第16話 アリスの部屋
宇宙パトロール艦コーボルトの乗員居室は、グレーと深い色合いのブルーを基調とした落ち着いた雰囲気の内装で、パッと見は、ビジネスホテルのシングルルームのようだった。
俺はベッドの上に黒と灰色の軍服を脱ぎ捨てると、心の中に広がった不安を拭い去るように、浴室で使い捨ての清拭タオルで体をぬぐった。
熱いシャワーを浴びたかったが、旅客船でもない限り宇宙船にシャワーやバスタブの用意はない。
水が貴重だということに加え、無重力環境下での入浴は溺死の危険があるからだ。
無重力状態では表面張力で水が体にまとわりつき、鼻や口を水の膜が覆って、拭っても拭っても『水が切れない』状況になってしまう。
コーボルトでは人工重力が働いていたが、軍艦なのでいつどうなるかわからない。悠長にお湯につかったり、シャワーを浴びたりはできないというわけだ。
体を拭き、さらに泡状のドライシャンプーなるもので髪の毛を洗うと、なんとなくさっぱりした気分になった。
しかし、心の中の不安は解消されなかった。
俺は、アリスが起きているだろうかと考えた。
軍隊おすすめの生活パターンでは、勤務のない十六時間の使い方は、当直勤務開始二時間くらい前に起床、睡眠は六時間から七時間、それ以外の時間は食事、入浴、洗濯、清掃、トレーニングなどに勤しむことになっていた。
当直勤務は、アリス、俺、アイザックの順番なので、俺の勤務明けの時間はアリスの就寝時刻に該当する。
まだ眠っていないにしても、寝る前に嫌な情報を提供したりしたら、きっと眠れなくなってしまうだろう。それでなくとも最近、睡眠不足でアリスは具合が悪かったのだ。
アリスの健康を害するようなことはしたくなかった。
というわけで、あと五、六時間ほど、日常の雑事をこなしてからアリスの当直勤務前に話をすることにした。
ジャージに着替えた俺はパイン材で作られた淡い色合いの木製の事務机の上で、お湯で戻したフリーズドライのチーズリゾットをつつきながら今の状況を整理してみた。
一 火星は大量破壊兵器の実用化を進めていると推測される。
二 しかしながら火星が大量破壊兵器の実用化を進めているという確たる証拠はない。
三 アイザックは火星艦隊に攻撃を加える意思を持っている。
四 この船で階級が一番上なのはアイザックである。
五 俺もアリスもアイザックの命令に従わなければならない。
六 この船の実際のコントロールを握っているのは人工知能のレイチェルである。
七 レイチェルは、より上位の命令を優先する。
要は、アイザックが考えを変えるか、艦隊司令かそれより上の地球連邦軍本部が、アイザックの命令を取り消さない限り、最悪火星と戦争になってしまうということだ。
俺は、そんな戦争の引き金を引く立場に身を置きたくはなかった。
赴任前につまらない仕事だと蔑んだことが悔やまれる。
こんな目に合うんだったら、つまらない仕事の方がよかった。
以前からアイザックのことを警戒していたアリスは、この状況をどう考えるだろうか?
アリスはこうなることをある程度予想していたのだろうか?
そして、アリスはなぜ、アイザックのことをはじめから警戒していたのだろうか?
俺の頭脳には手に負えない事態だった。
ハイライン大尉のもと、装甲歩兵として訓練に励んでいたころが懐かしかった。
アリスの当直開始一時間前に俺はアリスの居室の前にいた。
「シンイチです」
ジャージ姿ではなく、きちんと黒と灰色の軍服を着こんで背筋を伸ばし、ドアを二回ノックした。
顔も洗い、髭も剃り、髪もきれいにとかしていた。失礼はないはずだ。
「何の用だ」
ドアはすぐには開かず、不機嫌そうな声が返ってきた。
「当直前に現在の状況を知っておいた方がいいと思いまして」
三秒ほどの沈黙があった。
「ちょっと、待っていろ」
部屋の中から慌ただしい雰囲気が伝わってきた。何か都合の悪い状況なのだろうか。
意外だが起きたばかりなのかもしれなかった。
「入れ」
入口のロックが解除され、扉が開いた。
「失礼します」
当然のことながら部屋の造りは俺と同じだったが、俺の部屋とは空気が違った。
嫌な汗のにおいがしない。何となくいい匂いがした。
後ろで扉が閉まると、わけもなく俺の胸は鼓動を速めた。
「そこの椅子にでも座れ」
明るい照明に照らし出された部屋の中で、アリスが背筋を伸ばして立っていた。
いつもと同じ口調、同じ表情だったが、いつもと違うその服装に俺は激しい戸惑いを感じた。
くまさんのアップリケが付いた小さな子供が着るようなクリーム色のパジャマ姿だった。
おまけに困ったことに生地が薄く、形のいい小さな胸のふくらみが、はっきりと認識できた。
多分、ブラジャーをつけていない。
「なんだ」
「あ、いや、その、パジャマ姿が魅力的だなと」
「馬鹿!」
アリスは顔を赤らめて怒鳴った。
「失礼しました」
俺は必死で煩悩を振り払いながら敬礼した。
必死にならないとどうにかなってしまいそうだ。
アリスは何事か口の中でブツブツとつぶやきながら、ベッドの端に腰掛けた。
俺は、隣に座りたい衝動にかられたが、何とか我慢して事務机の椅子をベッドの方に向け、背筋を伸ばして座った。
「で、話は?」
「はい、実は……」
のたうち回る心臓を押さえつけながら俺は状況を整理して説明した。
「お前はどう思う? 相手が危険な新兵器を手に入れようとしているというのは推論に過ぎないのだろ? 推論に基づいて先に撃つのか? 新兵器は使われなければ人は死なないが、戦争になれば人は確実に死ぬんだぞ」
アリスは声を荒げたりはしなかったが、その視線は真剣そのものだった。
予想通りの反応だった。
アリスは性格が多少きついが、物事の考え方はまともで、そして、とても真面目だ。
表面上穏やかであるにもかかわらず、腹の底で何を考えているかわからないアイザックとは大違いだ。
「正直、個人的にはアイザックの意見に同調できないですが、上官の命令ということであれば逆らい難いですよね」
目のやり場に困りながら、俺はため息をついた。
油断するとどうしてもパジャマの胸元に視線が向かってしまう。
胸元から視線を遠ざけ、アリスの顔を見ると、彼女は憮然とした表情を浮かべて黙っていた。
俺は仕方なく言葉を続けた。
「カギを握るのは、レイチェルと艦隊司令になると思います」
「レイチェルはあてにならないだろ」
俺もレイチェルがアイザックに『論破』された出来事を思い出した。
「そうですね。多分、レイチェルもアイザックと同じ判断を下すんじゃないでしょうか。何せ、人工知能管理法第一条に規定されている『予想される危険を見過ごすことによって、地球市民に危害を及ぼしてはならない』に抵触する内容ですから」
「となると、あとは艦隊司令か」
アリスは小さなため息をついた。
「俺はレイチェルの前で艦隊司令にお伺いを立てるようアイザックに意見具申するつもりです」
アリスに了解してもらうとともに必要な援護射撃をしてもらいたかった。
二人きりで話をしたかったのは主にこれが言いたかったからだ。
「頼む。問題はその時、艦隊司令と連絡が取れるかだな」
「そうですね。電子戦の一環で通信妨害されると厳しいです。艦隊司令の乗ったゴブリンとは距離があることですし」
「しかし、逆に敵が電子戦を仕掛けてくるようなら、こちらも悩む必要がなくなる。事実上の戦闘行為だからな。戦うしかない」
「そうなったら、俺も腹をくくります」
残念ながら俺たちは政治家ではない。軍人なのだ。
「いい表情だ」
アリスの頑なな表情が緩み、仔猫のような愛らしい顔に微かな笑みが浮かんだ。
「えっ?」
予期しない誉め言葉に心臓が跳ねた。
「いや、何でもない」
アリスはすぐに表情を消した。
「あの、ところで、アイザックのことを以前からマークしていたんですか?」
緊張の解けた俺はずっと引っかかっていた疑問を口にしてみた。
「どういうことだ?」
アリスは猫のような雰囲気の目を細め、警戒の色を浮かべた。
「以前、アイザックやレイチェルのことを聞いてきたじゃないですか」
「そうだったな」
「今も言えないんですか?」
詰問口調にならないように俺はなるべく優しい声で質問した。
「父に命じられたんだ」
アリスは目を伏せ、つぶやいた。
「えっ?」
「父は軍隊内部の不穏分子を内偵するセクションでな。アイザックは危険視されている軍人のひとりなんだ」
「内偵の仕事は、お兄さんの代わりに、ですか?」
このタイミングで聞くのもどうかと思ったが、つい、気になっていることが口をついた。
アリスは、この前寝言で『父さん、私が兄さんの代わりになります』と口走っていた。
「あっ? 何を言っている」
アリスは急に鋭い視線を俺に浴びせた。
「いっ、いやその、お兄さんの代わりを務めるとか何とか言ってたのを聞いたような……」
まさか寝言でとはっきり言うこともできず、はぐらかせた。
「兄は死んだ。事故でな」
アリスの目から鋭い光が消え悲しい色が浮かんだ。どうも心の傷に触れてしまったようだ。
断片的な情報から勝手に推測すると、息子を亡くした父親を慰めるために、息子の代わりを務めようとしているらしい。健気だ。
「すみませんでした」
「いや」
アリスは怒ったりはしなかったが、遠い目をしていた。
俺は余計なことを聞いてしまったことを少しだけ後悔した。
そして、アリスの男勝りの言動を少しだけ理解した気になった。
毎週土曜日に更新予定です。
皆様に楽しんでいただける作品になるよう頑張りますので、よろしくお願いいたします。
 




