはずだ」と一人、粘っていた。
「俺は……ニホンゴを“教える人”になりたかったのかもしれないな」
そのとき、車内の吊り広告が目に入った。
『特集:世界で広がる日本語学習』
(ああ、そうだ。世界のどこかで、日本語を学ぶ誰かがいる。
言葉が、人生を変えることもある)
そんなふうに思った――その瞬間。
耳鳴り。
眩暈。
そして、視界が白く染まっていった――。
◆
──目を開けたとき、空は青すぎるほど青かった。
「オレは……死んだのか?」
気づけば、石畳の上。頭の下には乾いた藁。異様な静けさの中、タカシはうめくように身を起こした。
あれは……どれくらい前だっただろうか。
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──もっと昔、異世界転移直後。
「目覚めましたか、賢者様……!」
金髪の巫女服の少女が、嬉しそうにタカシの手を握る。
「えーと、なんていうか……ヨロシク……?」
「い、今なんと!?」「ヨロシク!?」「伝説の言葉が!!」
王宮がどよめいた。
「あなたは……“コトバノ賢者”!伝承にある“ニホンゴヲ操る者”に違いありません!」
巫女服の少女――名をナビィ・ゲータというらしい――は、やや興奮気味に続けた。
「この世界には、失われた“古代文字”――ニホンゴが、あらゆるロストテクノロジーに使われているのです。完全に読み解ける者はおらず、ましてや話すことができる人なんておりません。」
(文字は残っているが、会話はできない。現代でいう古文みたいな存在か?)
「賢者様、お願いです。庶民のために“ニホンゴ”を教えてはいただけませんか!」
「この“ニホンゴ”を教え、多くの者に継承できたなら……おそらく“門”が、再び開かれるでしょう」
老いた賢者のような存在がそう言ったのを、タカシは今でも覚えている。
「“門”って……元の世界に帰れるってことか?」
「はい。“最初の学び”が完結すれば」
そう言って渡されたのが、あの一冊──
《ミンナノニホンゴ》だった。
そして、連れてこられたのが、今の「ニホンゴ教室」だった。
“教える”ことで、何かが動く。
それが“帰る鍵”になると、タカシはどこかで感じていた。
◆
──現在、教室。
「さあ、いよいよ25課。“最終課”だ」
黒板に書かれた今日の文法:
〜タラ / 〜テモ
「たとえば、“アメがフッタラ、でかけません”とか、“アメがフッテモ、でかけます”みたいに使う」
クーニャが手を挙げる。
「センセイ、タラって……サカナノ?」
「それは“鱈”だ!よく知ってるなそんな言葉。教科書には出てこないぞ」
● 雨が フッタラ、 さんぽを しません。
● テストが ムズカシクテモ、 がんばります。
「“〜タラ”は、“もし〜したら”って意味。
“〜テモ”は、“〜でも”って、逆の状況でも気持ちが変わらないって表す」
セイアがふと顔を上げる。
「……センセイ。“コノ クラスガ オワッタラ”、センセイ ドウナルノ?」
タカシは一瞬、言葉に詰まる。
「……たぶん、帰る。“モトノ セカイ”ニ」
教室が静まり返る。
ユウトが口を開く。
「“カエッテモ”、ボクタチ ニホンゴ ワスレマセン!」
「“サヨナラヲ イワナクテモ”、キモチハ ツウジマス」リリィが続ける。
「……みんな、ありがとう。
でも、まだ授業は終わってないぞ。最後まで、ちゃんとやり遂げよう」
◆
──ペアワーク:仮定文の練習
「じゃあ今から、“〜タラ”“〜テモ”を使って、自分たちのことを話してみよう!」
【セイア&グンゾ】
「グンゾが コエ デナクナッタラ……ワタシが キモチ ツタエマス」
「セイアの キモチ、コエガナクテモ、オレ カンジラレル!」
(おいおい、グンゾ、お前が一番ロマンチックじゃねーか)
【リリィ&ヴァイス】
「ヴァイスが トツゼン トンデッタラ……ワタシ、オイカケル!」
「オイカケテモ、トドカナカッタラ?」
「トドカナクテモ、サケビマス! “マッテ!”」
(それ、絶対ヒロインのセリフだろリリィ……ヴァイス、顔が赤いぞ)
【ユウト&クーニャ】
「ワタシ、マホウ ツカエナクナッタラ、ユウト、オボエテ クレマスカ?」
「モチロン! クーニャガ オボエタカッタラ、ボク、ゼンブ オシエマス!」
(いや君、将来“日本語教師”向いてると思うよマジで)
教室には、小さな笑い声と、あたたかい静けさが満ちていた。
それぞれの“もし”と“たとえ”が、確かに未来を照らしていた。
◆
──授業終了時
タカシは教卓に立ち、黒板を軽く叩いて全体に声をかけた。
「よし、今日はここまで!」
生徒たちが一斉に顔を上げる。
「明日はお休みだから、今日の“〜タラ・〜テモ”はしっかり復習しておけよ。明後日はいよいよ、期末試験だ」
「キマツ……!」とリリィが小さくつぶやき、周囲もざわつく。
「大丈夫。今までやってきたことを出すだけだ。いつも通り、やればできる」
タカシの声に、クラスは少し安心したようにうなずいた。
◆
──放課後、校舎の裏庭。
「……“もしここを去ったら”、俺はまた、あの満員電車に戻るのか?」
タカシは呟いた。
ふと、カバンから《ミンナノニホンゴ》を取り出し、最終ページをめくる。
分厚い紙をめくる指先に、少しだけ力が入る。
思い出すのは、かつての日常。
電車に揺られながら、ふと思ったこと。
“教師になれたら”――ただの憧れだった。
けれど、今。
「……まさかこんな形で“日本語教師”になるとはな」
異世界、言葉の通じない地で、気づけば誰かに言葉を伝えることが“仕事”になっていた。
「……悪くない。悪くないけど」
タカシは教科書の背表紙をそっとなぞった。
《ミンナノニホンゴ 初級Ⅰ》
「家族も、友達も……俺の居場所は、やっぱりあっちの世界にある」
「帰りたいのか、帰りたくないのか……まだ、わからないな」
──つづく。




