第二話 『廃人の妹は大抵かわいい』
電気をすべて消した真っ暗な部屋の中、光源はカーテンの隙間から差し込む細い日光の筋と、煌々と電子的な光を放っている三台の液晶画面のみだ。
机の上には食べかけのスナック菓子の山と、ジュースの空き缶山が今にも雪崩が起きそうなくらいに積み上がっている。
壁にはツインテール少女のイラストポスターが一面に貼られている。
部屋の中心で、三台の液晶画面の前に座り、椅子のキャスターを前後させながら鼻歌を歌っている人影がある。黒髪をしばらくの間伸ばしっぱなしにしたようなボサボサの長髪で、目の下に深い隈が刻まれている。歳はおそらく十代半ばというところだろうが、その相貌は酷い有様で、歳を十歳は多く見積もっても違和感がない。
歌っている鼻歌は、スピッツの『ロビンソン』。相当な音痴だ。
鼻歌に合わせて軽快なリズムを刻むのは手元のキーボードを叩く音。
タイプ速度は相当早い。
液晶画面に表示されているのは、緻密な色彩画のような風景。
ストーリーゲームのフィールド画面であることは確かだが、これほどまでに緻密な背景のゲームというものを、他に知らない。
一言でいえば、美しい。
その画面の中で、白銀の髪を振り乱し舞う少女の姿があった。
瞳は海のような紺碧で、長い髪をツインテールに結っている。
愛らしいその少女は、壁一面に貼られたポスターのイラストによく似ている。
少女は両手に二丁拳銃を握り、それをしっかりと構えた。
その先にいるのは、サングラスをかけた金髪の青年だ。迷彩柄のつなぎに、黒いブーツ。手には長刃のナイフを握っている。そしてその切っ先は、少女へ向けられていた。
「俺は、飛び道具に胡坐をかいているようなやつには負けないよ。」
スピーカーから、低い男の声でそう聞こえた。
「そういう気負いは身を滅ぼす。」
耳障りな鼻歌が止み、少年の声がその声に答える。
「俺がどうして女の子のアバターを使うかわかるか?」
にやりと笑った口の端からちらりと歯がのぞく。
「単に可愛いからってだけだと思ったら大間違いだぜ。男のアバターの武器の選択肢は長刃ナイフ、バズーカ、ライフルの三択。それに引き換え女の子のアバターは日本刀、弓矢、二丁拳銃だ。」
画面の中の青年は、ゆっくりとした動作で刀を肩の上まで引き上げる。
「長刃ナイフはリーチが長い。だから接近戦では相手の急所へ攻撃を届かせるのには数段有利だ。」
少女は拳銃の安全菅を両方とも外した。
「でも、リーチが長ければ、振れ幅がそれだけ大きくなるってことだ。振り回したときの遠心力、刀の重量、振って戻すまでの動作の全てがコンマ数秒ずつ遅くなる。」
画面の中の青年が地を蹴って少女めがけて飛びだすのと、少女が体を沈ませ青年の懐目がけて飛び込むのはほぼ同時だった。
「そのコンマ数秒の遅れを取り戻すには、並大抵ならぬ脚力と長刃の遠心力に負けない強靭な腕力が必要だ。」
でも、と少年は続ける。
「拳銃の弾を二つ続けて避け、さらに体勢を立て直し、敵を討ち取ることは…——」
少女はナイフを避け、青年のナイフを握っていた方の腕に一発。腕を撃たれた痛みにもがく青年へ、少女はそのまま飛び掛かり、地面に馬乗りに押し倒した。少女の構えたもう一丁の拳銃の銃口が、青年の額へぴったりと当てられる。
「理論上、不可能だ。」
重い振動のように突き抜ける銃声が、スピーカーを震わせた。
液晶画面には、YOU WINの文字。
額の中央にビー玉ほどの丸い穴が空き、そこから真っ赤な血が流れ出る。青年の目は自分を撃った拳銃の引き金をただ一点に見つめ、いまは光を移さないただのビー玉になった。
画面は動かなくなった青年の躯が映し出され、それを見下ろすようなアングルで、黒一色へとフェードアウトした。
少年は液晶画面をじっと見つめている。
「ちなみに、接近戦なら二丁拳銃よりも日本刀の方が戦いやすい場合もあるんだけど……俺は基本的には、二丁拳銃しか使わないね。――エヴィには、この拳銃が一番似合うから。」
フェードアウトした画面に、白文字が表示される。
『ゲームポイント獲得数の記録が更新されました』
「お兄ちゃん」
二度の控えめなノックの後、キィという音を立ててドアが開き真っ暗な部屋に光が入る。
そこに立っていたのは、小学生くらいの女の子だった。髪を低い位置で二つに束ねている。淡い桃色のTシャツに、白い膝丈スカートを履いている。
「千沙」少年は振り返って、少女の名前を呼ぶ。「どうした?」
少女は顔を綻ばせ、少年に駆け寄ると、後ろから背中に飛びついた。少年が反動で前のめりになり、再び体を起こすと、少女は少年の頬に頬ずりした。
「何してたの?」
「ゲーム」
「何のゲーム?」
「オンラインゲームだよ。ストーリー形式のやつ。」
「ふうん」少女は少年の顔の脇から画面を覗く。「またお兄ちゃんが一位?」
「またってなんだよ」少年は困ったように微笑んで、片腕で画面をさっと隠した。
「そんなに毎度一位なわけじゃないだろ」
「でもこの前やってたアクションゲームも、一位だった」
少年はたまたまだよと返事をすると、片腕で少女の視界を遮ったまま、もう片方の手でマウスを操作し、画面に映っているゲームのウィンドウを閉じた。
「兄ちゃんより強い奴はたくさんいる」
少年の言葉に、少女は急に顔をしかめた。少年の背中から降りると、床に着地し、ひどく憤慨した様子で地団太を踏み叫んだ。
「そんなことない!」
「え」少年は突然怒り出した妹に戸惑い、思わず雑な返答を返す。しかし少女はそんなことには目もくれず、もう一度地団太を踏んだ。
「お兄ちゃんは、最強だもん!」どんどん、と両の足を踏みならす。「一位にだってなるもん!」
誰にも負けないもん!と、最後は涙目になって訴える。少年は目を丸くして少女を見つめていたが、やがてその顔に柔らかな微笑みを浮かべると、少女の頭を優しく撫でた。
「おだてても、なんもでねえぞ。」
少女は、少年に頭を撫でられながら、目をぱちぱちして、鼻をすすった。
「そんなこと、思ってないもん!」
少年は「そぉかぁ?」とわざとらしい返事をする。
「じゃあじゃあ、おねだりしないから」と、少女から前置きがあった。
「千沙に、フェアリーベアのキーホルダー買って?」
翌日の昼休み、いつものように屋上で昼食を食べ終えると、芳賀は委員会の用事があるからと俺よりも先に屋上を出て行った。俺は今日も焼きそばパンを残し、野菜ジュースとたまごサンドを腹に収めると、軽くなったコンビニのビニール袋を片手に教室へ戻った。
昼休みが終わり、退屈な数学と現代文の授業を消化すると、放課後、俺は再び屋上へ上った。
「仇虫くん」
屋上のドアを開けると、柵にもたれかかって立っていた芳賀が気付いて手を振った。
俺は「おう」と呟く程度の大きさで曖昧に返事をし、芳賀の横まで歩いていく。
「聞いて」芳賀は俺を目で追いながら若干くい気味に、身を乗り出してきた「明日、うちのクラスに転校生が来るそうなの」
興奮して目を輝かせながら芳賀は嬉しそうにそう語った。
「へえ」俺はそのまま歩いて行って、柵にもたれかかる。「それって、他の奴に喋っていい情報なのか?」
芳賀は両頬を膨らませ、恨めしそうに「いじわる」と呟いた。
「もちろん、ダメだよ。でも言いたかったんだもん、いいじゃない、黙っておいてよ。」
「委員長は、相当信用されてるんだな。」俺は小さく欠伸をした。「担任も気の毒に。」
「普段はちゃんとしてるでしょう。委員長の仕事だってちゃんとしてるし。」
「そうだな」
「わたし元々は要領悪いのよ。なのによくやってると、自分では思うんだけどな。」
「そうだな」
「……ちゃんと聞いてる?」
「聞いてるよ」ぼんやりと空を仰いだ。「お前じゃなくたって、誰でもあれだけの量の仕事をこなすのは骨が折れるだろうなと思うよ。」
「なによ……怒ってよ。というか、叱ってよ。」芳賀はくるっと後ろを向くと、後ろ手に手を組んで俺から少し離れた。「そんな風に言われたら、なんだか突き放されたみたいで悲しいじゃない。」
別に俺は、と言いかけて、芳賀に「わかってる」と遮られた。
「違うのよ、ちょっといじけてみたかっただけ」芳賀はスカートのプリーツの裾を直しながら、ついでに裾についたゴミを払った。「委員長なんて、わたしに全く向いてない職を押し付けられて、愚痴、っていうのかな、を、ちょっと言ってみたくなったのよ。」
「だって、成績が一番だから、なんて、すごく良いこじつけになるでしょ?――別に、誰もやりたくない役職を体裁よく押し付けられただけだって自分でもよくわかってるのよ。」と芳賀は言ったが、俺はそうは思っていなかった。
芳賀の人の良い性格と、責任感の強さを買って指名されたんだということは、クラスの誰が見ても明らかだっただろうが、本人はそれに全く気付いていないのか。
俺はそれを芳賀に伝えるか迷って、結局やめた。
「それはそうと仇虫くん」芳賀は俺を振り返った。「その転校生、気にならない?」
嬉しそうに、さっきよりも目を輝かせる芳賀に俺は「なんで」と返す。
「とーっても美人なんだって。」
「へえ」
「帰国子女らしくてね!」
「ふうん」
「……銀髪碧眼の美少女だよ?」
「よかったな」
「……仇虫くん、全然聞いてないでしょ。」
芳賀の顔がみるみる不機嫌になっていき、しまいには上目づかいに睨まれてしまった。
俺は、苦笑する。「聞いてるよ」さして、興味がわかないだけだ。
芳賀は「本当に?」と疑いの目で俺を見つめる。俺は「本当に」と返事をする。
芳賀は小さなため息を吐いた。
「ま、いいか。銀髪碧眼の美少女は、口からでまかせだったし。」
おいおい
「でも、可愛いっていうのは本当だよ。昨日、その子が先生に挨拶しに来てたみたいなんだけど、職員室の先生たちみんなが振り返っちゃうほどの美少女だったって言ってたから。」
芳賀は、再び柵にもたれかかり、眼下に広がる校庭へ視線を落とした。
芳賀に倣って俺も視線を下へ下すと、校庭の中央で野球部の生徒たちが紅白試合をしていた。まだ手元のおぼつかない外野の選手は一年生だろうか。そのすぐ近くでしっかりとグローブを構えている二塁の選手はおそらく三年生だろう。ピッチャーの、頭を刈り上げにした選手には見覚えがある。同じ二年生のクラスメイトだ。
「中年親父どもが全員振り返ったとか言われてもなぁ……」
俺は校庭を眺めるのを止めて、屋上の柵に背を向けた。
その姿勢で、両肘に体重を預けてもたれかかる。
「女の先生も」
「……なおさらわかんねーよ」
だいたい、女子は女子に甘いからな。
「馬鹿だなあ、仇虫くん」芳賀が苦笑する。「女子が女子を褒めるのは社交辞令だよ。そういうときの可愛いと、思わず振り返っちゃうほどの美人を比べたらダメだってば。」
「それでも」俺は右手でネクタイの端を弄る。「女子の可愛いには、賛同しかねるけどな。」
そう言って、俺は芳賀からの返答を待った。
ところが、しばらくしても芳賀は何も応えなかった。
どうしたのだろうか、と俺は芳賀の方へ視線をやった。芳賀は、黙ったまま校庭を見下ろしていた。その視線はどこか虚ろで、校庭の方を見てはいるが、どこにも焦点が合っていないようだ。今の芳賀には何も見えていないような気がした。
「わたしはどちらかっていうと、男子の可愛いの方がよっぽど甘い評価だと思うけどな?」
急に芳賀はそう呟いた。
俺はなんと応えたものかわからず、「へえ?」と返す。
「だって、女子から見たらたいして可愛くない女の子にも、男子は可愛いっていうじゃない?」何かを試すような、僅かな沈黙があってから「たとえば、樂城さんとか。」
俺は思わず芳賀を凝視した。唖然として、次の言葉が出てこなかった。
かといって沈黙するわけにもいかず。
「お前がそういうこと言う奴だとは」俺は芳賀から視線をそらす。「意外だな」
「そう?」芳賀の声がそっけない響きに変わる。「そんなこと思ってないでしょ。」
「いや、むしろ、そういうこと言うのはアイツ……樂城の方だと思ってたよ。」
本音だった。アイツは、良くも悪くも自分に正直だ。包み隠さない。だが、芳賀はどちらかといえば、社交辞令を怠るような奴じゃないし、こんなふうに他人の、ともすれば悪口になるようなことをいうやつではない。――いや、それは俺の勝手な思い込みだろうか。
「仇虫くんは、樂城さんを信用してるのね。」芳賀は苦笑した。「樂城さんがそういう人だってわかってて、それでも普通に付き合えるんだもん。」
「別に、お前ほどじゃないよ。」俺は空を仰ぐ。「お前は、誰でも、樂城に対しても平等で、陰口ひとつ叩かない。化け物みたいに優秀な人格者だよ。」
だから意外だったよ。お前が他人をそんなふうに言うなんてさ。と、付け加えた言葉に芳賀は顔を歪め、自嘲するように口元だけで微笑んだ。
「わたしだって」唇を噛む。「あれだけわかりやすく嫌がらせされれば、嫌でも気付くよ。」
そこまで鈍感じゃないよ、と芳賀は困ったように笑ったが、その顔は笑うんじゃなく、むしろ泣きたがっているように見えた。
「仇虫くんって」芳賀が俺のほうを向く。「たまにすっごく、清清しいくらいにさらっと、酷いこと言うよね――辛辣だし、性質悪いなぁ。」
芳賀は笑った。
「……悪い。傷つけたか?」
芳賀は首を横に振る。
「ううん。化け物みたいなんて言われたら、ひどすぎて、むしろ冗談で流しちゃう。」
芳賀がすっきりした顔で、一度大きく伸びをした。俺はそれを眺めて、さっぱりした気分になって、それから芳賀を促して一緒に屋上を出た。芳賀とは駅まで同じ道を帰ることになるが、その日の帰り道は用事があると言い、違う道で帰った。