【第21課】 クーニャの涙 〜しんじてる ト オモイマス〜
◆
──数年前、街の寄宿学校。
雨の夜、小さな部屋の片隅で、幼いクーニャは膝を抱えて泣いていた。
「……なんで、わたしだけ、ヘンなの……」
そのとき、そっと差し出された手。
「クーニャ、気にしないで。誰かに何か言われても、わたしはクーニャのこと、好きだから」
その少女は、優しく続けた。
「クーニャのこと、信じてる。わたしのことも、信じて」
その言葉だけが、長い間、クーニャを支えていた。
◆
──今朝、市場の通りで。
買い出しの途中、クーニャはふと、目の前を通り過ぎた人影に息をのんだ。
(……今の、あの子……?)
記憶に刻まれた顔。あの頃、唯一の友だちだった少女。でも──
声をかけられなかった。
(わたしのこと、覚えてるかな。今の“つくった笑顔のわたし”を見て、どう思うだろう……)
足は止まったまま、何も言えず、すれ違ってしまった。
◆
──その日の午後、授業は「〜ト オモイマス」「〜ト イイマス」の表現。
「今日は“考えや意見を言う”言い方を学ぶぞー!」
タカシが黒板に書きながら説明する。
・これは おいしい ト オモイマス。
・あしたは さむくなる ト オモイマス
・せんせいは きょう しゅくだいが ない ト イイマシタ!?
「“〜ト オモイマス”は、“わたしは〜と思います”って、自分の考えや気持ちを言いたい時に使う。
それと、“〜ト イイマス”は、人の言ったことを伝えるときに使えるんだ。」
生徒たちはにぎやかに例文を考えていたが、クーニャだけは手が止まっていた。
──「トモダチハ “しんじて”ト イイマシタ。
ふいに、昔の記憶がよみがえる。
◆──放課後の中庭。
授業が終わっても、クーニャは教室に戻らず、中庭のベンチにひとり腰かけていた。
夕暮れの風が、耳飾りをやさしく揺らす。
──“もっと、ふつうに話してみて?”
──“キャラ作ってるの?”
──“しんじて”
繰り返し頭に浮かぶ言葉たち。どれが本当で、どれが嘘だったのか。わからなくなっていた。
「……あの子に会って、なんでこんなに怖くなっちゃうんだろう」
「今の“わたし”って、あの子から見て……本当の“わたし”に見えるのかな……」
クーニャは、ぽつりと自分に問いかけた。
◆
そのころ、学生寮のロビーでは、生徒たちがざわざわと集まっていた。
「……さっき、中庭で一人で座ってた」
「さすがに変じゃない? いつものクーニャなら『おやつパーティーしよ〜』とか言ってる時間だよ」
「元気なふりしてても、ぜったいなんかあるよ……」
セイアがポツリと呟いた。
「……わたし、気づいてました。最近のクーニャ、音の強さがちょっと違ってたから」
ユウトがうなずいた。
「オレ、“クーニャが つらそうにしてた コトガ アリマス”。その顔……あの時と同じだった」
「じゃあ、話を聞いてみよう。ちゃんと、ことばで」
リリィが、真剣な表情で立ち上がった。
◆──そして、中庭へ。
「クーニャ、大丈夫……?」リリィがそっと声をかける。
「……うん、ちょっとだけ、つかれただけ〜」
そう笑ってみせたクーニャに、ユウトがまっすぐ言った。
「……無理しなくていいよ。オレたち、そういうの、わかるようになってきたから」
クーニャは黙って、少しだけ目を伏せた。
そして──ぽつりと、口を開いた。
「……子どもの頃、わたし、ちょっと変わった話し方してたの。声も高いし、語尾も変で、“キャラ作ってる”って言われて、すごく嫌だった」
「でも、そのとき唯一、言ってくれた子がいたの。『クーニャの話し方、好きだよ。しんじて』って──それが、ずっと支えだった」
「さっき市場で、たぶんその子に会ったの。でも声、かけられなかった。今のわたしを見て、幻滅されたらって……怖くて……」
セイアが、静かに言った。
「わたし……クーニャの声、好きです。本当の気持ちが、ちゃんと伝わってくるから──変えなくていいと思います」
「わたしも」
「オレもだ」
「ぜったいに」
最後に、タカシが言った。
「言葉って、“信じて”って言うためにあると思うんだ」
──“しんじて”かつての言葉が、今、目の前の人たちからも届いていた。
◆
その夜、クーニャは机に向かってノートを開いた。ゆっくりと書き始める。
「わたしは、みんなを しんじてる ト オモイマス」
書き終えた瞬間、ぽとりと涙がノートに落ちた。
けれどその顔には、かすかな笑みが浮かんでいる。
──言葉は、信じてもらうためにある。あの日の言葉も、今日のみんなの言葉も──ちゃんと届いていた。
◆
「センセ〜」
「ん?」
「ドーナツ食べたい」
「……このタイミングで!? いや、まあ……いいけどさ」
「やった〜〜♪」
クーニャは、いつもの調子で笑った。
けれどその笑顔は、どこか少しだけ、大人びていた。
──つづく




