【第20課】クーニャと素顔のキミ 〜 “ふつう”って何?〜
◆
──放課後の教室。
「……クーニャ、今日来てなかったな」ユウトがふと呟いた。
「最近は真面目に出てたのにね。前はちょこちょこ休んでたのに、センセイが来てからは皆勤だったじゃない」
リリィが心配そうに言う。
「授業がきらいになったってわけじゃ、なさそうだな」ヴァイスが腕を組む。
「……“きらい”じゃないからこそ、来られなかったのかもしれませんよ」
セイアの言葉に、皆の視線が自然と黒板へ向いた。
そこにはまだ、今日の文法が残されていた──
<普通形>
いきます → いく
いきません → いかない
いきました → いった
いきませんでした→いかなかった
◆
──数時間前。午後の授業。
「さて今日は、“普通形”をやるぞー!」
タカシが元気に板書する。
「今までは“〜ます”“〜です”っていう“ていねい”な話し方をやってきたよな?それを今日は“友だちっぽい言い方”──つまり“普通形”にしてみよう」
いきます → いく
いきません → いかない
いきました → いった
いきませんでした→いかなかった
「たとえば、『ごはん、たべますか?』じゃなくて、『ごはん、たべる?』みたいな感じ。カジュアルで、距離が近い関係で使える言葉だな」
「……でも、そんな言い方、近すぎると逆に失礼になったりしない?」リリィが手を挙げる。
「いいとこ気づいたな。実はそれ、日本語のむずかしいところでな。“ていねいすぎてもよそよそしい”、“くだけすぎてもなれなれしい”──ちょうどいい“言葉の距離感”が求められるんだ」
セイアが軽く頷いた。
「“音”だけじゃなく、“関係”もことばに現れる……ですね」
「その通り。“普通体”は、相手との“心の距離”を写す鏡みたいなもんだ」
「じゃあ練習してみようか。ペアになって、普通体で会話してみよう。“昨日なにした?”とか、“今日のごはんどうだった?”とか、何でもいいぞー」
◆
──ペアワーク中。
タカシの号令で、生徒たちは二人一組になり、「普通形」での会話練習を始めた。
「きのう なに した?」「スーパーに いって、やさい かって、カレー つくった」「いいなー!」
にぎやかな声が教室中に響く中──
クーニャとリリィも、机を向かい合わせていた。
「クーニャ、“きのう なに した?”」「えっとね〜、“しごと してね〜、それから おそく ねた の〜”♪」
「うんうん、いいね。……あ、せっかくだし、もっと“普通形”で話してみて?“してね〜”とか“の〜”とかじゃなくて、“した”“ねた”って言い切る感じで」
「……えっ?」
クーニャの笑顔が一瞬だけ止まる。
──“もっと、ふつうに話せないの?”
すっかり忘れていた、あの言葉がよみがえる。
クーニャの表情が急にこわばったのを見て、リリィが慌てて補足する。
「いや、違うの、クーニャのニホンゴが悪いんじゃなくて、今は“文法の練習”だから、ちゃんと形を意識したほうが……」
「あっ、うん、大丈夫〜〜! わたし、がんばる〜♪」
クーニャはいつもの調子で笑ってみせた。だが、リリィが次の問いかけを始めたころには、もう彼女の心は少しだけ遠くにあった。
◆
──その日の夜。学生寮の一室。
クーニャはベッドに座り、ノートを見つめていた。
「……“いく”と“いきます”。“いきません”と“いかない”。
いつも使ってる言葉なのに……なんで今日は、ヘンだったんだろう……」
ページには「たべる」「いく」「ねる」「ありがとう」「だいじょうぶ」……見慣れた言葉が並ぶ中に、ひとつだけ丸く囲まれた文字があった。
“しんじて”
その瞬間、昔の記憶がふっと浮かぶ。
──「なにその話し方、キャラ作ってんの?」──「なんか、軽くて信用できないよね」
──「もっと、ふつうに話せないの?」
子どものころ、笑われた自分のしゃべり方。「軽い」「うそっぽい」と言われて、言葉を選ぶのが怖くなった。
「だから、“元気キャラ”でいれば、誰も何も言わないって思ってたのに……」
──「もっと“普通形”で話してみて?今日の授業でリリィがペアに言った何気ない一言が、胸に刺さっていた。
「……わたし、“ふつう”って、なんだろう」
彼女の声は、ひとりごとのように、夜の部屋に消えていった。
──つづく




