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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
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鍵をかけて

作者: 荊汀森栖

 海風が、柾木の長く伸びた淡い茶色の髪を乱す。

 ここに来るのは随分と久し振りだ。

 車から降りて見上げた先には、まあるいドームを戴いた建物。

 私設の天文台は小さな山の中腹にあった。

 海に近いこの土地は、いわゆる高級住宅地と呼ばれる地域に位置し、維持するだけでも少なくはない費用を要する。

 だが、この建物は柾木が相続した遺産の一部に過ぎない。

 雲ひとつない青空を見上げた時、苛烈なあのひとを思い出した。

 記憶の底に沈めようとしても決してぼやけない、自分の一部であるというのに制御出来ない。侭ならない想い。

 ふわりと、不意に気持ちが冬風に乗ったのだ。

 キーケースに眠らせていた鍵を手に、柾木は記憶に刻まれた道を辿った。

 

 遺言書を見せられた時には、なんの冗談かと思ったものだ。

 相続放棄するつもりで、確認のため書類の束に目を通していた柾木は、そこに記されていた一文に目を奪われた。

『遺産を放棄する場合、建築物等の固定資産は全て解体し更地として売却する事』

 酷い人だと思った。

 恋人を亡くしたばかりの男に、全てか無か選べという。

 遺言書を読まなければ遺産放棄の書類を渡さないという二段構えの条件付けまでして、現実を突き付けられた。

 それほどまでの執着を見せるのならば、いっそ死出の旅路を共にと望んでくれたら良かったのに。病すら隠し通して逝ってしまった。

 あの頃の柾木は、自分も切り捨てられたのだと絶望し荒れた。

 若かったのだとは言い訳でしかない。

 初めての恋だった。

 自分のセクシャリティを自覚する間もなく彼に惹かれた。

 まるで嵐に翻弄されるようだった。

 青かった――と、今なら思う。と同時に、純粋に彼に溺れられた自分を羨ましくも思うのだ。

 あんな恋は二度とは出来ないだろう。

 幸福な日々は突然に奪われた。

 あの胸の痛みを記憶の淵に沈めることが仮に出来たとしても、柾木が彼を忘れることはないだろう。

 今でも愛しているのだから。


 

「ただいま。祥吾さん」

 コンクリートの冷たさと木の温もりが混在する内装は、彼がデザインしたものだ。若さゆえに知る人ぞ知る存在ではあったが、確かに稀有な建築デザイナーだった彼は、その長くはない人生の中でも数多くの作品を世に遺している。個人住宅から企業社屋、美術館など。依頼を受けデザインした物件は多岐に渡るが、彼が自身のために創ったのは、この別邸と自宅だけだった。

 その双方に、柾木の思い出が染み込んでいる。

 自宅は物件資料を集めた資料館兼事務所として、デザイン事務所の後継者に全てを任せている。仕事関係は、柾木は一切関与していない。

 ここも、外部の業者に管理と施設維持を一任したきり近寄りもしなかった。清掃は月に一度。年に一度は設備の定期点検と稼働確認を依頼している。立ち入るものを厳選し、妄執を具現化したような条件で、嫌がらせのような契約を課し縛っているため、小物一つに至るまであの頃と変わらず時が止まったかのような姿を柾木に晒す。

 まるで、昨日まで共に過したかのようで、気を抜くと彼の幻を見そうだと柾木は思う。

 無意識に探してしまう。

 五年も経てば色褪せそうなものなのに、と自嘲する。

 逃げるのに疲れ、諦め、記憶の中に彼を追い求めて。いつの間にか柾木は恋愛小説家になっていた。

 大学を長期休学し、復学するタイミングを逃したまま退学した。何を学ぶべきか分からなくなっていた。就職活動もしなかった。彼のいない世界に意味など見出だせない。初めは心配していた周囲も、まるで、遺産のせいで柾木が身を持ち崩したと言わんばかりの批判をするに至っては、相互理解は叶わないと距離を置くことにした。

 甘えなのだという。

 一生、食うに困らないだけの資産を柾木は相続したのだから、そうやって自堕落でいられるのだと。

 食事を受け付けず、何度も倒れ入退院を繰り返し、それをパフォーマンスだと罵られる。ストレス過多で眠ってばかりいた頃は薬物中毒を疑われた。

 彼以外どうでもよかったので、関係を切るのは安易かった。

 実家とはとっくに縁を切っていた。

 彼らには、自宅の設計を依頼したデザイナーに息子を誑かされたという認識らしい。今となってはどうでもいいが、あの頃は未成年だったせいで問題が大きくなった。自分が好きになったせいでと思い詰めた事もある。だが彼は受け入れてくれた。

 家族に捨てられ、彼に拾って貰った。幸せだった。

 ここは幸せの象徴だ。

 どうして捨ておけたのだろう。

 こうして戻ってしまえば、時間すら巻き戻る気がした。

 鍵をかけ封じていた思いが溢れた。

 今ままで自分が書いていたのは、上っ面でしかないと自覚してしまった。本当の彼はここに居たのに――。

 もう、偽りの日常には戻れない。

 柾木は上着の隠しからスマートフォンを取り出すと、着信履歴から一つの番号を選び出す。

「――是枝さん。ご無沙汰しております、柾木です」

 会話に集中すると、ふわりと何かに包まれる心地がした。

「ええ、ホテルは引き払います。仕事はどこにいても出来るので、今週中にはこちらに引っ越そうと……はい、役所関係の手続きを是枝さんの事務所に依頼したいのですが」

 瞳を閉じれば、まるで彼が隣にいて見守ってくれているような感覚にとらわれる。

 懐かしい。僕はここへ、彼の元へ帰って来た。

 幻覚でいい。幻想で構わない。逃げるのにも求めることにも疲れてしまった。

 正常な振りすら虚しいだけだ。

 心に鍵をかけても彼への想いは溢れてしまう。

 五感に感じる全ては彼との記憶を呼び覚まし、それは柾木の全てだった。

 思い出の中で生きたとしていったい誰に迷惑をかけるというのか。

 僕はもう、ここだけでいい。

 過去だけで構わない。彼だけでいい。

 柾木は、柔らかな繭に包まれるように、夢と現を曖昧に過ごすことを選んだ。

 光を多く採り入れる建物は、優しく柾木を守ってくれた。

 まるで楽園のように。

 


 天文台のメンテナンスに訪れるエンジニアと二度目の恋に落ちるまで――柾木は亡霊のように生きた。

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