1:地獄を駆ける二人 -Battlefield-
-↯-
地獄が目の前で繰り広げられている。幼い頃から慣れ親しんだ全てが砕かれ喪われていく光景を、それ以外になんと表現すれば良いのだろう? 少なくとも、私には分からなかった。
銃声と悲鳴。
鮮血と土埃。
瓦礫と死体。
私の五感を通して伝わってくるものはそれだけだ。白磁の壁が美しかった大統領邸も、実り豊かな草木と動物たちの姿で賑やかだった庭園も、笑顔と平穏に彩られていた生活も、何もかもが焼け落ちて消えていく。
入れ替わるように現れたのは、漆黒の戦闘装甲に身を包んだ軍勢と、彼らに率いられて進軍する機動兵器の群れ。ほんの少し前までは祖国を守護する盾であったそれらが、今では恐怖と混乱を撒き散らす反逆者と成り果てていた。
これが単なる悪夢であればどれだけ良かっただろう。しかし、私の目に映る惨劇の全ては紛れもない現実だ。今も一台の戦車が爆音を響かせ、あろうことか病院へ向けて砲弾を発射した。既に彼方此方崩れかけていた病棟は、その一撃がトドメとなり、紙切れでも引き裂くように崩れていく。
「あ、ああ……」
耳を劈く崩落音を聞きながら、私の口からは譫言めいた呻きが漏れた。
あの病院には今回の戦乱で生じた怪我人が大勢詰め掛けていた筈だ。元々から入院していた重病人やお年寄り、生まれたばかりの子供とその母親、そして、患者を救う為に懸命な治療を続ける医師たちも残っていただろう。
その命が、たった一発の砲弾の為に、呆気なく奪われてしまった。
「どうして……どうして、こんな……ッ!!」
あまりにも惨い所業を前に、私は嗚咽を漏らしてしゃがみ込んでしまう。しかし、そうしている間にも奪われていくものがあった。当然尊ぶべき人命以外に、私自身の大切な想い出の風景もまた、次々に失われていくのだ。
学生時代を過ごした様々な思い出の詰まる校舎が、潰されている。
大統領邸を抜け出しては友人たちと通った喫茶店が、燃えている。
偶の休みに父と共に歩いた並木道が、跡形もなく吹き飛んでいた。
絶え間なく突き付けられる喪失と、鼓膜を突き破るような激音によって揺さぶられた私の心身は、もはや限界に近い状態だった。今、こうして無意味な思考を巡らせているのも、一種の逃避に近いのだろう。
私は物陰の内側で身を縮め、肩を抱きながら只管震え続ける。現実を拒否するように首を振っても、あらゆるものの崩壊は止まらない。侵略は無慈悲に進んでいく。失われたものは返ってこない。
私は、私が愛した<マグオル共和国>が死んでいくのを、ただ見守ることしかできなかった。
何故、こんなことになってしまったのだろう?
ほんの数十分前まではいつも通りの平和な日常だったのに?
頭の中を飛び回る疑問は、やがて絶望と化して思考を埋め尽くしていく。
もはや茫然自失の体となった私へ、その時不意に、烈しい感情を伴う呼び声が掛けられた。
「メリア様!! メリアルム・シア・マグオル様!!」
聞き覚えのある声と名前だ。呆けた感想が頭に浮かぶ。自分の名前を呼ばれたことすら分からないほど、私は混乱していたのだ。結局、近付いてきた声の主に肩を揺さぶられて初めて、私は声の主が誰なのかを認識した。
「メリア様、どうぞしっかりお気を保ってください!!」
恐る恐ると振り向けば、綺麗に切り揃えられた黒髪が目に入る。侍女のハンナ・アーヴィルだった。私が十二歳の時から八年間、傍でずっと公私共々に支えてくれた姉のような存在だ。反逆者たちの手で大統領邸を襲撃された時に逸れてしまったのだが、生きていてくれたとは。
「ハンナ!! 良かった、無事だったのね!?」
絶望の中で叶った信頼する従者との再会に、私の胸中に莫大な安堵と歓喜が湧き上がった。感情のままに思わず抱き着こうとした私を、しかし、ハンナは厳しい顔で拒んだ。
「は、ハンナ……?」
思わぬ抵抗に私が戸惑っていると、侍女服の全身を煤と土埃でまだらに汚した彼女は、普段の温和な物腰からは想像もつかない鋭い声でこう言った。
「今はそんなことをしている場合ではありません、メリア様! まずはここから離れるのです! さあ、早く!」
急き立てるハンナの白く瑞々しかった額と頬は、今では靴墨を塗り付けたようになっていた。よく見れば、侍女服も彼方此方が切り裂かれ、その内側から覗く肌には痛々しい切り傷が深々と刻まれていた。なにより、袖の奥から手首を伝い落ちる赤黒いものが、彼女の負った傷が決して軽くないことを示していた。
「ハンナ、その傷……ッ!!」
ここに来るまで、彼女はどれほどの危機に襲われたのだろう。強いショックから思わず口を抑えた私に対し、ハンナは「私のことなど、今は放っておいてください」と冷徹に言い放った。彼女の全身からは鬼気迫るような威圧感が放たれており、気圧された私は二の句も継げず狼狽してしまう。
そんな状況に痺れを切らしたのか、やや苛立った様子のハンナは唐突に、無言で私の肩と腰を掴んだ。
「なっ、なにをするの!?」
「失礼しますメリア様、……ふっ!」
思わず声を上げた私には構わず、ハンナはそのまま一声気合を発した。直後、私は急激な浮遊感を味わう。なんと、ハンナはその細腕に似付かわしくない膂力を用いて、私の身体を抱え上げたのだ。
「え、ちょっ、ハンナ!?」
「ご無礼をお許しください! しかし、今は即座に行動せねば危険なのです!」
華奢な体の何処にそんな力が秘められていたのか。戸惑う私へ一声かけると、ハンナは人一人分の重さをものともせず、弾かれるような勢いで一気に駆け出した。一歩目からかなりの速度を感じ、私は悲鳴を上げながらハンナの身体にしがみ付く。振り落とされるかもしれないと、不安になったのだ。
尤も、そんな心配は即座に杞憂となった。ハンナの両腕が私の身体をがっちり固定して離さず、その力強さが安心を与えてくれた為だ。その上、瓦礫と罅割れで起伏だらけとなった路面を走るハンナの足取りにはまったく危なげがなく、私は「落下するかもしれない」という恐怖をほんの少しも抱かずに済んだ。
「ハ、ハンナ!? 貴方、どうして、こんな……」
それはそれとして、従者が突如として発揮した凄まじい技量には驚かざるを得ない。目を回しながら問い掛ける私へ、ハンナは深い苦渋の表情を浮かべながら応じた。
「侍女たる者が主の危機を救うのは当然です! そしてその為に必要な技を磨くことも! それを発揮する日が来てしまったことはこの上なく残念ですが……!」
その言葉と共に、今にも泣きだしそうに歪んだハンナの顔を間近に眺め、私は深い混迷に襲われる。こんな彼女は今まで見たことがない。いつだって泰然自若と構え、私が困った時には涼しい顔で解決策を示してくれた彼女が、まさか……。
「……無様な顔を晒してしまい申し訳ありません、メリア様。先程の無礼な言動共々、ここに深くお詫び申し上げます」
そこで私の視線に気付いたのか、ハンナは格式ばった謝罪と共に微笑を浮かべた。それは私が知る普段通りのハンナの表情だが、実際には私を気遣っての演技であり、今にも剥がれそうな仮面でしかないと一目瞭然だ。私の無神経な詮索が、彼女に要らぬ無理を強いてしまったのだ。
私は酷い罪悪感に囚われ、首を振った。
「そんな、謝るのは私の方よ! 疑うような真似をして、本当にごめんなさい。それよりもまず、貴方にはお礼を言わなければならなかったのに……!」
私は自分のことばかり精一杯で、今の今まで大切な従者の心情を蔑ろにしてしまっていた。なんという愚鈍さか。身も心も傷付きながら、決死の覚悟を以て私を迎えに来てくれた彼女の忠誠と献身に、応えようともしなかったなんて。
歯痒さと自己嫌悪に苛まれる私に、しかし、ハンナが返したのは罵倒の文句ではなかった。
「お礼ならばメリア様、貴方を安全な場所までお連れしてから頂きましょう。それより、この度の遅参を心よりお詫び致します。どうぞご叱責は全てを解決した後に、遠慮なく。それと、乗り心地に不満があれば仰ってください。もしお怪我があるなら、隠れられる場所を見つけ次第にお手当致します……!」
このどこまでも忠実な侍女は、ただ一心に私を慮ってくれている。私は胸が熱くなるのを感じた。これほどの義心にどうすれば報いることができるだろう?
「私は大丈夫よ! むしろ、貴方の傷の方が辛いでしょうに! そんな身体で私を助けてくれた貴方を、どうして責められるの? 本当にありがとう、ハンナ。この恩には必ず報いると誓うわ、かけがえのない私の従者……!」
今は言葉で労うことしかできない自分が歯痒く、情けない。だというのにハンナは、まるで自分の罪が赦されたかのような、ホッとした表情で頷くのだ。
「……勿体なきお言葉、痛み入ります」
そう言うと、私を抱き抱えたまま、ハンナはさらに走る速度を上げた。
-↯-
私たちは一心不乱に、荒れ果てた市街の中を突っ切っていく。
ハンナは巧みに道を選んでいるらしく、道中で反逆者と化した漆黒の軍勢と克ち合うことはなかった。もし彼女が助けに来てくれなければ今頃どうなっていたことか、想像するだけで怖気が立つ。私は改めてこの素晴らしい従者の存在に心から感謝した。
ふと首を傾ければ、崩壊した市街の風景が幾本もの線と化して高速で流れていく。いまだ彼方此方に火の手が上がり、なにかが砕けて崩れる音が延々と響き続ける街並みの中に、市民の姿はどこにも見受けられない。
今の時刻は正午を回った頃。本来ならば市民たちにとっての憩いの時間だ。街角には明るい会話の花が咲き、子供たちは休み時間を迎えた学校で元気に遊び回っていた筈。そんな微笑ましい光景も、今は遠く彼方に過ぎ去った幻と化してしまった。
思い出す。大統領邸から逃げる最中で、私は数多くの死と混乱を目の当たりにしてきた。
真っ赤に染まった腹部を抑えてぐったりと横たわる青年。
千切れかけた首をだらんと下げた子供を抱き締めて泣き叫ぶ母親。
唐突に飛び込んできた流れ弾を受けて一瞬の内に血煙と化した少女。
老婆を背負って逃げる途中で崩落する建物に圧し潰された男性。
既に息絶えた少年を救おうとしているのか懸命にその身体を引き摺る大型犬。
それが味方であると信じて近付いた漆黒の軍勢に撃ち殺された女性。
我先にと逃げようとして将棋倒しになり全滅した群衆。
逃げる最中に転んでしまい大勢に踏み潰されて死亡した子供。
僅かな隠れ場所を争って殺し合っていた恋人同士と思しき男と女……。
私はここに来て、自分自身を『どうしようもなく臆病な卑怯者』であると断じた。何故なら私は、目に映る惨劇の全てから顔を背けてきたのだ。命欲しさに助けを求める声にすら耳を塞いで、すぐ隣に居た誰かに目もくれず、一心不乱に逃げ出してきたのだから。
その上で私は、この暴虐に対する怒りを抱きながらに、市民を救うこともせず侍女の力を借りて逃げ惑っている。仮にも私は、この国を統治する大統領の娘であるというのに……。
「どうか、一人でも多く逃げ延びて、助かっていて欲しい……」
守るべき民を見殺しにしておきながら、なんと身勝手な言い草だろうか。そして、その自惚れと無責任には、直後に意趣返しの如く残酷な答えが突き付けられることとなる。
「――ッ!! 失礼します、メリア様」
突然だった。ハンナがそう言うとなんの前触れもなく私の目を塞いだのだ。
信頼する従者の為すこと故、恐怖はなかったが多少の疑惑は生じてしまう。
意図を問い質そうとした私はしかし、すぐに彼女がそうした意味を理解した。
「――……ッ!!」
……私の鼻腔を強烈な鉄錆臭が突き刺したのだ。
その正体を私は既に知っている。
なにせ、今日だけで嫌と言うほど嗅いだのだから。
間違いなくそれは、人が大勢死んだ時の匂いだった。
「……何人? 誰が、どのように?」
「メリア様、お気になさらず」
「教えて、……お願い」
ハンナは一瞬躊躇したが、誤魔化しても意味はないと判断したのだろう。彼女は、自身の目で見たものを、私に教えてくれた。
「……老若男女、見渡す限りに、お構いなしです」
「――……、」
「これ以上はどうか、ご勘弁ください」
それ以上は言葉を次がず、ハンナは無言でその場を走り去った。急激に遠ざかっていく匂いに、私はむしろ責め立てられている気がした。置いていくのか。お前だけが生き延びるつもりなのか。死者の怨嗟が耳にこびり付くようで、同時にそんな考えを抱いてしまう自分自身が惨めで仕方なかった。
「ごめんなさい……ッ!」
堪らず漏れた謝罪も空々しく聞こえてしまう。そんな時にふと、これまで考えないようにしてきた、ある想像が浮かんでしまう。
それは正に最悪の可能性と呼べるものだ。
私は迷い悩んだ挙句、ようやく意を決してハンナへと訊ねる。
現実と向き合わねばならないと、潰れそうになる心臓をどうにか堪えつつ、声を絞り出す。
「……ハンナ。大統領閣下は、……お父様は、どうなったの?」
ハンナの返事は、沈黙だった。そして、それが何より明解な答えだった。
「ああ!! そんな!!」
私は悲鳴を上げた。滂沱に溢れ出る涙を止めることもできない。ハンナが堪えている前で自分だけが感情を迸らせる後ろめたさも、見捨ててきた市民たちに対する罪悪感も他所に、自分本位な哀しみに頭が埋め尽くされていくのを拒めなかった。
「お父様……!! もうすぐ誕生日だったのに……!! お祝いの準備を、プレゼントも用意していたのに……!! どうして……!!」
口の端から零れ落ちるのは、とうに意味を失った願望の残滓だ。ハンナと共に選んだあの腕時計も、大統領邸の崩落に伴い埋もれてしまったことだろう。父がこれからも刻む筈だった時は永遠に閉ざされたのだ。
物心つく前に母親を亡くした私を、身を焦がすような苦しい政務の傍らで一心に愛を注いで育ててくれた父。自身も愛する伴侶を喪って辛かった筈なのに、そんなことはおくびにも出さず想い出を語ってくれた父。娘としても公人としても、まだ何一つとして恩を返せていなかった。
もう、あの穏やかな日々は二度と戻らない。
逃げ延びていてくれたらという淡い望みも、今、潰えた。
私を誰より愛してくれた父は、この世には居ないのだ。
それに、父の他にも大勢、大切な人がいた。
厳しくも根気強く様々なことを教えてくれた家庭教師のエリック。
庭で採れた林檎をその度に真っ先に届けてくれた庭師のアレイ。
財政的に苦しい中でも毎日美味しい料理を作ってくれた料理長のカメリア。
私が我儘の為に服を捨てた時に心から叱ってくれた執事のジョーイ。
この国を担う者としての責任を身を以て示してくれた政務官のトーレス。
市民の立場から忌憚なく意見を述べてくれた市長のニコルソン。
皆、良い人ばかりだった。間違ってもこんなことで死んでいい人たちではない。
なのに、大統領邸から逃れる時、必死になって皆が私を守ってくれた。
彼らがどうなったのか、今となっては知る術もない。
ただ一つだけ確かなのは、彼らの命を犠牲に逃げ出したという、未来永劫消えることのない罪科が私に刻まれたということだけだ。いっそ私も彼らと共に死んでおくべきだったのかもしれない。そんな弱気が一瞬頭を過り、
「……そんなこと、赦される筈がない」
即座に打ち消した。そうとも、赦されてはいけないのだ。
罪悪感から解放される為に自死を選ぶなど、私を生かす為に身を張った人々を侮辱するに等しい、最悪の愚行だ。命を馬鹿にするにもほどがある。これ以上苦しい思いをしたくないと、責任と重圧を投げ出すような、そんな甘ったれた選択肢が私に与えられて良いわけがない。
なにより、それはハンナに対しての裏切りだ。私の為に身を削って奔走する彼女の思いを、無為にするも同然の思考ではないか。私は死んではいけないのだ。少なくとも、可能な限りの手段を用いて足掻き切り、避けられぬ死が訪れるまでは絶対に。
「……メリア様、まずは、逃げ延びることを考えましょう」
「……そう、ね。その通りだわ、ハンナ」
ハンナは私の涙を優しく拭ってくれた。
そうして開かれた視界に、私は再び崩壊した街並みを捉え、ようやく決意を定めた。私は恥を忍び泥に塗れてでも生きる。そうして、この惨劇を引き起こした裏切者を打倒し、再び<マグオル共和国>に平和を取り戻す。
それだけが、もはや全てを失った私に残された使命だ。
それを果たすまでは、絶対に諦めてはならない。
前進の意志と行為を、放棄してはならない。
それがきっと、私の罪を贖う唯一の方法だろうから。
-↯-
その後、私とハンナの逃走劇は順調に続き、行程は首都郊外まで至った。半壊した市民館の傍を通り過ぎたところで、不意にハンナが私にあることを告げた。その報せはまさに、昇る朝日の如き眩い希望を、私に翳すことになった。
「メリア様、お喜びください。もう少し進んだ地点で、近衛兵たちと落ち合う手筈になっています」
「……!! 彼らが生きていたの!?」
ハンナは微笑みと共に頷いた。
「ええ、クーデター勃発時に首都を離れていた彼らが、もう間もなく帰還するのです。大統領邸にあった通信機で、私は実際に彼らとやり取りを交わしました。奴はクーデターの為に、敢えて近衛兵たちを遠ざける命令を出したのでしょうが、当てが外れましたね。あの男たちはあらゆる困難を踏破して、必ずやってきます」
あの精強無比の勇士たちが救援に来る。私は先程までの苦悩も差し置いて喜んだ。仁と義に於いてどこまでも忠実な彼らの助力があれば、この最悪の状況を覆すことも決して不可能ではないだろう。その思いはハンナも同じだったようで、ここで初めて彼女は演技ではない笑みを見せた。
「それと、これはあくまで、ついでなのですが……。どうやら、ブラスの奴もしぶとく生きていたようで、一緒に合流するとのことです」
「<蒼撃士>ブラス・シュラウトが!?」
挙がった名前は私も良く知るものだった。
ブラス・シュラウトは自他共に認める<マグオル共和国>最強の戦士であり、国難を幾度となく救った勇者だ。彼が纏う蒼い戦闘装甲とその代名詞とも言える電磁砲弓の一撃は、あらゆる困難を打ち破る不屈の象徴として知られ、彼自身の朗らかで実直な人柄は国民からも広く敬愛されている。
「あの男は殺しても死なないような肉体馬鹿ですが、今のような状況ではこの上なく有難い助けとなるでしょう。全く、窮地ではなにが役に立つか分からないものですね」
彼女にしては珍しい明け透けな皮肉。その理由を私は知っていた。ハンナとブラスは恋人同士なのだ。当人たちは周囲に隠しているようだが、私の知る限りで二人の関係を知らない者はまずいない。父でさえ折に付けては「そろそろ二人を結婚させてやるべきか」などと言っていたことを思い出す。
「メリア様? なにかおかしなことでも?」
「いえ、別に……、ふふっ」
私はつい頬を綻ばせ、ハンナが怪訝な表情を浮かべた。
視線を振れば地獄めいた惨状が広がる中で、この一時だけは暖かな日々が戻ったように感じられた。失われたものは戻らないにしても、この先に必ず再興の機会はあるのだと、そう信じられるような希望が胸に宿る。私の表情が明るくなったのを見てとったのか、ハンナはさらに希望を上乗せするようなことを口にした。
「<エクィアス連合国>も事態を察知している頃でしょう。かの国は曲がりなりにも同盟国ですし、実利の面から見ても<マグオル共和国>が崩壊するようなことは避けたい筈です。なんらかの助力が期待できます」
<エクィアス連合国>。それは大陸西部一帯を治める巨大連合国家の名だ。先代大統領である祖父の代から続く同盟関係が今も有効ならば、彼らは現状に於いて最も強力な味方勢力となり得る。
「故に、私たちは近衛兵たちと合流次第、彼らの護衛を受けながら<エクィアス連合国>領内へと亡命を行います。彼らが積極的な介入を起こすまでには時間が掛かるでしょうが、まさか大統領閣下の血縁者を追い返しはしないでしょう」
「亡命……。今の私は、結局、逃げることしかできないのね……」
つい弱気を漏らした私へ、ハンナは首を振った。否定を示す方向へと。
「これは逃避ではありません、メリア様。むしろ貴方が<エクィアス連合国>に保護されることで、彼らは<マグオル共和国>を救うという大義名分を得るのですから。そしてこの国の今後に関して正当な発言力を持つ人物は、もはや貴方以外には存在しません。国と民を救う為には現状それが唯一の方法なのです」
ハンナの励ましに私は……頷いた。
私はどんな手段を使ってでもこの国を救うと決めたのだ。私の身柄を差し出して<エクィアス連合国>の救援が受けられるなら、躊躇う理由はない。保護された後の方が忙しくなるだろうが、望む処だ。
「ハンナ、私はこの国を救う為なら、どのようなことでもするつもりです。最後まで付き合ってくれますね?」
「当然です、メリア様。それこそが私の義務であり生き甲斐です。貴方と共に困難を乗り越えていけるならば、それ以上の幸福は私にとってあり得ません」
ハンナの力強い返事に、私は勇気が沸き立つのを感じた。彼女とならどんな逆境も乗り越えられると信じられる。その為にもまず、近衛兵たちと合流しなくては。
「さあ、この角を曲がった先です」
ハンナがそう告げたと同時、私たちは目的地へと到達した。
角を素早く曲がると、その向こうに木々が林立する風景が広がっている。ここは<マグオル共和国>の自然管理区画として定められた一帯の入口で、奥へ進めば濃密な森林地帯へ踏み入ることになる。追手を撒いて逃れるには最適の立地だ。
近衛兵たちは森林内の地理にも精通しており、行き先に迷うことはないだろう。森林を抜けてしまえば<エクィアス連合国>の領土東端に辿り着く。そして、一度境界線を越えさえすれば反逆者たちもそれ以上は追っては来れない。
ただ一つ心配なのは、クーデターがどれだけの規模に及んでいるかが不明なことだ。少なくとも首都を守る中央軍は全て敵に回ったように思える。地方の駐留軍もそうなっていた場合、道中では非常な危険が予想される。
「一体、奴はどのような手段で軍全体を動かしたのか……?」
ハンナが苦々しく呟いたのに私は頷いた。あの裏切者はどんな魔法を使ったのだろう。<マグオル共和国>の中央軍はむしろ忠誠心に富み、父を裏切ることはおろか民に銃口を向けるようなことなど、まず有り得ない筈だったのだが……。
「……現状が既に十分な異常事態ですから、やはり警戒するに越したことはないでしょう。ここから先、完全な味方は近衛兵たちのみと考えた方が良さそうですね」
「貴方もよ、ハンナ? 頼りにしているわ」
「そう思って頂けるならばありがたいことです、メリア様」
言葉を交わしながら進むうち、私は木々の陰に隠れた蒼い装甲の輝きを見つけた。遠目にも目立つ背の高い後姿は、正しく<蒼撃士>ブラス・シュラウトの勇姿に違いない。もう大丈夫だ。私は込み上げる安堵に口元が緩むのを自覚しつつ、彼に呼びかけようとして、
「……え?」
気が付いた。
-↯-
<マグオル共和国>の勇者ブラス・シュラウトは、頭部の右半分を頭部装甲ごと抉り取られて、木に寄り掛かるようにして死んでいた。
-↯-
どさり、と。重々しい音を立てて、ブラスの身体が頽れる。そうして露わになった彼の胴体部には、夥しい数の弾痕が刻み込まれていた。その名の証でもある蒼い戦闘装甲は粉々に砕け、その下にはミキサーにでもかけられたような肉と内臓の混合物が、中途半端に凝固した血液に塗れて詰め込まれている。
「――……ぃ、ヒッ」
引き攣ったような声が私の頭上で聞こえた。私の身体を支えるハンナの腕が瘧を起こしたように激しく震えている。ハンナが今どんな表情を浮かべているのか見ることはできない。私はブラスの死体と、その周囲に散らばるものから、目を離せなかったのだ。
赤色。
赤色、赤色、赤色、赤色、赤色、赤色!!
視界全てを埋め尽くす暴力的なまでの赤色は、その中に沈み込む近衛兵たちの死骸から漏れ出したものに違いない。彼らは皆、酷い有様だった。首を捩じ切られ、四肢をもがれ、胴体に大穴を開けられ、臓物を全て引きずり出され、細切れに、挽肉に、焼け焦げ、潰れ、骨と肉が混ざり合い、脳が零れ、白濁した目がこちらを睨み、半ばで噛み千切られた舌が胸の辺りに落ちて、肉の焼ける匂いが――
「――あ、あ、あああ、……ぉ、ヴ」
――耐え切れずに私は吐いた。ハンナに抱えられたまま、悲鳴を上げることさえできず、胃の中の物を全て地面へとぶちまけた。そうして全てを吐き出してしまった時、私の内側は空っぽのようになっていた。
なにがなんだかわからない。思考の全てが停止し、全身が凍り付いたように強張っているが、それすらも他人事のように思える。
私は無意識に、或いは救いを求めるようにハンナの顔を見る。果たして彼女は能面のような無表情を全面に貼り付けていた。笑みも、憤怒も、哀しみも、なにもない。大きく見開いた鳶色の瞳に宿るのは果てしない虚無。彼女の心は死んだのだと、私は直感的に察した。そして、もう以前のような彼女に戻ることはないのだとも。
「――これはこれは、メリア様ではないですか」
汚泥を煮詰めたようなその声が、私の耳朶を打ったのはその直後だった。
そちらへ素早く首を振れば、近衛兵たちの死骸を踏み躙るようにして近付いてくる一人の男の姿がある。<マグオル軍>の軍服姿。胸と肩にあしらった記章は将軍位を示している。私はあらん限りの――本当の意味でその感触を理解したばかりの――殺意と憎悪を込めて、その名前を叫んだ。
「――ヴァリア・コートランドッ!!!!」
その男こそが、今回のクーデターを引き起こした張本人だ。<マグオル共和国軍>の最高司令官にして、大統領である父とも長年来の友人であった筈の、憎むべき裏切者。国と民を焼いた最悪の反逆者。
「如何にも。しかし、正しく将軍と付けて頂きたいものですな、メリア様?」
髭を蓄え、灰色の髪を撫で付けた中年の男は、あくまでも飄々として返答した。
-↯-