【第1課】ヨロシクって、ナンノ イミデスカ?
「オレは……死んだのか?」
気づけば、そこは石畳の上だった。頭の下には乾いた藁。見上げた空は、妙に青すぎて嘘みたいだった。
サラリーマン歴14年、しがないおっさん――永田タカシ(ながた・たかし)・36歳は、ある日の残業帰り、駅の階段で盛大に足を滑らせた。その次に目を覚ました場所が、まさか異世界の王宮のベッドの上だなんて、誰が想像するだろうか。
「目覚めましたか、賢者様……!」
そんな大仰な呼び方をしてくるのは、見目麗しい金髪の巫女装束の少女。後ろには、長耳のエルフやら獣耳の兵士やら、ファンタジー全開の面々がずらりと並んでいる。
永田は頭を抱えながら、ぽつりと漏らす。
「えーと、なんていうか……ヨロシク……?」
その瞬間だった。
「い、今なんと!?」「ヨロシク!?」「伝説の言葉が!!」
王宮が、どよめいた。
◆
曰く、この世界では古代の高度文明を支えた言語――その名も「ニホンゴ」が、千年以上前に失われたという。
その“古語”を、目の前のおっさんが流暢にしゃべっている。しかも、文献でしか存在しないはずの「ミンナノニホンゴ」を手にして。
「おっさん」から一転、「伝説の古代教師」として祭り上げられたタカシは、翌日から王立学園の特別講師として『ニホンゴ教室』を任されることになった。
住居付き、食事つき、給料はやや渋め。でも、現代日本のブラックな日々に比べれば、まるで天国である。
◆
教室:初日。
「あ、あの……センセイ、ワタシノナマエハ……リリィ デス!」
ドラゴンの血を引く少女、リリィが小さな声で名乗る。紫の瞳が揺れている。
「うん、バッチリだ! じゃあ次の人も――」
「センセイ、ヨロシクって、ナンノ イミデスカ?」
そう言ったのは、貴族エルフのヴァイス。金髪のカールを指でいじりながら、鋭い視線をこちらに向けてきた。
「古文書によれば、“ヨロシク”とは命令形。何かをさせる言葉では?」
「いやいや、命令っていうか……お願いっていう意味に近いんだよね。ちょっとややこしいけど」
……と言ったものの、タカシは内心、かなり焦っていた。
(お願い? いや、違うか。感謝? いや、それとも挨拶……?)
(ってか、“よろしく”って結局どういう意味だよ!?)
口では「近いです」と言いながら、自分でも説明できていないことに気づく。日本語教師として、これではいけない。けれど、今まで生きてきて、「ヨロシク」とは空気のように使ってきた言葉だった。
深く考えたことなんて……なかった。
「……パワーワード……」とつぶやいたのは、ユウト=カンジだった。眼鏡の奥で瞳が輝く。
「“ヨロシク”――すなわち、強制力なき服従要求……その曖昧な圧力こそ、古代ニホン人の闇……!」
「やめなさいユウト、クラスが変な方向に行くから!」
タカシは教卓に手をつき、ゆっくり深呼吸する。
(思い出してみろ……“よろしく”って、いつ使ってた?)
――初対面のとき。「よろしくお願いします」
――仕事をお願いするとき。「よろしく頼むよ」
――別れ際。「じゃ、よろしくね」
――部下に。「明日からよろしく頼むぞ」
(ああ……そうか)
タカシは、静かに言った。
「“ヨロシク”ってのはな――これから関係を築くときに、相手に心を預ける言葉なんだ」
教室が、しん……と静まりかえる。
「まだ何も頼んでない。でも、これからあなたとうまくやりたいっていう……そういう、気持ちの先払いみたいな言葉だよ」
リリィが、小さく手を挙げる。
「……ワタシ、“コレカラ ヨロシク”ッテ、トモダチ ニ ナリタイ トキノ キモチ?」
「そうそう! ピッタリ!」
ヴァイスが腕を組み、ふっと微笑んだ。
「曖昧だが、悪くない言葉だ。言葉にすることで、関係が始まる……ふむ。興味深い」
ユウト=カンジも頷く。
「コレハ、コミュニケーションノ マホウ……!」
最後は生徒全員で声を合わせて――
「センセイ! ヨロシク オネガイシマス!」
その日、タカシは人生で初めて、「よろしく」という言葉の重みと温かさを、教師として噛みしめていた。
◆
夜、ベッドにて。
開いた文献のタイトルは――「ミンナノニホンゴ 第2課:コレ・ソレ・アレ」
「明日からは……物の指し方。これはこれで面倒そうだなあ……」
つぶやきながら、タカシは眠りについた。
異世界ニホンゴ教師、まだまだ先は長い。