ビジネス下の下の下
李氏様は眠ってしまった翠蘭を見て微笑み、抱き上げて静か寝具へ運んだ。とても大事そうにそっと布団をかける。頬にかかった髪を指ですっと整える。
「綺麗ですもんね、翠蘭。心も」
すーすーと寝息を立てるリアル天女。
「私は外見と肩書き以外、大したことはないが、翠蘭を想う気持ちだけは誰よりもある。大したことない私でも私以外にできないことをしている。自分を自分たらしめる存在が翠蘭なんだ」
? 自分自分たらたら??
「なんか、分かんないっす」
「まあいい。で、もう1つの噂は。香香。分かってるだろ?」
李氏様はじっと私を見据えた。
2つ目の噂は、李氏様がサディストで女を痛めつけて死んで行くのを見るのが好きというもの。
なぜそんなことを言われるのか、私はよーく分かっている。当事者だから。
この李氏様の屋敷には、下の下の下が運ばれてくる。そして、下の下の下が暮らし、出ていく。最後に出て行くときは死体になるか狂人になるか。
火があったから煙がもくもくと立ち昇ってしまった。
翠蘭の喉を潰したのが李氏様ではないとすると、李氏様はサディストじゃない。何人もの女を死と狂気に導いたのは人々。その辺を歩いて普通に生活をしている人々。
私の仕事は下の下の下。人々が嫌い憎み蔑む標的。
対価として、3食と快適な寝床が与えられる。
数ヶ月前、契約が成立した。下の下の下契約とでも言えばいいのだろうか。
そのとき李氏様は、身分の低い私に対して頭を下げた。価値観によっては、それほど過酷なことだった。
李氏様は、下の下の下について語る際、まるで言い訳のように長めの前置きから始めた。
『この国は東を海、西南北を別の国に囲まれている。名は?』
『ない』
『なんと呼ばれていた?』
『おいとか、お前とか、クソあま』
答えると、李氏様は気の毒そうに、ほぅと小さく息を吐いた。
『では香香と呼ぼう。香香は西の国境付近の戦争孤児だろう』
『そうです』
私は攫われて連れてこられた。西の外れから国の東の方にある都へ。
『隣国と陸続きの国境線は何度も変わり、この国には様々な人々が暮らす。戦いのときはいい。一丸となって国を守る。しかし平和が続くと、人々は攻撃を近くの者に向ける。国境付近で小競り合いはあるものの、我が国は概ね平和。そうなると人々は……要するに、喧嘩する。内乱になる。攻撃が政治に向く可能性もある。皇帝が恐れるのは、内部から国が瓦解することだ』
『がかい?』
難しい言葉に首を捻る私に、李氏様は『壊れること』と言い換える。
『何十年も前、小さな暴動が各地で起こった。そのとき、ある者が不思議な言葉を聞いた。最も下位の者に人々の憎悪、悪意、侮蔑を向けさせよと。そして下の下の下ができた』
『……下の下の下』
『最初に言っておく。無理強いはしない。
下の下の下になって欲しい。
もちろん、褒美は弾む。
辞めたいときに辞めればいい。
週に4日、ある場所にいる。それだけだ。朝、ここで朝食を摂り、粗末ななりでそこへ行く。昼は粗末な食事をし、日が傾くころ、ここへ戻る。湯浴みをし、食べたいものを食べ、眠る』
『それ、サイコー』
『そうか。辛いぞ』
3食と寝床があって何が辛いのか想像できない。
荒地、砂塵、岩山。私は西の国境近くの戦争孤児。まともな家はなく、洞穴や廃墟、あまり人が来ない倉庫などにネズミのように暮らしていた。3食どころか何も食べられない日もあった。冬の寒さは死と隣り合わせ。
戻っても、もう家族はいない。
獣に襲われるか、人間に襲われるか、同じ境遇の誰かの女になるか、街で体を売るか。そんな選択肢しかないところに、突如として現れた新メニュー。棚ぼた。
下の下の下。その仕事、いただきましょう!
『どこが辛いのか分かりません』
『今までの者には続けられなかった。香香のために話しておこう』