Aパート 2
ザギほどの男ともなれば、いちいち目線を巡らせずとも気配の有無くらいは確認できる。
ヌイを伴い、先の廊下からほど近い、城中の裏庭と呼ぶべき場所に足を運んだザギは、開口一番妹にこう告げた。
「ウルファ……今すぐ魔界に戻れ。
……他の者には勇者を倒した後、この兄が話をつけてやる」
「…………………………」
それに対するヌイの返答は、沈黙のみである。
汚れぬように洗濯カゴを置いた妹は、何を言うでもなく、ただ兄から視線を逸らしていた。
その様子を見てため息をついたザギは、自分も手にしていた荷物や命より大事な細長い包みを地面に置き、なおもヌイへ詰め寄る。
「ルスカやラトラも大層心配していたぞ。
夜中のことだったゆえ、カラスで見たわけではないが……。
お前に付けておいたセンピめが敗れたことは分かっている」
カラスの偵察を通じ……。
どうやら、ヌイの影からセンピの気配がなくなったことを直属の上司たる幽鬼将ルスカは察知していた。
それで三将軍は、経緯こそ分からぬもののかの潜影魔人が勇者に戦いを挑み、そして敗れたのだと当たりを付けたのだ。
「それで、いざ勇者と戦うのが怖くなってしまったのだろう?
陛下の命が遂行できなかったのは、確かに失態だが……恥じることはない。
センピには悪いが、私はお前が諸共に倒されたりせず、無事でいてくれたことが何より嬉しいのだ」
「…………………………」
それでもなお、ヌイは無言を貫く。
ザギは物申さぬ妹の両肩を掴むと、これをがくがくと揺さぶった。
「ウルファ、この兄が来たからにはもう心配ない……。
この不始末は、私がぬぐおう……!
今すぐ魔界に送ってやるから、お前は安心して帰るのだ……!」
「……じゃない」
「……何?」
ヌイが、ぽつりとつぶやく。
最愛の妹が口にした内容があまりに信じられぬものだったので、ザギは思わず首をかしげ聞き直した。
しかし、ヌイは……実の兄ですら見たことがないほど決然とした顔になり、今度は力強くこう言い切ったのである。
「あたしはもう……魔人ウルファじゃない……!
ラグネアの王宮侍女、ヌイです……!」
「ウルファ……お前、何を言って?
――むっ!?」
大将軍ともあろうものが、不覚と言う他にないが……。
ここにきて、ようやくザギは気がついた。
常ならばヌイから感じられるはずの、敬愛すべき魔人王から与えられし力の波動が一切感じられぬことに……。
いや、そればかりではない……。
これは……、
「ウルファ……なぜだ?
――なぜ、お前の内から闇の魔力を感じられぬ!?」
問い詰める兄に、しかし、ヌイは毅然とした眼差しを向ける。
それは実の兄に向けるものではなく――己の敵対者に向けた、敵意のこもった視線であった。
「あたしは……勇者ショウに救われ、魔人としての力を全て失いました……!
今はもう……ただの人間……ヌイです……!」
「――バカな!?」
ヌイから手を放し、ザギが一歩、二歩と後ずさる。
――魔人としての力を失い、人間となる。
……にわかに信じられる言葉ではない。
だが、確かに目の前にいる妹からは、同じ魔人であるというのに闇の魔力が感じられず……。
城内で見かけたような、取るに足らぬ人間共と同様の気配しか感じられぬのだ。
「なんという……愚かな真似を……!」
右手で顔を覆いながら、妹の愚行をなげく。
だが、次の瞬間にはその手を離し、眉を逆立てながらも妹を説得するための言葉を発したのである。
「だがっ……! 陛下の復活は近い!」
「――陛下が!?」
これには、兄ですら生粋の無表情と認めるヌイも顔色を変えた。
「そうだ……!」
その反応に満足し、逆立てた眉を戻しながらザギが続ける。
「勇者ショウが何をどうして、そのようなことになったかは分からぬが……。
あの方が復活なされば、そのようなことは些末な問題に過ぎぬ!
必ず、お前を魔人に戻して下さるはずだ……!」
「いや……っ!」
たじろいだヌイが、一歩後ずさった。
ザギにしてみればそれは、万の刃で切り刻まれるよりも苦痛をもたらす反応であったが、こうなれば否も応もない。
「いやではないっ……!
かくなる上は、無理矢理にでも魔界へ送り返させてもらうぞ……!」
こうなった以上、当身でもくれて一旦大人しくさせてから場外へさらい、送還の儀を執り行う他にあるまい……。
いかに手加減するとはいえ、実の妹に拳を見舞うのは心が痛むが……。
それを押し殺し、ザギは一歩間合いを詰めた。
「――そこまでだ」
制止の声がかかったのは、その時である。
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この時、おれがその場へ足を運んだこと……。
それは偶然であって、偶然ではない。
まるで、体の中でアラームが鳴り響くかのような……。
超感覚的な警鐘に導かれ、この場へやって来たのである。
おれの体内に埋め込まれた輝石リブラの働きであることは疑う余地もなく、またしても、この不可思議な鉱石に助けられたということになるだろう。
さておき、だ……。
城内でも人気が無い、裏庭と呼ぶべき場所にたどり着くなり、その男の姿を認められたのにはさすがに肝を冷やした。
――大将軍ザギ。
城内に忍び込むためだろう……商売人が好む装束を着込んではいるが、姿はごまかせても武芸に通じた達人特有の気配まで覆い隠せはしない。
何より、その双眸に宿るそれそのものが矢弾のごとき殺気は、この男にしか生み出せないものであった。
「勇者……人間としての名は、ショウだったか……?」
ヌイに向けていた視線をこちらに移し、ゆらりと……ザギが身構える。
おれが奴を容易ならざる敵として認識しているように、奴もまた、おれを強敵として捉えているのだ。
「実際に会うのは初めてだな……。
――大将軍ザギ! 貴様、ヌイに何をするつもりだった?」
こちらに走り寄ったヌイを背で隠しながら、問い詰める。
「ふっ……。
兄が妹を連れ戻そうとするなど、貴様ら人間の間でも常識ではないか? どうだ?」
あえて、ヌイを止めるような動きは見せず……。
その代わり、地面に置かれた細長い包みへ一歩距離を詰めたザギが、そう言い放つ。
「何っ……!? いや、そうか……」
その時、おれの脳裏へよぎったのはかつてヌイと交わした会話だ。
なるほど、兄がいるとは言っていたが……それがまさか、この男だったとはな。
それで、ザギほどの男が変装までしてコソコソと忍び込んでいたことにも得心がいく。
魔人にも、他者を愛する心がある……かつて戦ったブロゴーンとの顛末から、おれはそれを知っていた。
「そういうことならば、なるほど、よくある話だな……」
背後で、ヌイがびくりと身を震わせたのが伝わってくる。
だが、おれはにやりと笑いながら安心させるように続く言葉を口にした。
「しかし、自立し自らの道を歩み出した者を、腕ずく力ずくで引き戻そうとするのは見苦しいと思わぬか? どうかな?」
「ぬかせ」
同じく笑みを浮かべながら、ザギがそう返す。
互いに浮かべた笑みは、何も問答が楽しくて出てきたものではない……。
これから始まる、素晴らしい戦いへの予感から我知らず浮かべたものだ。
まったくもって、予想外の流れを経てのものであるが……。
宿敵との戦いは、こうして火蓋が切られた。