Bパート 2
「それでは勇者殿……準備はよろしいか?」
「ああ、全員好きなタイミングで仕掛けてくれ」
暗闇の中、背後から投げかけられたヒルダさんの言葉にそう答える。
視界が暗闇に閉ざされているのは、今が夜だからではない。
……単純に、おれがまぶたを閉じているからである。
こうして五感の内、最も情報量の多い視覚を閉ざすと、他の感覚が鋭敏に研ぎ澄まされていく……。
――ザリ。
――ザリリ。
……と、訓練場の砂を蹴る音が常よりも鋭く耳朶を震わせた。
土埃の臭いが鼻をひくつかせ、四方から突き刺さる視線が肌を突き刺す。
特訓につき合ってくれている皆の動きが手に取るように掴めていくが、おれが欲しているのはこの程度の感覚ではない。
もっと奥深い……超直感とでも呼ぶべき何かである。
おれは、視覚のみではなく聴覚も嗅覚も触角も、全てを閉ざしていく……。
無論、機械ではあるまいし断ち切ろうとして断ち切れる代物ではない。
だが、人間にはカクテルパーティー効果とも呼ばれる能力が存在する。
この言葉が差すのは、大勢の人間が談笑しているような場でも、自分に必要な情報だけを脳が選捨選択する能力であるが、何事も応用だ。
三日に及ぶこの特訓で、おれは極限まで集中力を研ぎ澄ますことで五感全てを断ち切ることに成功していた。
――光も。
――音も。
――匂いも。
――衣擦れの触感も。
全てが存在しない、無そのものの世界……。
その中で、後背から何かが揺れ動いた。
容赦なく後頭部目がけて突き進むそれを、軽く頭を振ることで回避する。
数瞬の間も置かず、今度は横側からやはり何かがおれ目がけて飛来した。
今度はそれを、軽くバックステップすることでやりすごす。
そこからはもう、いちいち飛んでくる方向を考える余裕はない。
とにかく、四方八方からおれ目がけて飛来する何かを後ずさり、身をよじり、時には跳躍することで回避し続けた。
最後に、明らかにこれまでのものより速度も重さもあるそれをかわし……ようやく、おれは目を開く。
光が、音が、匂いが、触感が……この身に蘇っていく。
五感を取り戻したおれを取り囲む協力者たちが、感心しきりといった顔をしながらこちらを見やっていた。
「――お見事」
ぱちぱちと拍手をしながら、ヒルダさんがにこやかにそう告げる。
周囲を見渡せば、皮で作られた王国流のボールと……おそらく最後に投げられたのがこれだろう。握り拳ほどもある大きさの石くれが散らばっていた。
「みんなが協力してくれたおかげです」
これだけの数を回避せしめた成果に満足しながら、おれは協力者たちに礼を告げる。
この特訓につき合ってくれたのは、ヒルダさんを始めとし、レッカ、騎士スタンレー、少女騎士ケイト……そしてヌイという面々であった。
「それにしても、けったいなことをするのう……。
普通に、目で見てかわせばよいと思うのじゃが?」
「いや、それでは駄目だ」
余ったボールをもてあそぶレッカに、おれは否定の言葉を返す。
「大将軍ザギ……奴の剣速は異常だ。
ただ見てかわし、防ぐだけでは到底上回ることなどできん。
見るのではなく、感じる……という有名な言葉が元いた世界にはあったが、まさしくその境地へ達さなければ対抗できぬだろう」
「だが、ついにその境地へ達せたようですな」
「まだまだ、付け焼き刃ですが……特訓を始めた当初に比べれば、ずいぶんとマシになったと思います」
ヒルダさんと話しながら、三日前……特訓当初の時を思い出す。
あの時は、投げられたボールがことごとく命中し、それなりに痛い目を見たものだ。
それをここまで仕上げられたのだから、まずは満足するべきであろう。
「これを付け焼き刃と言われてしまうと、我々としては立つ瀬がないですな……」
「む……すまん。
そういう意図ではなかったのだ」
苦笑いを浮かべる騎士スタンレーに、そう謝罪する。
矜持を傷つけてしまったかもしれないが、しかし、敵が大将軍ザギであることを思えば鍛えて鍛えすぎるということは決してないのだ。
三日間……不気味な沈黙を保っているあの男も、きっとどこかで牙を研ぎ澄ませているに違いない。
「それにしても、勇者様はもとよりとして……ヌイさんの強肩ぶりには驚かされました」
普段は人見知りがちなところのある少女騎士ケイトだが、三日間の特訓で少しは打ち解けてくれたのだろう……素直に賞賛する眼差しをヌイに向けていた。
「ちょっと……恥ずかしい……です……」
出自が出自なので致し方のないところもあるが、人見知りという点ではヌイも負けたものではない。
顔を真っ赤にしながら、うつむいてしまった。
「しかし……妙に重たいものが投げられたとは思ったが、実際に目にした時は驚いたぞ」
おれは足元に転がる握り拳大の石を拾いながら、苦笑いを浮かべる。
この特訓にヌイを抜擢したのは、おれの発案だ。
特訓というのは何事も痛くせねば効果が薄いので、その腕力を頼りにしたという面もある。
しかし、それ以上に兄とのことで思うところがあるだろう彼女を連れ出すことで、少しは気晴らしになればと思ったのだ。
後者はうかがい知るしかないが、前者に関しては効果てきめんであった。
技術は遠く及ばずとも、ありあまる腕力によってプロ野球選手並みの球速を誇るヌイの参戦は、おれに痛みと共に緊張感を与えてくれたのである。
「特訓には痛みが必要だと言っておったのでな。ワシがヌイにそっと渡したのじゃ!
どうじゃ? 主思いの従者であろう!?」
「信頼してくれるのは嬉しいがな。
いくらなんでも、これが当たっていたらコブができるくらいでは済まなかったぞ?」
石を地面に落とすと、ごとりという中々に重い音が響く。
そもそも、この訓練場は見習いたちの整備によって小石一つも落ちていない。
つまりは、わざわざどこからか仕入れて隠し持っていたということになる。その情熱を勉学などにも向けてくれると嬉しいのだがな、我が従者よ?
そんな風に、おれたちが特訓後の談笑を楽しんでいたその時である。
――カーン!
――カーン! カーン! カーン!
危急を知らせる鐘の音が、ラグネア城内に響き渡った。
「――来たか」
笑みを捨て去り、そうつぶやく。
大将軍ザギの攻勢が、始まったのだ。