イケ獣0.灰色狼_ガオ
汚臭を纏い、侮蔑の視線に刺される。
「きったねーなー」
「死ねよ!」
離れた場所で野菜売りの母子が立ち止まった。2人が背負った籠の襷は汗と汚れで色褪せ、肩に食い込んでいる。母親が子供に言い聞かせる。容赦ない嫌悪の目が私を貫く。
「悪さばっかしてっと、ああなっちまうよ」
どこからか投げつけられた石が檻にぶつかり、金属音を鈍く鳴らした。多くの石が投げられても、檻の中まで届くことはほとんどない。檻は網で覆われている。
母親に手を引かれていた子供は、周りの大人達を恐る恐る見て震えていた。
「オ、オレ、母ちゃんの言うこと聞く」
下の下の下の人間、それが私。
1日の多くを檻の中で過ごす。
檻には違いないが、屋根があり雨を防げる。縦横10尺(3メートル程)の広さ。3面が鉄格子、1面は壁。壁の一部に檻の出入り口と厠の扉がある。
中央に切り株があり、それをテーブル&椅子として使う。寒さを凌ぐための綿入りの布もある。季節は春。食べられる野花を摘んで、市場で売るころ。まだ肌寒い日もある。
「ははは」
「やれって」
10歳くらいの裸足の少年達が数名、ニヤニヤと笑いながら檻の前に来た。
!
袋から蛇を出す。
私が目を見開いた、その時。
しゅたっ
少年達の前に1頭の灰色の獣が立ちはだかった。まるで舞い降りるかのように視界に現れた獣は、少年達を威嚇する。少年達はごくりと唾を飲む。今にも飛びかからんばかりに身を低くする獣。
「うー。ガルルル」
大きな犬。
少年達は逃げ出した。蛇を投げつけて。蛇は頭を持ち上げちろちろと赤い舌を出す。獣は前足でペシっと蛇を叩いた。一撃。蛇はくたりと動かなくなった。
檻があって殴られることはない。網があって石が中まで飛んでくることは殆どない。でも蛇は網の間から入ってきてしまう。危なかった。
「ガオ!」
人垣の中から飼い主が現れた。左の肩の後ろに見えるのは長銃。猟師だろうか。だとすると、ガオと呼ばれた犬は猟犬。ガオは、ととととっと小走りで飼い主のもとに戻っていく。灰色の毛がふわりふわりと揺れる。その優雅な後ろ姿に思わず目を細めた。
「ありがとうございますっ」
離れたその男に届くよう、大きな声でお礼を告げた。男は左手を軽く挙げて答えただけ。下の下の下の女と口をきくのも嫌かもしれない。
男は犬の体を両手でわしわしと撫でる。犬はぐーぐーと喉を鳴らして男に体をこすりつける。1人と1頭の姿は、悪意に塗れた人々の中に消えた。
見ていた見張りの兵士が悪戯っぽく親指を立てる。
「イケメンだったな、香香」
最初、見張りの兵士たちは、一様に、能面に侮蔑の視線を貼り付けていた。けれど1人2人と挨拶を返してくれるようになり、今では喋るようになった。
裸足の私に草履をくれたり、寒い日に檻の近くで焚き火をしてくれたり、食べ物をくれたり。親切。
『帰っても辛いんだろ? ちょっとはここで温かいもんでも食ってけ』
『ありがとございまっす』
『あんな綺麗なのにな。サディストなんて』
そうやって喋っていて、李氏様のゴシップを仕入れた。
李氏様殺害未遂後、屋敷内で使う私の履き物に鈴がつけられた。お咎めはなし。翠蘭ラブの李氏様は、翠蘭ポイント稼ぎをしたくて私に甘いのかも。もとより、囚人のような扱われ方だし。
屋敷。夕食を食べた後、自室でドベーっと長椅子に寝転んでいると、李氏様がやってきた。
もう少し寛ぎたかったと思いつつ姿勢を正す。
「香香、蛇に襲われそうになったって? 大丈夫だったか?」
「大丈夫です。ガキの悪戯です」
「今後はああいったことがないよう、しっかり見張るように、言っておいた」
「ありがとうございます。
今日はわんこが助けてくれて」
私の言葉を、李氏様が正す。
「犬ではなく、灰色狼だったそうだ」