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4:決意と再起 -Recovery-



 -↯-



 大気を打ち震わす大爆音が轟き渡り、紅蓮の火柱が空高く幾本も立ち上がる。それを追うようにして飛び散った大小様々の破片は、戦車、装甲車、機甲重兵(ヘビー・アーマー)などが粉々に砕け散った成れの果て。


 連鎖的に繰り返される爆炎によって周囲一帯は火の海と化し、莫大熱量が支配するそんな惨状の真っ只中に、平然無事とばかり立つ影が一つ存在する。


「ふん、肩慣らしにもならなかったな……」


 市街に展開する機動兵器群へと火力を叩き込み、その尽くを瞬時にして殲滅せしめた<第四鋼撃兵(SST)部隊>所属ジェイ・オライアー中尉は、肌に照り付ける烈しい炎光を意にも介さず、むしろ退屈で仕方がないとばかりに呟いた。


 外見年齢は二十歳前半。日焼けしたような浅黒い肌。後頭部で適当に括った色素の薄い頭髪。整った顔立ちには不思議な愛嬌があり、どこか軽薄な印象を放つその出で立ちは、硝煙燻る戦場よりもむしろ繁華街をうろついている方が似合うだろう。


 無論、彼が現在身に纏うのはけばけばしい色彩のジャケットにジーンズなどではなく、暗緑色(ダークグリーン)の無骨極まりない戦闘衣(コンバット・ギア)だ。平和と戦乱。それぞれに相応しい服装規定(ドレスコード)をジェイは遵守していた。


 そんな彼が視線を向けた先、夥しい物量の瓦礫と、残火を燻らせる機動兵器の残骸に埋め尽くされた光景が広がっている。


 視界を満たす黒と赤。完全に崩壊した<マグオル共和国>首都に、かつての風光明媚な都市風景は、その面影すらも残されていない。むせ返るような火薬臭と焦げ臭さ、そして至る所に千切れて転がる人間の部品が放つ血の匂いが、一帯に地獄めいた惨状を作り上げていた。


 常人ならば到底長々と直視できないだろう凄惨な景色に対して、しかしジェイは――その破壊に自分自身がある程度関わっていながら――然したる感慨を得なかった。似たようなものはこれまでに幾度となく目にしてきたのだし、なにより、既に()()()都市をわざわざ慮る意味を感じないからだ。


 ジェイはこう思う。


 食い終わった燃料棒(カロリー・スティック)の容器は棄てるだろ?

 なら、死んじまった人や物にも同じことが言えるんじゃないか?

 役目を終えて空っぽになったモノに何時までも頓着している方が不可解だ。


 それでも、仮にここが<エクィアス連合国>の都市部だったならば、その国家に所属する一員としての義憤や悲嘆に駆られても不自然ではない。同胞たる市民に哀悼の意を表したり、破壊された街並みに残念を感じたりもするだろう。


 しかし、ここは<マグオル共和国>だ。任務以外にはなんの関わりもない他国だ。そこで何人死のうが、どれだけの建造物が壊れようが、任務遂行に支障がない限りは大した感慨もない。


 交戦規定を鑑みても人命保護は当然尊重するべきだが、生憎その『保護すべき対象』の大半はとっくに死に絶えており、今更生きた民間人を攻撃に巻き込む可能性は皆無と言っていいだろう。事実として先程の攻撃を行った一帯から、生体反応は一切検出されていない。


 よって、自分がどのように戦おうが文句を言われる筋合いなどない。むしろ、広範囲を大火力で纏めて吹っ飛ばす方が後腐れがなくていい。ジェイは本気でそう考えているのだが……、


「ケイにとっちゃ、少し違うみたいだな」


 独り言ちつつ、つい数秒前に通信を交わした後輩とも呼ぶべき同僚について考える。彼はどうにもこちらが行った砲撃が気に食わなかったようだ。その口調に滲んでいたあからさまな苛立ちを思い出し、ジェイは肩を竦めた。


「あいつは、変にお人好しというか、無駄に潔癖症というか……」


 尤も、そこがケイの良いところなのかも知れないが。苦笑交じりに紡がれたその言葉には、ネガティブな感情は伴っておらず、むしろ弟分に向けての親しみが多分に含まれていた。


 そもそもケイのことは嫌いじゃない。なにせ関わっていて『面白い』からだ。感情の起伏に乏しい()()()()と違って打てば響くのでからかい甲斐があり、時折子供のような拗ね方をするところや、大して重要でもないことを真剣に悩んだりするところなどは実に興味深い。


 これらは決して皮肉ではない。基本的には一人の兵士として忠実かつ優秀に任務を熟すことができる一方で、行動の端々に妙な拘りが存在する彼は、ジェイからすると――好意的な観点を前提として――奇特な存在に見えるのだ。


 特に無機物相手にやたら丁寧に接したり、摂取する燃料棒(カロリー・スティック)の味を毎回変えたり、母艦である<ストーク・フォー>の格納庫(ハンガー)を寝床代わりにするなどの『癖』は他の同僚たちにはあまり見られない。


 個としての明確な人格を有する『特戦型』の鋼撃兵(SST)には、当然それぞれに嗜好や性格に差があるものだが、ケイの場合はそれらの発露がより緻密で繊細だ。


 例えるならばそれは、


「……妙に“人間臭い”んだよな」


 柔軟な想像力。ひいては状況予測能力とは、危機察知能力に直結する概念だ。不確定要素が多重に積載して起こり得る戦場に於いては、臨機応変な対応が常時求められる。つまり“人間臭い”思考とは、それが恐怖や混乱によって暴走せぬよう制御されている限り、他のどんな兵器にも勝る持ち味に成り得るのだ。


 だからこそ、自分たち特戦型鋼撃兵(SST)には、素体(モデル)となった人間の人格が残されている。尤も、それは危険な可能性と表裏一体ではあるが、ケイに関して叛逆の兆候は一切見られていない。ならばある意味でケイは自律兵器インテリジェンス・ウェポンとしてひとつの到達点であり、理想形であるとも言えよう。


 そこまで考えて、しかしふと思う。


「あいつ、妙なヒューマニズムに絆されたりしないだろうな? 身目麗しいお姫様に同情しちまって、ほいほい余計なことまで約束させられたり、任務遂行に支障を来すようなことをやらかしたり……」


 口ではそう言いつつ、実際のところジェイはあまり心配していなかった。曲がりなりにもケイは冷静沈着な判断能力を備えた兵士であり、もしもの時には行動抑制権限を持つ<イチョウ>も付いている。ケイが暴走するようなことがあれば、彼女がきっちりリードを引いて窘めてくれるだろう。


 それに現地の問題解決に於いては、予め定められた優先順位を元に、ある程度の自由裁量権がケイにも赦されている。要は臨機応変だ。()()()()()さえ達成できるならば、多少の状況判断は許容できるように想定した上で、上層部は作戦を組んでいるのだから。


「まあ、上手くやるだろうさ。あいつが傷付いたお姫様に、どんな優しい言葉をかけて慰めてやるのかには、少しだけ興味があるがな……」


 と、ジェイがそこまで考えた時、彼の体表感覚機(スキン・センサー)が新手の反応を捉えた。()()()()ような独特の感覚に従ってそちらを向けば、倒壊したビルの影から続々と姿を現しつつある漆黒の軍勢が目に付く。


「あれが件の量産型って奴らか」


 ジェイは意識を切り替える。任務と関係ない思考に耽っていたのは、現実時間に換算して十秒ほどであるが、流石にここから先はそのようなノイズを介在させるわけにはいかない。


 尤も、既に<イチョウ>を通じて交戦記録を受け取っている以上、もはや連中は脅威足り得ない。手の内が割れた敵との相対は『戦闘』と言うより、単に『処理』或いは『駆除』と表記すべき案件だ。そしてジェイにはそれを真実とするだけの能力がある。


「その必要もなさそうだが、一応サポート頼むぞ<カエデ>。後から来る連中の露払いだ。早めに片付けて、舞台を整えておくとしよう」

《了解しました、ジェイ。なお我が方の増援が到着するまでの予測時間は約十八分後。市街全域に展開する残存敵勢力は六割強。一割あたり、おおよそ三分の猶予があります》

「木偶の坊どもを殲滅するのにゃ、それだけありゃあ十分だ」


 己の補助知能(サポート・AI)と短い対話を終えたジェイは、まるで近所に散歩でも行くかのような気楽さで――


「とりあえず、目に付いたのを片っ端から削っていくとするかね」


 ――笑みと共に踏み込み、眼前の有象無象へとぶち当たって行く。


 轟、と大気を突き抜けて駆けた身が、接敵を果たすまでの間隙は刹那にも満たず。まともな対応もできないまま、ジェイからの一撃を受けた量産型鋼撃兵(SST)たちは、飛沫の如くに砕けて弾け飛んだ。


 ケイ・サーヴァーがそうであるように、ジェイ・オライアーもまた一騎当千の戦鬼である。彼は己の持ち得る能力を存分に発揮し、死に絶えた首都市街を蠢く敵対存在を、片っ端から平らげるように蹂躙していった。



 -↯-



 やはり、全ては夢だったのではないか。彼方から届く破砕の残響を聞きながら、私は茫漠とした思考に耽っていた。


 全身を苛む熱感のある痛痒も、髪や衣服に纏わり染み付いた血臭も、なにもかもが不思議なほどに現実感がない。崩壊した首都の風景も、そこで死んでいった人々の姿も、まるで遠く過ぎ去った過去のようだ。


 当然、視界を巡らせれば全てが拭いようもない現実であることくらい、すぐに理解できる。市街の方角で立ち昇る黒煙と紅炎は未だ盛んな勢いを保ち、砲撃と打撃の多重奏は絶えず響き続けている。私は聞こえる筈もない悲鳴が、苦悶が、嘆きの声が耳奥で叫ぶのを聴いた。


 <マグオル共和国>は今日死んだのだ。

 そこに生きる人々たちを大勢巻き込んで。

 かけがえのない大切なものは、二度と戻らない。


 なにより、周囲にぶちまけられた、臓物と肉片に解体された近衛兵たちの死骸。それと同じくらい無惨に解体された、量産型鋼撃兵(SST)たちの残骸。まるで玩具を砕いて撒き散らしたかの如く、生命の痕跡を微塵も感じさせないそれらは、この場に凄惨な戦いがあったことの証明だ。


 その全てを目に焼き付けるように見据えてから、ようやく私は()へ視線を合わせた。死屍累々の地獄をものともせずに立つ、暗緑色(ダークグリーン)戦闘衣(コンバット・ギア)を纏う戦士、ケイ・サーヴァーと名乗った青年へと。


「……なんなの、一体」


 閉じることさえ忘れた唇から、吐息交じりに微かな疑問が零れた。


 ケイ。彼は一体何者なのだろうか。


 勿論、その個人名と所属組織、行動目的に関してはこれ以上ないほど明確なものを彼自身が語っている。故に私の関心が向いたのは、あくまでも彼の見せた凄まじい戦いぶりに対してだ。彼は鋼撃兵(SST)の軍勢を、まるで案山子のような扱いで薙ぎ払ってみせたのだから。


 敢えて例えるならば、まさしく雷鎚(いかづち)の化身と呼ぶほかはない。雷鳴を轟かせ天を割り裂き降り立った彼は、人の形をしているだけの純然たる暴力だ。


 そうして圧倒的な暴威と破撃を以て一切合切を打倒した後、いまや黙々と事後処理を進めていくその横顔を改めて見やれば、何処にでも居そうなごく普通の青年であるとしか思えなかった。


 黒髪、黒目、平均的な身体付き。取り立てて特徴のない東洋風の顔立ちは、一見すると自分よりも年下に見える。


 しかし、感情の全てが削げ落ちたような表情からは稚気めいたものが微塵も感じられず、加えて先程の情け容赦ない戦い方を思い出せば、彼はやはり私たちと隔絶した存在なのだと分かる。


 私は込み上がる自嘲と無力感を、苦い笑みとして表した。


 この数分間に起きたことは、まるで出来の悪い戯曲だ。突如として舞台に現れた機械仕掛けの神デウス・エクス・マキナが、理外の力を振るって絶望的な状況を一転、英雄活劇めいたシーンへと変貌させてしまったのだから。そこにメリアルム・シア・マグオルという一個人が果たすべき役割など、最初からなかったかのように。


 そう、結局のところ、私は――


「市民を助けることも、仇を討ち果たすことも、なにもできなかった……」


 ――抗いようもない現実を前に圧し潰されるだけの、無力な小娘に過ぎなかった。どれだけ意気を叫び、覚悟を構えようとも、最終的には地べたに這い蹲ったまま状況の推移を眺めていることしかできなかったのだ。


 私は全身から力が萎えていくのを感じた。


 もはや自分に由って立つべきものなどなにもない。国も、民も、誇りさえ打ち砕かれてこれ以上なにをしろと言うのか。生き残った市民とて無能な君主を求めはしないだろう。精々、怨みと誹りを露わにした人々から、石もて追われるのが関の山だ。


 ならば、もう、それでいいか。


 二度と戻らない大切なものを失った人々に、ほんの一時でも感情の捌け口を提供できるならば、この身を贄として投げ込まれることに文句はない。事後処理に関しても<エクィアス連合国>が上手く片を付けてくれるだろう。復興支援の名の下に、この砕けた小国を吸収合併する為に。


 ああ、哀れで愚鈍なヴァリア・コートランド。貴方はこの国を精強に立ち直らせるどころか、正真正銘<エクィアス連合国>の属国に貶めたのだ。そして、そんな男を打ち倒すことさえできなかった私は、それ以上に唾棄すべき愚物に違いない。


 私は、……空っぽだ。



 -↯-



 完全に虚脱状態となり、もはや抵抗の素振りもなく譫言を呟くだけのヴァリア・コートランドを拘束しながら、俺は保護対象であるメリアルム・シア・マグオルの様子を眺めた。


 彼女の状態は「凄惨」の一言に尽きた。


 髪も、顔も、衣服も、全身ほとんどが血と臓物に塗れた無惨な有様だ。当然ながら顔色も悪い。肉体的な疲労というよりは、極度の精神的ショックを連続的に受けた為だろう。こちらを見つめる虚ろな視線の焦点は、実際には俺自身に合ったものではなく、彼女自身の内面に渦巻く感情に向いている筈だ。


 その感情の名前には、ある程度の予測が付けられる。無力感。徒労感。自己嫌悪。或いは底なしの絶望だ。彼女はいまや、失ったものの途方もない大きさに打ちのめされ、一種の心神喪失状態にある。早急なケアが必要だ。そう判断した俺は<イチョウ>へと問い掛ける。


「……<イチョウ>。彼女に対して、なにか、俺がしてやれることはあるだろうか? かけてやるべき言葉が、あるだろうか?」


 発した言葉に、俺個人としての同情が含まれていたことは否めないだろう。率直に言って、俺は彼女を「可哀想だ」と思っている。そんな権限も義理も持たない一介の兵士でありながら、単に保護対象でしかない女性を、どうにか慰めてやりたいと感じていたのだ。


《残念ですが、現状では貴官が取り得るどのような積極的行動も、メリアルム・シア・マグオル氏に対しては逆効果であると判断されます》


 しかし、<イチョウ>が発した返事はにべもなかった。


《何故ならばメリアルム・シア・マグオル氏にとって、貴官は予測脅威度の極めて高い存在だからです。確かに彼女の危機的状況を救いはしましたが、お互いに関係性が希薄な現状では、信頼関係の構築はほぼ不可能です。ただでさえ心神喪失状態にあることが予測される彼女に対して、貴官の不用意な接触はパニックを引き起こしかねません》


 つらつらと並べられた文言に対して、俺は論理的な納得と、奇妙な抵抗感を同時に覚えた。


 確かに<イチョウ>の指摘は理にかなっている。メリアルム氏が俺の接触に対して好意的反応を示す根拠などなく、むしろ彼我の関係性を考慮すれば、拒絶か逃避を引き起こす可能性の方が遥かに高い。


 そもそも俺は対人接触(コミュニケーション)を専門としているわけでなく、脳殻にインストールされた医療知識以外には、必要最低限レベルの救護能力しか持たない。故に結論としては、これ以上状況が悪化しないよう彼女たちを見守りつつ、専門の医療スタッフが到着するのを待つのが最適解である。


 幸いメリアルム氏は沈静状態にあり、放っておく限りではじっとしていてくれる目算が高い。負傷に関しても即座に対応しなければ危険というほどではなく、血液接触による感染症は心配だが、エクィアスの医療技術を用いれば些事に等しい。


「つまり。……俺がすべきは、ただ待つことだけ、か」


 そう口に出してみれば、納得が胸に落ちるような気がした。<イチョウ>もまた肯定の意志を送ってくる。そうだ。改めて冷静に考え直してみれば、赤の他人でしかない俺が訳知り顔に慰めを口にしたところで、彼女にとっていったいどれほどの意味があるというのか?


 俺には両親の記憶がない。愛を注がれて育った実感がない。

 住んでいた所も思い出せなければ、故郷に対する思い入れもない。

 友人と呼べる相手を考えてみても、同僚であるジェイたちくらいのものだ。


 帰属する組織とその構成人員に対しても、基本的な忠誠と友誼こそあれど「喪えば哀しい」というほどのものではない。何故なら兵士とは消耗品であり、情けや慈しみといった感情は、作戦行動に際して真っ先に切り捨てられて然るべきものだからだ。


 そんな存在が「貴方の哀しみが分かる。元気を出してくれ。きっとこの先良いことがある」などと口にするならば、それは欺瞞でしかない。否、それどころか、考え得る限りで最悪の侮蔑に近い。


 特に俺のような機械人形擬きが――仮に人間としての感情や自由意志を備えているにしても――顔と名前を知ったばかりの他者を慮るなど、それこそ出来の悪い冗談にしかならないだろう。


 だから、俺は最終的に沈黙を選んだ。任務遂行を第一とする兵士として、嘆き悲しむ他者を見据えたまま、茫洋と立ち尽くし――


「……おい?」


 ――侍女服を着込んだ女性がよろめきながら立ち上がり、メリアルム氏へゆっくりと歩み寄り始めた時、その様子をただ戸惑い眺めることしかできなかった。



 -↯-



 全身が軋んでいる。一歩を踏み出す度、痛い痛いと彼方此方で悲鳴が上がる。打撲と切り傷。無事な箇所は一つもない。しかしそれは、この張り裂けそうな心も同じことだ。


 ブラス・シュラウト。


 幸せな将来を誓い合った彼が、私に愛することを教えてくれた彼が、春の日差しのような温かさを与えてくれた彼が、もうこの世にはいない。二度と私の名を呼んでくれることはない。優しく髪を撫でてくれることもない。料理を口にして微笑んでくれることもない。


 何故なら、彼は死んでしまった。無惨な亡骸と成り果てて、まるで襤褸切れのようになって、大地に打ち捨てられている。その姿が視界に這入り込む度、私は泣き叫びたくなる。彼の下へ走り寄り、その欠片一つ一つを拾い集めて、まだ微かに残っているだろう体温を抱き締めたくなる。


 辛い。哀しい。苦しくて堪らない。


 それは母の死に目を看取った時よりも遥かに。まるで心臓に釘を打ち込まれたようだ。鋸で胸を引き裂かれているようだ。否、否、否。そんな形容詞では足りそうにもない。ただ、ただ。永遠に貴方と言葉を交わせない現実が、痛い。その痛みが私の身も心も圧し潰して粉微塵にしようとしている。


 それでも。ああ、それでも、私は行かねばならないのだ。


 愛しい貴方には目もくれず、暴れ回る感情を必死に抑え付けて、あの人の下へと馳せ参じなければならない。貴方を弔い、嘆き、想い出に浸る前に。私は私の大切な主を、救いに行かなければならないのだ。どうか、どうか、赦して欲しい。


 私は歪んだ視界に、呆然と宙を見つめる一人の女性の姿を映した。


 メリア様。


 メリアルム・シア・マグオル様。


 私の主。

 私の親友。

 私の守るべき人。

 

 頬を滂沱と伝う涙を拭う間もなく、私は歩いていく。目指すのは彼女の傍。私の定位置、居るべき場所だ。


 そうして伝えねばならない。父と友人を。国と民を。誇りと義務を。なにもかもを奪われ、喪い、絶望のただ中に沈み込んでいるであろう彼女に。貴方は一人ではないのだと。


 そうしなければ、きっと彼女は、取り返しもつかないほどに壊れてしまうと分かっているから。


 だから。そう、だから。

 

「メリア様……!」


 私はその名を呼ぶのだ。



 -↯-



「……ハンナ?」


 その声が聞こえた時、私はほとんど無意識のままそちらを向いた。果たしてそこには、止め処なく溢れ出す涙で顔を汚した、愛すべき侍女の姿がある。ハンナ・アーヴィル。私の従者。私の親友。私が信頼すべき人。


「ええ、ええ! そうですとも、貴方の従者がここに居りますとも……! メリア様、御無事ですか……!? メリア様……!! ああ、こんなに汚れて……!! お労しや……!!」


 ハンナは必死に呼び掛けながら、血と臓物に塗れた私を抱き起こしてくれた。自分の身が汚れてしまうことも厭わずに。


 そうして、もはや役には立たない侍女服を引き裂くと、その切れ端を用いて私の身体から汚濁を拭い取り始めた。雛鳥を守る親鳥の如く、丁寧に心を込めた手つきで。


 しかし、どれだけ努力しても、髪と衣服に浸み込んでしまった赤色はどうにもならない。拭えたのは精々、頬の汚れくらいだ。私はハンナの表情が深い哀しみに打ちのめされるのを見た。


「ああ、メリア様……! 申し訳、ありません……!」


 失望と無力感を露わにしたハンナは項垂れ、震える声を涙と共に零していく。


「私は結局、貴方を守れなかった……! それどころか、貴方の身を清めて差し上げることすらできない……! 申し訳ありません、申し訳ありません……! こんな、不出来な私で、申し訳ありません……!!」


 ハンナはそのまま肩を震わせながら、とうとう啜り泣き始めてしまう。そんな彼女の姿に。惜しみない献身を前に、私は心底から愕然とさせられた。直後、腹の底から込み上がってきたのは、己に対する烈火の如き烈しい怒りだった。


 私は、ついさっきまで、なにを考えていた?

 

 なにが「私は空っぽ」だ。なにが「自分にはなにもできなかった」だ。ここまでの真心を向けてくれる従者の存在も、国を救うためには泥を啜ってでも生き延びるという決意も、まるでなかったことのように失念し。手前勝手な孤独感と自虐に浸り切って、心が腐っていくのに任せていただけではないか。


 そうではないだろう。

 私のするべきことは、そんな下らない自慰行為ではないだろう。

 あくまでも立ち上がり、例えこの身が砕けようとも、命燃え尽きる最後の瞬間まで<マグオル共和国>のために行動し続けることではなかったか。


 ならば、堪えて呑み込め。

 怒りを。哀しみを。無力感を。絶望を。

 この身を苛む痛みを全て受け止めて、その上で前へ進むのだ。


 死ぬのはその後で良い。地獄に落ちるのは為すべきことを全て終えてからだ。

 そうとも。まだ生きている人は居る。救いを求めている民が居る筈なのだ。

 こんなところで項垂れている暇などない。いつまで愛する従者を泣かせているつもりだ。いつまで甘ったれた小娘のままでいるつもりなのだ。


 さあ、立て。立ち上がれ。自分の足で。自分の力で。

 行く先は荒野だ。屍山血河の広がる地獄だ。それで良い。覚悟を決めろ。

 奪われたものを少しでも掻き集めろ。喪われたものを僅かにでも取り戻せ。


 生き恥も上等。怨みも誹りも受けて進め。今を生きようとする人々の歩む道に希望の光を灯すため、この身を贄として炎に焚べろ。


 その手始めに、まずは――


「……ハンナ」


 ――この世で一番の従者が見せた献身に、主として毅然と報いてみせろ。メリアルム・シア・マグオル。<マグオル共和国>次期大統領の肩書を、残りの人生全てを賭けて背負っていくつもりならば……!



 -§-



 メリアは静かにハンナの名を呼びつつ、彼女の顔を優しく上向かせた。

 その上で、ゆっくりと首を振って見せる。否定の方向へと。

 貴方は不出来なんかじゃないと示すように。


 呆然とするハンナへ、メリアは表情をくしゃりと歪んだ泣き笑いに変えて言った。


「ねぇ、気付いてないの? ハンナの方が、酷い恰好してるわ」

「え、あ……! も、申し訳ありません、こんな……!」


 そこで初めて、ハンナは自分の姿が裸も同然となっていたことを思い出す。羞恥と自責から身体を隠そうとするハンナを、メリアは構わず抱き締めた。


「――ッ!?!?!?」


 思いもしない主の行動にハンナの肩が跳ねる。


「め、メリア様!? い、いけません、離れて下さい!!」


 ハンナは慌てて身を剥がそうとするが、メリアは決して離れようとはしなかった。ハンナの肩に顎を置いたまま、メリアは愛しい従者の乱れた黒髪を梳いてやる。しばらくそうしていると、ハンナは身体の強張りを解き、抵抗しなくなった。


 その頃合いを見計らってメリアはようやく身を離し、深い憂いを湛えた紺碧色の瞳を真っ直ぐに向けて言う。一言を噛み締めるように、相手の心に届くように、愛という概念を嘘偽りなくそこに込めて。


「ボロボロなのは私も同じ。だけど蹲っていただけの私に、貴方は歩み寄って来てくれた。貴方は私の心を救ってくれたのよ? そんな従者が不出来なわけ、ないじゃない。貴方は私にとって世界一の従者よ。そして誰より大切な、私の親友。ありがとう、ハンナ」


 そうしてからもう一度、メリアはハンナの身体を抱き締めた。与えられた言葉を掴みかね、戸惑うように宙を彷徨っていたハンナの両腕も、やがてメリアの背中に置かれる。血で滑る煩わしさの奥、二人はお互いの柔らかな体温を感じ合い、伝え合った。


 存在を確かめ合い支え合った主従はそれからしばらくの間、声を震わせて泣いた。

 世界へ向けて産声を上げる赤子のように、大きな声で泣いて、泣いて、泣き続けた。


 そして泣き止んでから、二人は共に立ち上がり、もはや絶望の影を打ち払った決然とした表情でケイ・サーヴァーに向き直ったのだ。



 -↯-



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