Bパート 10
照らす月明かりの下……。
最強の戦士が、ここに姿を現した。
全身は、昆虫じみた漆黒の甲殻に覆われており……。
関節部では、剥き出しの筋繊維がみりみりと音を立てている……。
頭部は人間のものとバッタのものをデタラメに張り合わたようであり……。
見ようによっては頭蓋骨のようにも思えるそれが満月の光に晒された様は、さながら地獄の底から現出した死神のようでもあった……。
首に巻いた真紅のマフラーは――正義の証!
「おれは勇者――ブラックホッパー!」
真の姿を露わにした勇者が、高々と名乗りを上げる。
それを受けてセンピは、感覚器のない顔に苦々しさをにじませた。
「ふん……どうにか、変身はすることができたようですが……」
――ヒュン!
――ヒュン! ヒュン!
潜影魔人の手にしたムチが、残像すら残す速度で周囲の風を切り裂く。
それはあたかも、強大な敵を前にした野生生物の威嚇行為がごときであった。
「その姿になったからといって、これまで負った傷が帳消しになるわけではありませんよねえ……」
口元から伸びる優美な触角を空いた手で撫でながら、センピはどうにか余裕の言葉を紡ぎ出す。
「……ハンデだ」
返す勇者の言葉に、虚栄や強がりの色は存在しない。
それはただ、当たり前の事実を述べているに過ぎなかったからである。
「何しろ、これから無力な弱者をいたぶるのでな……。
そのくらいのハンデは負わなければ、おれの気が引けるというものだ」
「この期に及んで、まだそのような口を……!」
センピの両肩が、ふるふると震える。
怒りと屈辱という名の燃料が、彼の中で燃え上がっているのだ。
「――ナメるなあっ!」
そしてついに、それは爆発した!
潜影魔人が精密そのものと呼べる手つきで、愛用のムチを自在に振るう!
死にかけの獲物をなぶり尽くそうとしていた、先までの攻撃とは明らかに毛色が異なる。
ムチは、それそのものが意思を持つ一個の生物がごとく振る舞い……。
ムカデじみた奇怪な動きを交えながら、先のそれに倍する速度で勇者に襲いかかったのである!
「ふん……」
だが、勇者は余裕の様子で鼻息を漏らした。
「ホッパアァァ――――――――――チョオップッ!」
そして迎撃として繰り出したのは――必殺の手刀!
真空波すら生み出す一閃は地上最強の剣と化して魔人のムチを迎え撃ち、これを――一刀両断にしたのである!
「――な、何っ!?」
もはやその機能を失った得物を手にしながら、センピが狼狽の声を上げた。
そのスキを見逃す、ブラックホッパーではない!
「――むん!」
瞬時に間合いを詰めると同時、空手の前蹴りを叩き込んだのである!
「――グギャアッ!?」」
これをまともに腹へ受けたのだから、たまったものではない。
臓器という臓器がシェイクされる地獄の苦痛にもだえながら、センピはたじたじと後ずさった。
更なるスキ――!
「――せい!」
「――ギャアッ!?」
「――ぬん!」
「――ウギイッ!?」
ホッパーの拳が、蹴りが、卑劣なる魔人を叩きのめす!
「――でいぃぃぃやっ!」
「――アギャアッ!?」
そして締めに繰り出した連続拳はセンピの正中線を正確に射抜いており、急所という急所を殴打された魔人は、用を成さぬムチを手放しながら波止場を転げ回ることになった。
この光景を見て、先までホッパーが絶体絶命であったなどと誰が信じるであろうか……。
もはや、攻守は完全に逆転しており……。
処刑者と受刑者もまた、入れ替わっていたのである。
「お、おのれ……!」
一連の攻撃で自慢の触角も片方をへし折られたセンピが、立ち上がりながらそううめいた。
「こんな……こんなことあっていいはずが……」
確実な勝利を得られる……。
そう確信したからこそ、姿を現したはずであった。
しかし、この結果はどうしたことか……?
目の前に立つバッタ男は、本当に命ある生き物なのか……!?
否――バケモノだ!
「こんなバケモノ相手に、まともに戦っていられるか!」
センピの決断は早く――そして、またしても卑劣なものであった。
なんとこの魔人戦士は身を翻し、いまだろくに身動きできずにいるヌイの方へと駆け寄ったのである!
今度こそ確実に無力であろう少女を人質に取ろうとしていることは、火を見るよりも明らかだ!
だが……、
「――グワアッ!?」
センピの行動は、宙空より突如として飛来した火球によりさえぎられた。
横腹に火球の直撃を受けた潜影魔人は波止場から吹き飛ばされ、港の上を転がることとなったのである。
「勇者殿!」
『主殿! 遅れてすまん!』
火球を放ったのは――ドラグローダーだ!
その背に騎士団長ヒルダを乗せたドラグローダーが駆けつけ、魔人の卑怯な行動を未然に阻止したのである!
「あれは――昨夜取り逃した魔人か!?」
『うむ! 夜闇の中でもワシの目は確かであっただろう!?
――戦いはすでに、始まっていたということじゃ!』
鋼鉄の翼から光の粒子を放ちつつ、ドラグローダーが波止場に降り立つ。
「ローダー! よくやってくれた!」
『主殿の帰りが遅かったのでのう……何か変事が起こったのかと思い、ヒルダを乗せて捜し回ったのじゃ!』
「どうやら、捜し人も見つかったようですな?
ヌイというのは君だね? 私の後ろに隠れていなさい」
素早くローダーから飛び降りたヒルダが、ヌイをかばうようにしながら抜剣する。
ヌイはそれを受けて、躊躇した様子を見せたが、
「はい……ありがとうございます……」
ホッパーが軽くうなずくと、大人しくその背に隠れた。
「くっ……!? あれが噂の聖竜ですか……」
じゃばら状の外殻からぶすぶすと煙を噴き上げながら、センピが立ち上がる。
人間の騎士はさておくとして……。
深手の影響を全く感じさせないホッパーに加え、その従者までもが戦列に加わった。
この現況を見て、センピが下した結論はただ一つ。
――逃げの一手。
……である。
ただちにこの場を逃れ……。
誰ぞ人間の影にでも潜り込めば逃れ切れる……。
そう踏んだ潜影魔人は、またもや身を翻そうとしたが、しかし、
「――グッ!?」
その体が動かない!
一体、いつの間に出現していたのか……。
光り輝くバッタが無数に現れ、センピの体に貼りついてその動きを止めていたのである!
「――おおっ!」
ホッパーが、こちらに向けて駆け出す。
いつの間にかその姿は、聖杖を携えた輝きの魔術師――ルミナスホッパーへと変じていた。
――ルミナス・ガーディアン・クラスタ!
無数の光虫たちによる防御術は、逃亡する魔人の動きを封じる拘束術として応用されたのである!
この術が物理的な攻撃に対し大きな効果を発揮しないのは先日のバクラ戦で明らかとなっているが……。
ほんの一瞬動きを止めれば、全形態中最速を誇るルミナスにとっては十分であった。
「――ギガント!」
瞬く間に距離を詰めたホッパーが、今度は鋼鉄の重騎士へと姿を変える。
その瞬間、センピを拘束していたバッタたちはかき消えたが……。
動きの自由が戻ろうと、もはやそこは――必殺の間合い!
「大ィィィィィ――――――――――烈断ッ!」
巨人の吐息じみた音と共に、ギガントアックスの背から圧縮空気が噴出される!
それによって加速した聖斧の斬撃が、センピの左脇から右肩にかけてを切り上げた!
「――ウア」
あっけない断末魔と共に、センピの内に充満していた魔力が噴き出し、爆発する。
ホッパーは、勝利したわけではない……。
なぜならばこれは仕置きに過ぎず、勝負として成立してすらいなかったからである。
満月の光が、残心する正義の執行者を冴え冴えと照らし出していた。