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ストーブ  作者: 佐嶋凌
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康祐

4月に入って、康祐(こうすけ)さんはまた仕事が忙しくなった。

新しい取引先ができたのだそうだ。大手商社と契約を結んだ。康祐さんの仕事のことにはまるで明るくない私でも、聞いたことのある名前だった。

前々からそうなるかもという展望は聞いていたけれど、ついに実現に漕ぎ着けたというわけだ。

さらに契約を取り付けた際に顔を覚えられて、その商社との取引はほとんど康祐さんを通すことになっていったらしい。

それがよくなかった。

康祐さんはすっかり忙しくなってしまって、休日でも会社に行くことが増えた。

ひどい時にはそのまま会社に泊まりこむこともある。

おかげさまで、私は家に一人でいることが多くなった。

せっかく用意した夕飯を、次の日も一人で食べた。

暇に飽かして、家中の整理整頓などしてしまう。

土日はいつも、康祐さんのお世話をするのが好きだった。

今週もお疲れ様、と言って過ごすだらだらとした休日が、私は本当に好きなのだ。

それができなくなって、一ヶ月が過ぎようとしていた。

だから、私は、


「あのね、康祐さん。私、今度の土日、千葉に帰ろうと思うの」


ある日、康祐さんが珍しく早く帰ってきた日、そう告げることにした。


「そうか」


康祐さんは、右手に持った何かの紙に目を通しながら、短く答える。

そして左手でビーフシチューをすくって、口に運んだ。

何度か咀嚼(そしゃく)して、ニンジンたっぷりのビーフシチューを嚥下(えんげ)してから、


「お義母(かあ)さんに、何か言われたのかい?」


そこで紙をテーブルに置いて、こちらを見る。


「ううん、別に。でも、もうずっと顔見せに行ってないから、久しぶりにと思って」


私は、目を逸らして、意味もなくビーフシチューをかき回しながら答えた。

どろりとした濃厚なビーフシチューは、少し重い。康祐さんは、甘いものに限らず、濃い味付けを好む人だ。

今日は久しぶりに早く帰ってこれると聞いて、昨日から何時間もかけて煮込んだから、いつもより余計にこってりしていた。


「そうだね。年末からこっち、ずっと忙しかったからなぁ」


康祐さんはまた一口ビーフシチューをすくって口元に運び、


「ゴールデンウィークも、空きそうにないしな」


そう呟いてから、口に入れる。

私は目を伏せたまま、康祐さんの一挙一動をちらちらと盗み見る。


「……やっぱりダメそう?」

「ああ。先方がどうにも満足してくれなくてね」


康祐さんはまた紙に目を落としていた。

私も視線を追ってみると、紙にはよく分からない図やら何やらが描いてあり、そこに赤や緑で手書きの注釈が添えてある。


「これ以上どこを直していいやら。高木さんに聞いてみないとダメだな」


ため息混じりにこぼして、康祐さんはそれきり紙から目を離した。


「まぁ、そんなわけで俺は行けないが。文香だけでも顔を出して来るといいよ」

「うん……」


康祐さんがまっすぐこっちを見るので、私は余計に顔を上げられなくなってしまった。

仕方なくビーフシチューを食べることにする。

ニンジンをこれでもかというくらい入れて長時間煮込んだビーフシチューは、とても甘い。


「確か、お義母さんに渡したいものもあるんだろう?」


ちょうど飲み込もうとした時に康祐さんが口を開いたので、私は咳き込みそうになった。

んぐ、と変な音が出掛かって、なんとか押し込める。


「大丈夫か?」

「う、うん」


コップに入ったオレンジジュースを一気に飲み干して、シチューを胃に流し込んだ。

康祐さんは一瞬苦い顔をしてから、


「写真だったか? ……お兄さんの」

「……」


触れるかどうか迷いながらといった様子で、訊ねてきた。

先月香織さんから受け取った写真を、私はまだ母に届けていなかった。

手渡す機会がなかったというのもある。

しかしそんなことは、郵送でもなんでもすればどうとでもなった。

それをしなかったのは、ひとえに私があの写真を忘れてしまいたかったからだった。


「……結局、なにも思い出せないの」

「そうか」


主語も目的語も省略していたけれど、康祐さんはそれで分かってくれた。


「苦しいなら、早く手放してしまうといい。きっとその方がいい」

「……うん、そうする」


康祐さんが微笑んで言うので、私も笑顔を作って返す。

貴文兄さんの葬式から戻って一番に、私は康祐さんに事と次第を話した。

と言っても、最初に母から相談を受けた時、貴文兄さんの話はしてあったので、お葬式であったことについてだけだったけれど。

葬儀に参列する資格がなかったと嘆く私に、それでもお兄さんは喜んでくれていたはずだよと、康祐さんは言ってくれた。

それでもあれから一ヶ月、私は逃げに逃げ続けた。

母にメールだけで簡単な報告を済ませ、それ以降はその話題に触れないようにしていた。

貴文兄さんのことを何も思い出せず、この一ヶ月ずっと自分を責めていた。

幸か不幸か、康祐さんが忙しくなって、考える時間はたくさんあったので、貴文兄さんの思い出を探してもみた。

しかし記憶の中の貴文兄さんは、相変わらず『アヤ、あっちいってろ』と言うばかりだった。

やっと実家に帰る気になったのは、少し心の整理がついたからだ。


「ご飯、準備できないけど、ごめんね」

「いや……俺の方こそ、最近あまり一緒に食えなくてごめんな」


康祐さんは、自分がどんなにつらい時でも、私を助けようとしてくれる。

自分にできることをしようとしてくれる。

今日早く帰ってきてくれたのだって、その一環だろう。

少しでも長く一緒にいてくれようとしているのだ。


「ううん。土日までお仕事で大変なの、分かってるから。がんばってね」


だから、私はいつも、あと一歩のところで康祐さんに頼りきることができないでいた。

それを幸せと呼ぶのか不幸と呼ぶのか、私には分からないけれど。


「ああ、ありがとう」


それきり会話は途切れてしまった。

スプーンが皿に当たる音が、テレビの声に混じって聞こえる。

甘ったるく濃厚なビーフシチューを、少しだけ口に運んだ。

少しだけ。

私はいつも、口いっぱいに頬張って噛み締めることができない。


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