2-8
「この前のことだけどさ……」
栞の声は明らかに震えていた。
「うん」
栞の表情はこの前のように生気のないものになっていた。
その綺麗に切りそろえられた前髪からのぞく瞳は虚ろで、重力があと少し強ければこぼれ落ちてしまいそうだ。
「私はずるい女だと思う」
彼女はそれだけ話すとそのか細い指で自身の前髪を撫でた。
「ずるい?」
「そうだよ。私は友達と彼氏を両方なくしたくなかったんだ。月子ちゃんは私の大切な友達だし、岸田君のことも好きだから。でもね、でも私はどっちかをとるなんて出来なかったんだよ。2人とも大切だし、両方失いたくなんかなかったんだ」
彼女の口調は私に向けられているように聞こえなかった。
それはまるで自身の分身に言い聞かせるようにも聞こえる。
「かまへんて、それで。栞はケンちゃん好きになって告白してOKもろただけやろ? ま、ウチがケンちゃんに手を出すのが遅かったのが悪いだけやからな……。せやから栞はなんも悪くない! ウチが栞の立場でも同じようにしたと思うし」
これは嘘偽り無い本当の気持ちだ。
仮に私と彼女の関係が逆だとしたら同じような決断をしただろう。
いや、もしかしたらもっと卑劣な手段を取ったかもしれない。
「ねえ月子ちゃん? 私は友達が本当に少ないんだ。もし月子ちゃんがあのとき、私に声を掛けてくれなかったらもしかしたら生きるのを諦めてたのかもしれない……」
「いやいや、栞あんた大げさやで!? ウチが居なくてあんたはしっかり者やん?」
栞は大きく首を横に振った。
「違う! そうじゃないんだよ! 私は小学5年のあの日、本当に居なくなりたかったんだ。みんな嫌いだし、誰も私を分かってくれなかった……。お母さんは好きだったけど、あの人はいつも家に居なかったから……」
居なくなりたかった……。
その言葉の意味を私は一瞬で理解できた。
栞は消えてしまいたかったのだ。
失踪とか、もっと言えば死とも違う。
『川村栞』という存在が初めから居なかった状態になりたかったのだ。
「気持ちは分かる……。ウチも昔からそう思うことよくあるからな……」
「え……?」
「なんてゆーたらえーんかな? ほんまにこの世の全てが憎たらしく思うことがあんねん。ケンちゃんの無神経さも嫌やし、ウチは自分の母親も大嫌いや! んで学校行ったら行ったで、女子同士で上辺だけの付き合いやろ? ほんまウンザリや! そんでも……。ウチはこの世に未練もあるんでな……」
未練というには私の歳では幼すぎるかもしれない。
どちらかと言えば『希望』という言葉の方がこの場合妥当だろう。
しかし私は『希望』というチープな言葉を使いたくなかった。
それはまるで『願い』という言葉を『欲望』と置き換えるような感覚にも似ていた。
綺麗事なんて大嫌いなのだ。
「月子ちゃんの未練ってなーに?」
栞は虚ろな瞳で私を見上げる。心なしか少しだけ目に光が戻っている気がした。
「いつもゆーてるやろ! ウチは武道館のステージに立つんや! そんで観客全員にちやほやされるんやで! 最高な未来やないか!」
最高の未来……。これも綺麗事かもしれない。
でも私はこの欲望に塗れた未来に強く惹かれていた。
渇望という言葉が適切だろう。
そう。これは渇きなのだ。
「私も……。直木賞が欲しい。日本中で一番の作家になりたい……」
栞の声はあまりにも小さかった。
だが彼女の言葉には火が宿っているように聞こえた。
「せやろ! ウチらは夢を追う仲間やないか! 道は違うけどそれは変わらへん! せやからあんまり考えこまんでえーんやで? ケンちゃんのことはもう終わったことや!」
栞の顔を覗き込むととても穏やかな笑顔が浮かんでいた。
そのとき、改めて理解した気がする。
そうだ。そうなのだ。
私はこの子のこの笑顔が見たかったのだ……。
雨は一層強くなっていた。どう足掻いても家に着く頃はびしょ濡れだろう。
「あーあ、ごめんなー栞。ウチが誘ったばっかりに雨が……」
「うーう! 大丈夫だよ! たまにはこんなのも悪くないからさ」
鴨川のほとりで私たちは再び、お互いの未来を語り合った。
願わくば、栞が幸せで居ますように――。




