初恋はシナモンの味がした
ラングス伯爵家で雇われて二週間。マーガレットお嬢様の侍女に抜擢されて三日目の朝、ミアは絶望の淵にいた。
実家である子爵家を十六歳で追い出され、あちこちのお邸を渡り歩いて雑用をすること五年。客として訪れたラングス伯爵に拾っていただいて得た定職。ここを追い出されると路頭に迷ってしまいかねない。
「あの、お嬢さま。やはりカーターさまに頼んだほうがよろしいのでは?」
「だめよ。おくりものは、じぶんでわたしてこそ、きもちがつたわるのよ」
「とても立派な心掛けでございますね、しかしながらおひとりで王宮に出かけるのはさすがに無理があるかと」
「わかってるわ。だからミアにおねがいしているのよ。わたしといっしょに、おじさまにもっていってあげましょう!」
だから、それが無茶なんですってば。
とは言いづらい。
伯爵家の至宝、皆に愛されるマーガレット嬢は、それはそれは可愛らしい五歳の女の子である。
ラングス伯爵家には跡継ぎとなる十五歳の息子がいるのだが、年を経て授かった第二子がマーガレットだった。
つぶらな瞳、ふっくらとした頬。ゆるくカールした淡い金髪。
はじめてお姿を見たとき、ミアは「ここに天使が降臨している」と感動したものだった。
その天使が、ミアが作ったお菓子を食べて「とってもおいしい」と瞳を輝かせ、「もっとたべたいわ」とおっしゃったと聞き、そのときばかりは実家で雑用ばかりを押しつけてきた義母と義妹に感謝してもいいと思わなくもなかった。いや、小指の先っぽぐらいの気持ちだが。
「ミアのおかしはとってもおいしいの。おじさまもよろこぶの」
「ありがたいお言葉ではありますが」
「じゃあ、いきましょう!」
「や、あの、ですからっ」
あわてるミアの傍に音もなく寄ってきた老執事のカーターが、マーガレットに聞こえないぐらいの小さな声で囁く。
「申し訳ありませんが、しばしお付き合いください」
「で、ですが」
「お嬢さまは現在、仕事というものに興味をお持ちなのです。使用人とご自身の立場の違いというものを意識する、よいキッカケでございましょう」
執事曰く、先日たまたま通用口にやってきた少年を見て、あれはなにかと問うたらしい。少年は親のお使いとして野菜の配達に来ていたという。
大人ではなく、自分に近しい年齢の子どもが働いていることに衝撃を受けたマーガレットは、「わたしもだれかにとどけものをしたいわ」と言ったとかなんとか。
伯爵夫妻はこれに大変感銘を受け、マーガレットの兄も「やらせてあげよう」と乗り気になる。
親バカと兄バカ、ここに極まれり。
ミアは眩暈がする。この一家は、遅くにできた待望の女の子を愛ですぎだろう。たしかに可愛いけれども。
誰になにを届けるのか。
白羽の矢が立ったのが、マーガレットが言う「おじさま」だったらしい。
彼の名はシルヴァン。伯爵家に来て間もないミアは会ったことがないが、マーガレットはこのおじさまに非常に懐いているらしく、父である伯爵が嫉妬するほどの心酔っぷりだとか。
シルヴァン氏は未だ独身らしく、「おじさまのおよめさんになる」発言を伯爵は恐れている。「初恋こじらせヘタレ男にはやらん」だそうだ。シルヴァン氏も気の毒に。初恋に殉じる、いいじゃないですか。
そのおじさまは王宮に勤めている。忙しいのか最近はまったく伯爵家に顔を出していないそうで、マーガレットはおかんむりだ。疲れているときは甘いものがいいと耳にした天使は、ならばお菓子を差し入れしようと考えたのである。
そのお菓子として、最近気に入っているミアの菓子を選んでくれたのはありがたいが、はたしていいのだろうか。王都で人気の菓子店から購入したほうがいいような気がする。
だが、王都の貴族というのは目新しいものがお好きなようで、手作り菓子という、他にはない珍しい一点物にも価値を見出しており、親しいひとにこそ『量販店より手作りを』という趣向らしい。同じく王宮勤めの伯爵が持参した茶菓子はシルヴァンのくちにも入って、美味しいと褒めていたとか。
それ、社交辞令では? とミアは思ったが、反論なんてできるわけもない。
使用人としてくちをつぐみ、なんだか知らないあいだに話が進み、なぜかミアが作った菓子を、おじさまなる人物に差し上げることとなり、それを届ける役目は幼いマーガレットが担うことになったのである。
マーガレットはあくまでこっそり出かけ、大いなる仕事をまっとう。みんなに褒めてもらったり、驚いてもらったりして、「もうすっかりお姉さんになりましたね」と言ってもらいたい気持ちが見え見えだが、五歳がひとりで王宮に行けるわけもない。マーガレット自身もそのことはわかっていたのか、同行人としてミアを選んだ。
というのを、マーガレットがお着替えをしているあいだ、カーター氏から聞かされた。
当然のことながら、五歳の考えなど周囲にはお見通しなので、安全に出かけられるように根回しはしてあるし、おじさま本人にも伝達済。王宮へ向かうまでの道のそこかしこに護衛を配置してあるし、途中で拾う予定の辻馬車は伯爵家が用意したダミーである。
王都へ来たばかりで地理に疎いミアが、きちんとマーガレットを王宮へ連れて行けるよう、そのあたりの準備も万端であった。呆れるしかない。
「マーガレットさまのはじめてのおつかいミッション。どうか見守ってさしあげてください、ミアお嬢さま」
「……あのカーターさん、お嬢さまはやめてください。私はもう子爵家を出た身です。貴族令嬢ではありませんもの」
「まったく、あの家はろくでもありませんね。ユリアさまの亡きあと、すぐさま後妻としてあのような者を招き入れ」
「そうやって大口を叩いて我が家を追い出されたカーターと再会できたのだから、わたしも実家を出てよかったのよ、きっと」
なにを隠そう、カーターはミアの実家にいた執事である。もともとは、ミアの母・ユリアに付いてきた男だったため、ミアの父は彼を好いていなかった。母が亡くなったのをいいことに暇を出し、カーターにとっての主人であるユリアが不在ならば用はないと子爵家を去っていった。
よもや再会するとは思っていなかったが、ほうぼうで雑用係をやっていたミアを見つけ、伯爵家で雇うように進言してくれたのはカーターだろう。
母が亡くなったのはミアが十二歳のときだった。そこから幾年月、再会してすぐに気づかれるとは思わなかった。
母と同じ黒髪のせいかもしれない。黒髪は王国の東側でも、特定の一族の血統らしく、数が非常に少ないという。
◇
マーガレットを伴って邸を出る。通用門からだ。
これはお忍びなので、正門から出てはならないらしい。
なにその謎のこだわり。可愛い。
本日の衣装は、スカート丈は膝が隠れる程度で、フリルもレースもついていない。富裕層のご令嬢、ぐらいの装いだ。
つばの大きな帽子をかぶり、こちらには大ぶりのリボンがあしらわれている。落としてしまわないよう、顎の下で細いリボンを結んであった。
肩掛けの小さなカバンには、ハンカチと飴。名前を書いた紙も入っていて、万が一にもはぐれたときは「走らず、騒がず、座って待つ」と約束してあった。
「えへへ、ミアとおそろいね」
「さようでございますね」
照れ笑いを浮かべるマーガレットさま、マジ天使。
ミアは拳を握る。
本日のミアはいつものお仕着せではなく、外出着を用意してもらっていた。
なにしろ向かう先が王宮である。伯爵家の者であることを証明する物は持参しているが、ドレスコードというものがあるだろう。ラングス伯爵家の名を背負っている以上、いかに使用人とはいえ無様な恰好はできなかった。
マーガレットが着ているものと似たデザインのドレス。さぞかし値の張るものだろう。
ミアとて元貴族令嬢であるから、どれぐらいの値打ちがあるのは察することはできた。だからあまり考えないようにした。
ミアはマーガレットのおまけである。
マーガレットの可愛らしさを損なわないための装い、その供にふさわしいものを着ているにすぎないからだ。
「ではお嬢さま、まずは馬車を拾いましょう」
「ひろう? ばしゃはおちているものなの?」
そういえば、なぜ『拾う』というのだろう。深く考えたことのない意味を問われ、ミアは悩む。
「言葉にはいろいろな意味がありますね。同じ言葉でも違う用途――やろうとしていることに使ったりします」
加えて言うと、住んでいる地方独特の言い回しもあったりして、言葉というのは難しい。
ミアの母は国の東地方出身だが、正反対の西側へ嫁いだ。
もともとこの国は、多様な民が暮らす複数の都市がひとつにまとまった国であるため、地方によって別の言葉を使ったりもしている。共通語から派生した言語を多く持つ風変わりな国家として知られ、中でも東西は独自色が強い。その両方出身の両親を持ったミアは、貴族のお邸では重宝されていた。
年配の閣下などは、頑なに共通語を使おうとせず、古くから馴染んでいるものを使いがち。それらを難なく聞き取り、あるいは発することができるミアはそういった場の通訳でもあったのだ。
「おなじくにでも、すんでいるばしょによって、ことばづかいがちがうのよね。でもそれは、おかしなことではないのだっておじさまがいってたわ」
瞳をキラキラさせてマーガレットが言う。
「あのね、おじさまはことばのせんせいなのよ」
「言葉の先生ですか」
おじさま情報をひとつ得た。
シルヴァン氏は王宮の文官だろうか。あるいは、若人へ知識を伝える講師のような役職かもしれない。
大通りへ出る道の手前。事前に打ち合わせた場所に、二頭立ての馬車が一台停まっているのが見えた。
御者台にいるのは、伯爵家の厩番のひとりだ。帽子を目深にかぶり、顔を見せないようにしているようだが、さきほどからチラチラと脇道を気にしており、ミアの姿を見たとき肩が跳ねた。
「よかったら乗っていか、いかが、いかがないか」
演技、ヘタすぎ。
幸いにもマーガレットは御者の上ずった声には気づかないようで、ミアの手を引いて、「ばしゃ、あれがいいわ」と足踏みをする。いまにも走り出しそうなのを我慢しているようすに、ミアは笑みを浮かべた。
偉いわ、お嬢さま。言いつけをしっかり守っていらっしゃる。
「はい、そうしましょうか。道の向こう側へ行くときはどうされるか、憶えていらっしゃいますか?」
「みぎとひだりとみぎと、まわりにだれもいないか、かくにん!」
「結構でございます」
手をつないで馬車のもとへ向かう。
マーガレットは大きなこえで「おうきゅうまでいきたいの」と宣言。御者役の男は笑み崩れて「参りましょう」と答えた。
揺れる馬車に隣り合って座る。床につかないため足をぶらつかせるマーガレットをたしなめつつ、ミアはミアで物思いにふけった。
まったくおかしなことになったものである。王都で暮らすだなんて思ってもみなかった。
憧れはあったけれど、母が亡くなり、やって来た後妻とその連れ子が大きな顔をするようになったため、ミアはおよそ貴族令嬢としての教育を諦めざるを得なくなった。地方にある初等科学院を卒業したあと、王都の貴族学校へ進学する予定だったけれど、その権利は義妹へ移ってしまったからだ。
幸いにも、母からひととおりの教育は施されていた。
母の生家については濁されてしまったので多くは知らないのだが、それなりに厳しい家に育ったのだろう。淑女のマナーについては徹底的に叩きこまれたし、勉学についても同様だ。
母はじつはとても頭のよい才女だったのではないかとは、家を出てから気づいたことだ。おかげで、渡り歩いて生きてこられた。
いまなら、カーターに訊ねれば教えてくれるのかもしれない。
母は、どんな娘だったのだろう。
どこで、どんなふうに育ったのだろう。
ミアは、母のことをなにも知らない。
◇
「ねえ、ミアはおうきゅーにいったことはある?」
「ございませんね。わたしは王都にも来たばかりなんですよ」
「どこにすんでいたの?」
「いろいろなところです。長くいたのは西にあるリスボという都市なんですが」
「しってる! おじさまもそこにいたことあるっていってたわ」
「まあ、そうですか」
おじさま情報、その2を得た。これは実際にお会いしたとき、話の糸口がつかめるかもしれない。
宮廷職員が各地方の支所へ配属され、一定期間を経て王宮へ戻るのは、よくあることときく。
いわゆるエリート文官。おじさまはさぞ優秀な男なのだろう。渋いイケオジは好きだ。
膝の上に載せてあるバスケットの底からは、ほんのり熱が伝わってくる。今朝焼いたクッキー。
わずかな香りが漂い狭い室内に漏れてくると、隣のマーガレットのお腹がくうと鳴った。
朝が早かったせいだろう。昨夜は楽しみすぎてなかなか寝ついてくれなかったし、朝食時も気がそぞろで侍女頭に叱られていた。
「すこしだけお食べになりますか?」
「いいの!? で、でも、だめ。だめよ、だっておじさまのだもの」
いえ、そんなふうに目をバスケットに釘付けにしたままで言われましても。
ここで「じゃあ、やめましょう」なんて言えるひとがいるのか、いないでしょう!
「大丈夫です。そのときは、ミアが味見で食べてしまったと言ってくださいませ」
「……ミアはわるくないもの。だめなことをしたら、ちゃんとごめんなさいってしないといけないのよ」
「では、一緒に悪いことをして、一緒におじさまに叱られましょうか」
蓋を開け、中からクッキーを二枚取り出した。ココア味をマーガレットに、シナモンを練り込んだものを自分用に。
いただきますをして、ふたりで食べる。出来立ての香りは格別だが、食べるときはやはり、すこし冷めてからのほうがいい。
「ミアはおとなね。シナモンのクッキーはからいのに」
「そうですね。わたしも子どものときは、同じことを思いましたよ。一緒に食べた子と、似たようなことを話しました」
王都から派遣された役人家族と、多少の交流があった。
その家には、ミアより五歳年上の男の子がいた。薄紫の瞳が印象的な美少年。名はレノ。
一緒に遊んだり、母講師による勉強会に並んで参加したものだ。お茶受けに提供されたシナモン味の焼き菓子がふたりして食べられず、母は笑っていた。
なんだか悔しくて、その男の子と一緒に「打倒シナモン」を掲げ、それを美味しく食べられるようになろうと野望を掲げたものだった。
子どもというのは、ひどくどうでもいいことに対して夢中になれるものである。
母が亡くなったことと、役人の任期が満了したこと。
どちらが先だったのかは忘れてしまったが、一家とはそこで縁が切れた。
そう考えると、母側の知り合いだったのかもしれない。
「おじさまはシナモンがすきになったっていってた。ミアは?」
「わたしも好きですよ。いつかマーガレットさまも美味しいって思うようになりますよ」
「そうかしら。おとなのレディになれるかしら」
「なれますとも」
「ミアみたいになれる? あのね、わたしはミアみたいなすてきなひとになりたいの」
なんて可愛いことをおっしゃるのか、この天使は。
頭をぐりぐりしたい気持ちをなんとかおさえ、ミアは「嬉しいです」と笑うにとどめた。
◇
さすが王宮は立派であった。門番に用件を伝え、ラングス伯爵家の紋が入ったカードを見せる。
マーガレットは首にかけてあるロケットペンダントを見せた。蓋の裏には伯爵家の紋があり、マーガレットの名も刻まれている。貴族の子どもが持つ身分証のようなものだ。迷子札ともいう。
かつてはミアも持っていたが、今は手元にない。若気の至りで渡してしまった。
自身の判断で動くことができる年齢になれば、あのロケットペンダントを持ち歩く必要はなくなってしまう。
とはいえ、幼少期に肌身離さず持っていたそれを捨て置くのもしのびない。
ということで別の目的で使用するのが流行った。
ロケットペンダントに自分の絵姿を入れ、他者へ渡すのだ。
たとえばお世話になった乳母や侍女。屋敷を辞めるときに渡したのが始まりとされているが、やがてそれが「好きなひとに渡す」という意味を持つようになったりもして。
まあ、つまりはそういうわけである。
ミアのロケットペンダントは、レノ少年が持っている、はず。彼が捨てていなければ。淡い初恋の思い出だ。
王宮を歩いていると、そこかしこから視線が飛んでくる。
さもありなん。マーガレット天使がおわすのだ。目に止めないほうがおかしい。
しっかりと手を握り、先導者の男性に張り付くようにシルヴァン氏のもとへ向かう。やがて辿り着いた重厚な扉をノックし、案内人が声をかける。
「お連れいたしました」
「ありがとう、下がっていい」
中から返ってきたのは、思っていたよりも若々しい声だった。秘書か誰かだろうか?
声を聞いた途端、マーガレットはミアの手を振りほどき、扉の中へ飛び込んだ。ミアはあわてて追いかけて、その先にいた人物を見て固まる。
自分より幾分か年上であろう美丈夫がいた。
ゆるく結わえた淡い金色の長髪はマーガレットと同じ色で、整った顔にも共通点がある。
おじさま?
ああ、うん。たしかに年齢は訊いていない。
その単語から勝手に年配者を、伯爵と同年代の男性をミアがイメージしていただけだ。
だが五歳から見れば、親族男性はおしなべて「おじさま」だろう。たとえ二十歳そこそこであろうとも。
「おじさま、とどけにきたわ!」
その言葉にハッとして、ミアは前に進み、胸の前に抱いていたバスケットを差し出す。
「マーガレットお嬢さまからのお届けものでございます、シルヴァンさま」
「おじさまがミアに会いたがってるって、おとうさまが言っていたから、わたしがとどけにきたの、すごいでしょう、おじさま」
ミアは首を傾げた。
会いたいって、わたしに? 新しい使用人の顔が見たいということ?
思わずシルヴァン氏の顔を見る。
彼のほうも驚いたようすで、マーガレットからこちらに目を向け直したところで、視線が絡んだ。
透き通った紫水晶のような瞳に見据えられ、ミアの胸が騒いだ。どこか見覚えのある美しい色の瞳――
「ミアなのか? 本当の本当に?」
「もしかして、あなたレノ?」
そこに、ドバンと大きな音を立てて扉が開き、男性が入ってくる。マーガレットが「おとうさま!」と叫んだとおり、彼はラングス伯爵であった。
「わたし、ちゃんとおしごとできたわ。おじさまにミアをおとどけできたのよ」
「さすが私の娘、なんという天使! シルヴァン。おまえは今から休憩だ。ミアが持ってきてくれた菓子を存分に味わいたまえ。おーっと、休憩といえどそういう意味ではないぞ、節度は持つように。味わうのは菓子だけにしとけよ! はっはっは!」
「……叔父上」
娘を連れ、伯爵は慌ただしく去っていった。相変わらず楽しい方だ。
そうして部屋に残されたのは、ミアとシルヴァン。
「ひとまず、座ってくれ。状況が理解できていないんだが、君は、あのミア、でいいんだよな?」
「それはこちらの台詞です。レノというのは偽名かなにかですか? 田舎の地方貴族の娘に、適当な名前を――」
「それは違う。僕の名前はシルヴァン・レノ・サヴォワ。祖父がシルヴァニオという名だったから、子どものころはレノのほうを名乗ることが多かった。それだけだよ」
豪奢な執務室には給湯設備が備え付けられており、ミアは断りを入れてから、紅茶を用意した。そのあいだシルヴァン――レノはバスケットから焼き菓子を取り出し、皿に盛っている。
茶器を持って戻り対面に座ると、それを待っていたように話を始めた。
「この棒状の固焼きクッキー。他では見たことがないんだ。ナッツが入っていてシナモンが効いている。ユリア殿が作ってくださったものと同じこれを叔父上が持ってきたとき、すごく驚いたよ」
「たしかにこれは母のレシピですが」
「作った女性の名前はミア。あのカーターが心酔する元主人の忘れ形見だって言われて、もう間違いはないと思ったんだ」
カーターはすべて知っていたようだ。母の授業に同席していたから、レノのことだって記憶していただろう。当然、ミアの気持ちにも気づいていたに違いなくて。
ひどいお膳立てもあったものである。まったく、なにが「マーガレットさまのはじめてのおつかい」なんだか。
「すぐにでも会いに行こうと思ってたんだけど、なんか仕事が山積みで、そのうえ叔父上にはミアの話をたくさん聞かされて。あのひとはね、マーガレットが僕を好いてくれてるのに嫉妬してるんだよ、ほんと大人げないよね」
五歳の従妹を可愛がってなにが悪いんだよ。
頭を抱えるレノの姿が、子どものころに重なる。年上なのに、どこか子どもっぽいところがあるひとだった。そんなところが可愛いなとひそかに思っていたのだが、大人になってもその気質を保っているとは。
うん、可愛い。
ミアはそういうひとが嫌いじゃない。素敵だなと思う男性は、茶目っ気のあるひとが多かった。
なんのことはない。ミアだってじゅうぶんに初恋の君を引きずっているのだと気づいて、笑ってしまう。
「笑わなくてもいいじゃないか」
「いえ、違うんです。伯爵がおっしゃっていたことを思い出して」
「叔父がなにを?」
「初恋こじらせヘタレ男にはやらん、ですって」
言うとレノは顔を赤くして、さらに頭を抱えた。
「笑えばいいだろう」
「笑いませんよ。だってわたしも同じだなって気づいたところですからね」
「同じって?」
だからミアはポケットからそれを取り出す。蓋を開けて、中が見えるようにして、ペンダントロケットを机に置いた。
絵具の色はややくすんでいる。開けたり閉めたりが多いせいで、劣化が進んでしまったのだろう。けれど、描かれている少年の瞳が紫色をしていることは揺るがない。
驚きに目を見張る男は立ち上がり、自身の執務机へ向かう。引き出しを開けて何かを取り出すと戻ってきて、同じようなものをミアが置いたペンダントの隣へ並べる。
中にあるのは、やはり劣化が進んで色褪せた絵。けれど、黒い髪をした少女であることはすぐにわかる。顔は平凡そのものだが、髪の色は異質である。
思い返せば、ミアは黒髪、レノは薄紫の瞳。
特徴的な色を持っている者同士、連帯感を覚えたことが仲良くなるキッカケでもあった。
「マーガレットさまから聞きましたよ。シナモン、好きな味になったそうですね」
「あー、まあ、そうだね」
「それはいつごろでしょう?」
「……い、いつだった、かなあ」
このひとも嘘がヘタだな。
ミアが呆れた目で見ていることに気づいたのか、レノは歯切れ悪く、やや視線を逸らせながら呟く。
「王都に戻って、シナモンの香りを嗅いだとき、思い出したんだ」
「なにをですか?」
「ペンダントを交換したときのことだよ。具体的には、そのあとのことなんだけど」
「そのあと、ですか」
ミアが過去に思いを巡らせていると、レノはさらに言葉を続けた。
「そして、シナモンが効いた菓子を食べてさ、くちの中にその味が広がってね。ああ、この味はって。あのときミアと――」
「ストップ、わかりました、わかったのでもう言わなくていいです」
それ以上言わせてなるものかと制止したのに、レノは逆にちからを込めて話しだした。立ち上がり、ミアの隣に腰かけてくる。
距離が、距離が近い、急に近い。
「ものの本によれば、はじめてのくちづけは、レモンの味がするとか、ハチミツのようだとか、諸説あるけれどね。僕にとってはシナモンの味だったよ。ミアはどう?」
なんて意地悪なことを言い出すのか、このひとは。
そんなもの、決まっているじゃないか。だってあのとき、わたしたちは母のレシピで作ったシナモンクッキーを一緒に食べていたのだから。
涙目で睨むと、すぐ近くに整った顔があった。片方のくちびるを吊り上げ、にやりと楽しそうな笑みを浮かべている。
こんな表情は知らない。素直で可愛いレノ少年にはなかった、大人の顔。
蠱惑的な笑みに心臓が高鳴り、顔に熱が集中してくるのが自分でもわかる。
透き通った紫の瞳がきらめく。その輝きにミアが映り込んでいる。眩しくて見ていられない。
近づいてくるそれに思わず瞳を閉じた。
温かい息と柔らかな感触。
過ぎ去った遠い昔の、幸せだった子ども時代の思い出がよみがえり、なんだか泣きたくなった。
「やっぱりシナモンの味がするな」
「……道中、馬車でお嬢さまと一緒に試食をしました」
「お行儀のよいあの子にしては珍しい行動だ」
「叱らないであげてください。そそのかしたのはわたしなので」
「叱ったりはしないさ。あの天使は、僕に大切なものを届けにきてくれたんだから」
そう言って笑った顔は、ついさっき見せていた艶やかな顔とは異なり、どこか懐かしい無邪気な笑顔。
その笑みにホッと緊張がゆるんだとき、レノのお腹がくうと鳴る。連動するようにミアのお腹も音を奏でた。
思わずお見合い。
そしてふたりで笑い、今度こそ焼き菓子に手を伸ばす。
対面ではなく隣に座り、紅茶を飲みながらひとしきり昔話に花を咲かせた。
◇
若き言語学者としてその名を知られるサヴォワ公爵の五男、シルヴァン・レノ・サヴォワに遅まきながら春が来たニュースは、王宮を駆け巡る。
彼を射止めた女性はいったい誰なのか。
既婚未婚を問わず、多くの女性たちが注目したお相手は、遥か昔に王国の東部地方を統べていた旧王朝の血を引く女性だと判明。
その威光を知らない物知らずな未婚令嬢たちが彼女の異質な容姿を笑い、シルヴァンの怒りを買ったことで、国内の貴族階級が入れ替わったという話もあるが、関連があるかどうかは定かではない。
恋人にかかわることには暴走しがちな男に対して黒髪の姫が怒り、彼女の許しを得るためにシルヴァン本人が王宮のキッチンを借りて、なにやら菓子を作って献上し仲直りしたという逸話もある。
彼が使ったキッチンには、いつも決まってシナモンの匂いが充満しており、不思議に思った料理長が理由を訊ねたところ、こう答えたという。
初恋はシナモンの味がするものさ。
このタイトルで作品ページへお立ち寄りいただいた読者さま。
最後までお読みいただき、どうもありがとうございました。
ブックマーク、いいね! ★★★★★等で応援していただけると嬉しいです。
補足1
カーター氏は旧王朝に仕えていた一族の末裔で、忍者です。忍者です。
大事なことなので二回言いました。
忍者です。
補足2
一緒に暮らしているラングス伯爵家の長男くんは15歳。ミアは21歳で、シルヴァンことレノは26歳。
レノさんは勿論、気が気じゃありません。15歳にも嫉妬です。大人げない。
足しげく伯爵家を訪ねるようになり、マーガレット天使はご満悦です。
そして伯爵は機嫌が悪くなり、実はレノの上司なので、仕事が上乗せされる悪循環。
その他、設定裏話は活動報告にあるので、ご興味のある方はどうぞ!
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