アバンタイトル
この世界に来て、地球との落差に最も驚いているのは何か? と、問われればそれは照明を置いて他にないだろう。
地球のそれに照らし合わせるならば、中近世程度の文明世界であり、当然ながら電気も電灯も存在しない。
代わりに照明器具としているのが油皿であったり松明であったりするわけで、これは改造人間の視力を持つおれですら、心もとないと思える光量である。
「江戸の昔ではね、行灯を使って夜中に内職や読書をしていたから、目を悪くする人が多かったんだよ」
幼い頃、祖母から聞いた言葉が思い出された。
実際に油皿を使ってみると、電球にしたなら一ワットか二ワット程度の明かりにしかならないわけで、六十年以上の時を経て先人の言葉を実感してしまったものだ。
世界各地を放浪したおれであるが、それでも電気のない国というのにはお目にかからなかった。
秘境や僻地を尋ねればそういった生活をしている人々もいるのだろうが、逆に言うならばあえて探し出す必要があるわけで、それだけ地球の夜は、電気というものに照らし出されていたということである。
逆に、大して落差やギャップを感じていないのは何か? と、問われればそれは食生活であった。
別に、レクシア王国で味噌や醤油が使われているわけではない。
だが、そこは世界各地を放浪した経験があるこのおれである。
魚や海藻を主とする王都ラグネアの食卓事情は、地球の下手な国家よりも馴染みがあるものであり、魚醤を使った味付けもベトナム等に滞在した時を思い出せてなかなか味わい深い。
そんなわけで、食に関してはいささかの不満も覚えていないおれの眼前に、今、一つの小ぶりなツボが鎮座している。
「ふむ……よく漬かっている。
自分で言うのもなんだが、完璧な出来栄えだ」
すでに陽も落ち、先述の通り頼りない光量で照らし出された城内の自室……。
ツボの木蓋を取り、油皿で中身を照らしたおれは満足げなため息を漏らした。
息を吐けば当然ながら吸い込む必要があるわけで、そうすると魚醤の豊潤なうま味を感じさせる香りと共に、ツーンと鼻孔の奥を刺激する匂いも吸い込まれる。
ツボの中では、いくつかの葉野菜や根菜を刻んだものが、真っ赤な漬け液に浸りくたくたになっていた。
「完璧な……キムチだ」
嗅覚と視覚でそれを味わい、自然と口内に溢れるツバを飲み込みながら、おれは一人そうつぶやく。
もちろん、材料にはいくつかの相違点が存在するものの、それを置いてなおキムチと断言して良い出来栄えである。
「それにしても、だ……」
完璧なキムチなのはいいとして、おれはこの疑問を吐き出さずにはいられなかった。
すなわち……。
「――なんでおれ、キムチ作ったんだろう?」
……このことである。
「いや、確かに魚醤も唐辛子もあったし、作れるなとは思ったけど……。
それで本当になんで作ってるんだろう? 明らかにこんなことしてる場合じゃないだろう、おれ。
もっとこう、バクラが使ってたロケットランチャーの件について思いを馳せたりとかさ」
ツッコミを入れたところで、これをやったのは当のおれだ。
そのおれに分からないのだから、誰にも答えられるはずないし、そもそもこの自室にはおれしかいない。
「というか、おれ甘党なのに……。
分からない……おれの心をアイドンノー……。
大宇宙の大いなる意思と呼ぶべきものが存在するとして、それに突き動かされたとしか……」
アホな自問自答をしていると、部屋の扉がコンコンとノックされた。
「ん? 誰かな?」
強烈な匂いを放つツボに木蓋をし、扉を開ける。
そこに立っていたのは、騎士スタンレーだった。
さすがに夜間ということもあり、俺が着ているのとよく似た様式の平服姿である。
にこやかな笑みを浮かべながら、その右手には酒瓶を二本下げていた。
「夜分遅くに、突然申し訳ありません……。
実は、知り合いからイイのを一本分けてもらいまして……。
勇者殿が酔えない体質なのは聞き知っておりますが、こいつは甘党にはたまらぬ逸品ですよ?」
「ほお……!?」
その言葉に、おれは思わず目を輝かせてしまう。
元はレッカも住んでいた霊峰ルギスを始め、レクシア王国は後背を隆々とした山脈地帯に覆われている。
豊富な山林資源が良質な地下水を生み出すのはこの世界でも変わらぬ自然の理であるわけだが、それがゆえ、この国における酒類は蒸留酒が主体となっていた。
スタンレーほどの男が太鼓判を押すならば、良い樽を用いてじっくりと熟成させた逸品に違いないが……右手に下げた内の一本から、コルクを通じてかぐわしいハチミツとハーブの香りが漂うのを改造人間の嗅覚は見逃さない。
となれば、これは――地球におけるドランブイのような酒か!?
そうならばなるほど、酒に酔えぬおれでも話は変わってくる。
ウィスキーとドランブイを用いて作られる簡素なカクテル――ラスティネイル。
それは亡き親友であるナガレの好物であり、おれにとってもまた、最も愛する酒であった。
一口舐めるだけで酒精と甘みが喉奥にまで突き抜けてくるあの味わい……まさか、再び出会える日が来ようとは!
いやはや、この世界は本当に食という点でおれに不満を抱かせない。
「そいつは重畳!
ぜひ、ご相伴に預からせてくれ!」
そういえば、ドランブイの語源はどこぞの言葉で『満足』だったなと思いながら、おれはウキウキとスタンレーを室内にいざなった。
「む……しかし、つまみがないな」
いそいそと机や食器をセッティングしながら、おれはつまむものが無いことに気づく。
「なあに、つまみなどいりませぬよ」
にかりと笑いながらそう言うスタンレーからは、酒というものに対する自信がうかがえた。
そういえば、ナガレもよく同じことを言っていたとなつかしい気持ちになりながら、おれは苦笑を浮かべる。
「そうは言うがな……連日の激務で君も疲れているだろう?
そういう時に空きっ腹で入れる酒というものには、存外、思わぬ不覚を取ってしまうものだ。
何か――あ、そうだ」
そこでおれは、それの存在を思い出した。
正直、今から飲む酒とはあまり相性が良いとは思えぬが、無いよりはマシだし何事もモノは試しである。
それに、せっかく作ったのだからこの世界に生きる人間の感想も聞きたいしな!
そういうわけで、おれはスタンレーへ提案してみることにしたのだった……。
--
王宮侍女サーシャは、松明に照らされた城内を慣れた足取りで歩んでいた。
その手にしているのは、銀製の蓋がされた盆である。
蓋に隠されているのは、彼女が手づからに調理した簡単なつまみ類だ。
少し前……たまたま世間話をした騎士スタンレーが、これから勇者様を飲みに誘うと言いながら酒瓶をかかげて見せたので、気を利かし用意したのである。
男二人の酒宴というものはあまり想像がつかぬが、つまむものがあって困るということもないだろうという配慮だ。
「あら……?」
勇者ショウの自室にたどり着いたところで、その扉がわずかに開いていることに気づく。
普段の勇者からは考えられぬ迂闊さであったが、あれほどの人物であっても気を抜いてしまう瞬間というのはあるかもしれない。
それだけならなんということもない日常風景であったが、そこから漏れ聞こえる会話を耳にしてサーシャの好奇心が鎌首をもたげた。
――一体、何を話してるんだろう?
古来より、家政婦や侍女というものはとかく見るものであり、聞くものである。
それは、あるいは神によって定義された絶対不変の法則であり、何人たりともこれに抗うことはできぬ。
そのようなわけで、サーシャは自然と足音を殺し耳をそばだててしまったのであった。
そして、彼女は聞いたのだ。
要人の世話を幾度となく任されてきたサーシャであり、よもや聞き間違いということはありえない。
勇者ショウは、ハッキリとこう言ったのである。
「――キスしてもいいかな?」
――い……いったあああああ!!
――BL。
一般的にベーコンレタスを意味するこの言葉は、古今東西多くの婦女子をトリコにしてきた。
レクシア王国の若き巫女姫が、人々のかけ算を守るため……今、飛び立つ!