少女と青年6
青年の友人の男性からすぐに絵本が届けられた。
帰ってすぐに手配してくれたようだ。
それは幼い子供向けの絵本だった。
この国の信仰について可愛らしい絵と簡単な言葉を使って書かれている。
幼い頃から親しめるように作られたものなのだろう。
ただこの国の文字を勉強中の少女には見慣れない単語や言い回しをすいすいと読みのは難しかった。
読めなかったり意味が取れない時は青年や屋敷の者が丁寧に教えてくれた。
少しずつ読み進めていく。
今日は休みで屋敷にいる青年の隣で少女は絵本を広げていた。
「猫が月の女神の御使いなんですね」
「そう。だから猫はこの国ではとても大切にされているんだ」
某国で牛が神聖視されて我が物顔で町を闊歩しているのと同じことだろうか?
まあ、猫はどこの国でも自由気ままに歩き回っていたけれど。
時には邪険に扱われたり、傷つけられたりしていた。
この国ではそんなことはなくもっと自由に伸び伸びと過ごしているのだろう。
だとしたら飼い猫などはいないのだろうか?
これはただの純粋な疑問だった。
「では飼うことはできないのですね」
「飼いたいの?」
「いえ、そういうわけではないのですけど」
そもそも少女は動物を飼ったことは一度もなかった。
もともとは母子家庭だった。
母はそれなりに稼げる職業に就いていたので貧乏ではなかった。
だがその代わり忙しかった。
その当時兄弟のいなかった少女は一人で留守番をすることが多かった。
正直に言ってしまえば寂しかった。
もっと母に傍にいてもらいたかった。
だけど忙しくも楽しそうに働く母にそんなことは言えなかった。
愛されているのはわかっていたから。
邪魔はしたくなかった。
母のことが大好きだったから。
母がいてくれる時はいつも笑顔で接していた。
ただ一緒にいてくれることが嬉しかったから。
一緒にいてくれる間は寂しさなんて感じなかった。
その分、一人で留守番をしていると余計に寂しさが募った。
でも寂しいからといって動物を飼いたいと思ったことはなかった。
世話が大変そうだということもある。
母に迷惑はかけられないとも思った。
だがそれだけではなく。
ペットよりも寂しさを分かち合える兄弟がほしかった。
物言わぬ動物よりも話せる兄弟がよかった。
もちろんそんなことも母には言えなかった。
そっか、と特に追及することなく青年は言う。
「飼うこと自体は問題ないけど、虐待なんてしようものなら重罪だ」
「虐待する者なんているのですか?」
「どこにでも信心深くない者はいるんだよ」
「なるほど」
婉曲ながらわかりやすい。
それにしても、万が一を考えると身震いがしてくる。
その虐待した猫が本物の女神の御遣いだったらどうなるのだろう?
天罰など下るのだろうか?
どのような天罰だろう?
そっと青年に手を握られる。
「落ち着いて」
いつの間にか震えていたようだ。
青年の手の温かさに落ち着きを取り戻す。
「もしも女神の御遣いを傷つけたら、と思って怖くなっちゃった
?」
青年にはお見通しのようだ。
「はい」
「まあ、そうだよね。普通は怖いと思うものだよ」
「それもですけど、どのような天罰が下るのか、と」
意外そうな顔だ。
天罰というものはないのだろうか?
少女の国の神々(の一部)やら某宗教の神やら知っている国や民族の神々やらが過激なのだろうか?
普通は天罰も下さない、人間に寛容な、あるいは無関心なものなのかもしれない。
「僕も神罰がどういうものか知らないな」
やっぱり……
青年がにっこりと微笑う。
「女神の神罰が下る前に人の手で罰が与えられるから。女神の手を煩わせるまでもない」
「え……?」
「それは太陽神の御遣いにしても同じことだ」
この国の信仰は二柱。
太陽神と月の女神だ。
それぞれに御遣いがいる。
「うちの国は信心深い者が多いんだよ」
神罰よりも怖いような気がするが気のせいだろうか?
顔がひきつりそうになりながら無言で頷いた。
そんな少女を安心させるためか青年が軽い口調で言う。
「まあ、御遣いを間違えるということはないんだけどね」
「そう、なのですか?」
何か明確な違いがあるのだろうか?
瞳の色や毛の色が特殊な色、とか?
他の猫に比べたら大きい、とか?
少女に思い浮かぶのはそれくらいだ。
「うん。女神の御遣いの猫は他の猫と違うよ。存在自体が光輝いていて一目で女神の御遣いだってわかるんだ」
まるで実際に見たことのあるような言い方だ。
でもそれを聞いていいかわからない。
「そうなんですね」
何故かじっと青年が少女を見てくる。
少女は首を傾げた。
「どうかしましたか?」
青年は微笑する。
「ううん。何でもないよ」
「そうですか?」
「うん」
これ以上は訊けない。
話してもいいと思えばそのうち話してくれるだろう。
そう自分を納得させる。
青年はするりと話題を戻した。
「あとは鷹だね。太陽神の御遣いだから」
少女は一つ頷く。
やはり光輝いているのだろうか?
太陽の光の中でも、いやだからこそその輝きはいっそう目を惹く、とか?
期待した目でもしてしまっていたのか、青年が微笑する。
「御遣いの鷹は一般的な鷹に比べて大きいと言われている」
「えっと、どれくらいですか?」
どれくらい大きければ間違えられないだろうか?
多少大きいくらいではわからないだろう。
青年が微笑をこぼした。
「気になるの、そこなんだ?」
「え?」
変なことを訊いただろうか?
普通に気にならないだろうか?
「いや。うん。大きさは大型の鷹より二回り程大きいらしいよ」
伝聞調だ。
そういう伝承なのだろう。
なるほどと少女は頷く。
「それで、」と青年は話を続ける。
「女神は寂しい者同士を引き合わせると言われている」
ぱちりと目を瞬かせた。
「寂しい者同士、ですか?」
「そう。"女神からの贈り物"と言われている」
青年が手を伸ばして絵本を捲る。
真ん中を過ぎた辺りで捲る手を止めた。
少女はそのページを覗き込んだ。
太陽神と月の女神、その傍らにはそれぞれ鷹と猫が描かれている。
「ああ、ここだね。ほら」
青年が文を指差す。
そこに書かれている文を青年に手伝ってもらいながら読んだ。
『ーー太陽神は鷹を、月の女神は猫を遣わす。
太陽神は鷹を、月の女神は猫を地上におつかいにやります。
ーー月の女神は孤独な魂を癒す。
月の女神は寂しい者同士を引き合わせて寂しくないようにする。
とても心優しい女神様なのです。
それは女神様からの贈り物なのです』
ところどころ難しい言い回しをした後で優しい言葉に書き換えられていたりする。
その難しい言い回しはきっと変えられないところなのだろう。
特に神話はそのような部分があるということは珍しくない。
その文字一つ一つに意味があるということだろう。
「そして太陽神は背中を力強く押してくれる」
促されて続きを読む。
『ーー太陽神は鷹を遣わし、背中を押す。
太陽神は鷹をお使いにして、力強く背中を押して踏み出せなかった最初の一歩を踏み出させてくれます』
まさに静と動、陰と陽だ。
二柱で一対の神々なのだろう。
「まあ実際は後ろから背中を勢いのまま蹴られたと言っていたけど」
ん?
実際にされた人がいる?
少女が驚いて固まっていると青年が微笑する。
「君が思っているよりずっと、御遣いは我々に関わっているんだよ」
もうただただ驚いて声も出せなかった。
そんな少女に優しく微笑むと青年は話題を変えた。
「それにしても大分読めるようになったね」
「あ、ありがとうございます。でも、やっぱり難しいです」
「いや、読めているほうだよ。もう幼い子供が読むくらいのものは習得できているよ」
「そう、ですか?」
「うん。もう少しレベルを上げたものを用意するように言っておくよ」
「ありがとうございます。頑張ります」
「無理しないで。焦らなくていいんだからね?」
「はい。でも小説なんかも読みたいので頑張ります」
「そっか。目標を持つことは上達の鍵だ」
「はい」
少女は捲られた分のページを戻し、続きを読み始める。
そんな少女を青年は優しい瞳で見守るように見ていた。
読んでいただき、ありがとうございました。




