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月の山  作者: 綾瀬 徹
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その背中には

 毎日が当たり前に過ぎていく日常に嫌気(いやけ)がさした。

 そう言ってしまえば理由になるだろうか、ただここじゃないどこかへ行きたかった。

 誰にも気づかれないように家を抜け出し、向かう当てもなくぼんやりと足を進めていると、

 山奥へとやって来てしまった。


 夜も深まり、当たりは静寂(せいじゃく)漆黒(しっこく)だけが(うかが)える。

 帰る道も、進む道もわからない。

 ただ帰りたくないという気持ちだけで山を歩いていたからだろうか、

 目の前に広がる世界の中で、木々の隙間から垣間(かいま)見える大きな月だけが、

 少女の道を照らしていた。


『こんな所に珍しい。』


 不意に月の方から男の低い声が耳に届き、少女は足を止めて月を(あお)ぎ見た。

 そこで出会った、生まれて初めて見る生物に、私は恐怖(きょうふ)を感じるでもなく、

 その美しい容姿(ようし)魅了(みりょう)された。


『人の子が迷い込むにしては、少し奇妙な時間だな。』


 月明りを背に輝くシルエットに青白く発光する黒い翼が、

 まるで天使かあるいは悪魔に見えた。

 長く綺麗な白い髪を(なび)かせて、赤い瞳が優しく細められる。


『お前は何を望むんだ?』


 そこにあったのは、不安でも恐怖でもなく、道標(みちしるべ)を得たような安心感。

 得体の知れないモノを目の当たりにして、こんな感覚を覚えるなんて、

 やはり自分はおかしいのかもしれないと思った。


『私は、…―――。』


 真っ暗で不安ばかりの心を、温かく照らしてくれた優しい山の(ぬし)

 人の世界とは無縁の世界で生きる、私は天狗に拾われた。


**

 人が立ち入る事が出来ない程の山奥に、ぽつりと存在する(やしろ)が一つ。

 ピチチと(さえず)る小鳥の声に目を覚ました娘は、自分が寝かされていた部屋から抜け出し、

 社を取り囲む深い緑に目を奪われた。


「人間は意外と早起きなんだな、おはよう。今日は朝露(あさつゆ)が太陽に反射してとても綺麗な庭が見えるぞ。」


 太陽がまだ半分も昇らない時刻だというのに、大きな黒い羽根を背中に背負った天狗は、

 優しい笑みを娘に向けていた。


「そうだ娘、お前の名は何という?」

「名前?」


 突然思いも寄らぬ事を聞かれ、娘はつい聞き返してしまった。

 そういえば、名乗っていなかったような気がする。

 互いに挨拶をするタイミングもなかったし、昨夜は不慣れな山歩きで相当疲労が溜まって居たらしく、

 床に着くなりすぐに眠りついた。


「ここがお前の家になるのであれば、お互い呼び合う名前は必要だろ。

まだ迷いがあるなら少し待ってやろう、だが名はないと困る。私の名は月琶(つきのわ)だ。お前の名は何という?」


 今だ揺らぐ瞳の娘に、月琶は猶予(ゆうよ)を与えてくれた。

 その言葉に娘は、この天狗がとても優いのだと思った。


 文書や物語に出てくる天狗は、(おも)に人の子を(さら)ったり、神隠しという現象を起こしたり、

 時に人に迷惑のかかる(おこな)いを平然とやって見せるとあった。

 だが現実の天狗と書簡とで、違った姿で目の前にいた。


「名前は…」


 しばらくたっても(うつむ)いたまま口を開かない娘に、

 月琶は朝焼(あさや)けの空を見つめながらしばらく考えるような素振(すぶ)りを見せ、

 何かを思いついたように優しい声で呟いた。


「……、瑠璃(るり)はどうだ?」

「え?」

「お前の名だ、ないというなら私がつけてやろう。夜明けの、瑠璃色の空と同じ名前だ。」


 そう言いながらも暖かく優しい微笑を浮かべてみせると、娘が小さく頷くのが分かった。

 月琶は傍らに佇む娘に気付かれないように、心の中で小さなため息をこぼした。

 嬉しそうにはにかむ表情があまりにも幼くて、

 人間という生き物がここまで守護意識を掻き立てられるものだっただろうかと小首を傾げてみる。


「あら、人間臭いと思ったら人間の小娘じゃない。」


 突然どこからともなく聞き覚えのない、少し高い男の人の声が耳に届いた。

 口調がどこかカマっぽい響きを帯びていたが、辺りをきょろきょろと見渡しても、

 声の主はどこにも見当たらない。


「なんか妙にどんくさい小娘だこと。」


 気づくと目の前に少し大きめな三毛猫が一匹、こちらを見つめていた。


(いず)()、なんでまた酒臭いんだ?」


 すっと月琶が前へ出て、三毛猫の前にしゃがみ込んだ。

 孰季と呼ばれた三毛猫は、少し高飛車な態度で月琶の前に腰を下ろす。


「あら、何言ってるのかしらこの天狗は。お月見に決まってるでしょう、昨晩は満月だったのよ?月見酒は欠かせないわ。」

「相変わらず猫のくせに酒豪だな。」

「ちょっとあんた、アタシをそこらの猫と一緒にしないでちょうだい。」


 しばらく月琶と孰季の会話を聞いていて、普通の猫は尻尾が一本のところ、

 孰季には二本あることに瑠璃は気付いた。

 言葉を発するだけでも非常識だというのに、

 尻尾が二本というのはどのような生体変化が起きたのかと思うほどだ。


 ふと尻尾が二本ある猫の妖の事を思い出す。確かあれは、猫又という妖だっただろうか。


「瑠璃、こいつはこの社に住み着いている猫又の孰季だ。」

「は、初めまして。えっと、瑠璃です。」

「瑠璃?人間にしては変な名前だこと。」

「俺がついさっきつけた名前だからな。」

「あぁ、どうりで。ネーミングセンスがないと思ったのよね。」


 孰季の言葉に、月琶は少しむくれたようにうるさいと呟いた。

 気づけば、すでに太陽は少し高い処に昇っていた。


「そろそろ飯にするか、すぐ準備するから待っていろ。」


 そう言って、月琶は一人で先に社の中へと入って行った。

 取り残された瑠璃は、傍らに小さく座る孰季を盗み見る。

 二本の尻尾をユラユラと左右させながら、ただ黙って隣に座っている。

 その姿を見ていて、瑠璃の脳裏に何かと重なる存在が浮かんだ。


「あんた、猫又はどういう妖か知っていて?」


 突然そんなことを聞かれ、瑠璃は一瞬動揺した。

 何を目的として聞いているのか、孰季の表情からは何も読み取れない。


「いえ、よくは知りません。」

「あらヤダ、敬語なんて使わないからいいのよ。」

「え、でも。」

「まぁ、あんたが立派な人っていうことはわかるけどね。」

「そんなことは。」


 ふいに瑠璃の表情が暗く落ちていくのが分かった。

 それを見て、何かを考えるようにしばらく瑠璃を見つめる。

 どうして見つめられているのかわからずおどおどしていると、縁側からひょっこり月琶が顔を覗かせる。


「なんだ、まだこんなとこにいたのか?ご飯できたぞ」


 月琶に呼ばれ、瑠璃と孰季は社へ上がった。


 朝食を後にした瑠璃(るり)は、一人縁側で日向(ひなた)ぼっこをして過ごしていた。

 食べた後だが、ここでは何もすることがないのだ。

 人の世界で生きていて、学校や規則など色んなモノに縛られていた。

 毎日が詰まらなくて、毎日が色褪せて見えた。

 これから先の未来が全く見えない日常で、作られた面白味のない平坦な道を、

 ひたすら歩き続けろと強要されているような感覚が、嫌だっただけなのかもしれない。


 ふいに、傍らに温もりを感じた。暖かくて懐かしいと思いながら、瑠璃はそちらへ視線を向ける。


「孰季って、ちゃんと猫なんだね。」


 昔飼っていた猫の仕草を思い出しながら、孰季の顎の下を撫でてやる。

 ゴロゴロと気持ち良さそうに喉を鳴らす姿が、あの猫と重なって見えた。


「猫又っていうのはね、山奥で暮らしている奴と、人に飼われていた奴の二種類いるの。普通の猫と大差ないけど、普通の猫でもない事を覚えておきなさい。」


 それだけ言うと、孰季は小さく丸くなって眠りについた。その姿を見ていると、

 どこが普通の猫と違うのかわからなくなる。

 孰季が何を言いたかったのかわからず、瑠璃はぽかぽかの日光と孰季の寝息に眠気を誘われ、

 寄り添うように昼寝をした。


**

 瑠璃が社で暮らすようになって早三週間が経過していた。

 そんなある日、夜も深まる真っ暗な山の中。

 翼があるのに歩いて獣道を進むのもめんどうだと思いながら、月琶は孰季と共に月見酒に出かけていた。


「何で俺が・・・。」

「たまにはいいじゃない、これも主の仕事のうちよ。」

「月見を仕事だと思いたくはないな。」


 そんな会話をだらだら交わしながら山道を歩いていると、不意にどこからか声をかけられ、

 月琶と孰季は足を止めて振り返る。


「おや珍しい、こんな時間に主様と遭遇するとは。」

「お久しゅうございます、そのご様子では主様もお月見ですか?」


 そこに居たのは二匹の狐だった。

 ふさふさの尻尾を振りながら、四本足で月琶と孰季に駆け寄る。

 開いているのかわからない細い瞳でみつめられ、そこに敬愛の念が含まれているのが読み取れた。


「あぁ、孰季に無理やり連れて来られてな。」 

「何よその言い方、癪に障るわね。」

「孰季もたまには良いことをする。」

「たまにはってどういうことよ!」

「さぁさぁ参りましょう。」

「ちょっと無視してんじゃないわよ!」


 今にも狐達に襲い掛かろうとしている孰季を抱き上げると、強引な狐達に背中を押されて、

 月琶は仕方なく黙って歩く事にした。

 

 しばらくその調子で歩いていると、木々の隙間から青白い光が見えてきた。

 それは大きな水たまりに反射した月の光で、この山で一番月がきれいに見える場所だった。

 その場所では、毎晩のように月見酒と称した宴会が行われている。


「あれ、月琶じゃん。何、お前も酒盛りに参加すんの?」


 珍しいと歩み寄ってきたのは、月琶と兄弟のように仲が良かった同じ天狗の(いさ)(がき)だった。

 彼の黒く長い髪が夜風に撫でられて少し揺れる。月琶は諫垣が手に持った酒瓶に目を移した。


「いや、孰季に連れて来られただけだからもう帰る。あんまり呑み過ぎんなよ。」


 言うと、月琶は来た道を戻ろうと踵を返した。がそれを諫垣はよしとせず、背後から肩を掴まれる。


「ちょっと、何帰ろうとしてんの?」


 月明かりに照らされても、その自信に満ちた黒い瞳は全く揺るがない。

 月琶は真正面からその目を見据え、溜息を一つこぼした。


「一杯だけだからな。」


 水たまりに背を向けていた体の向きを変えると、諌垣はそうこなくっちゃ、

 と満面の笑顔で月琶の肩に腕を回した。


 そんなこんなで真夜中の月見酒は主様の参加にいつも以上に盛り上がり、

 集まってきた妖と共に月琶も月見を楽しんだ。

 昔はよくこうやって仲間内で宴会を楽しんでいたが、最近ではそんなことも出来なかった。

 たまにであれば構わないと心の中で呟いて、ふと諌垣と視線が合った。


「そう言えばお前最近流れてる噂知ってる?」

「ん?」


 不意に隣に座った諌垣が酒を傾けながら呟いた。

 噂好きなやつらがたくさんいるこの山では毎日のように新しい噂が飛び交っているのだが、

 諌垣があえて月琶に話をする内容は珍しい。


「人間がこの山に入り込んでるらしいんだ。」


 諌垣の言葉に月琶の心臓が跳ねた。瑠璃ことは他の妖たちに何も言っていないのだ、

 しかも諌垣に瑠璃の事を知られるのは一番避けたかった。


「その噂、いつ頃から流れてるんだ?」


 平常心を装いながら諌垣に聞き返す。


「2週間くらい前だったかな、山の中で人間の臭いが鼻につくようになってさ。人間が迷い込んでそのまま住み着いてるんじゃないかって噂がよく耳に入ってくるんだよ。他の奴らも気にしてるみたいだぜ。」

「お前の事だから自分で調べたんだろう? 人間は山に居たのか?」


 月琶の真剣な表情に、諌垣も自然と顔を引き締めた。

 が、すぐに彼の口元は緩み、飄々とした様子で姿勢を崩しながら酒に口をつけた。


「一ヶ月くらい前に人間らしい影を見たって奴はいたけど、ここ最近人間を見た奴は居ないよ。」


 その報告を受けて、月琶は内心で安堵のため息をついた。

 瑠璃の事は全然気付いていない様で、臭いだけならただの噂として処理できるだろう。

 頭の回る奴がどう動くかによって月琶の行動は決まる。


「もし本当に人間がこの山に居るとしたら、俺は容赦しないけどね。」


 不意に呟かれた言葉が耳に入り、月琶は諌垣へと視線を向ける。

 殺意と憎悪が、酒に火照った顔でも伝わってくる。


「山で騒動を起こすなよ。」


 それだけ言うと、月琶は立ち上がって孰季の方へと歩いて行った。

 その背中を、諌垣が疑うような目で見つめていた事にも気づかずに。


**

 朝日が昇り、瑠璃はうっすらと夢から覚めて体を起こした。


「また変な夢見たな…。」


 痛む頭を押さえながら、先ほどまで見ていた夢の内容を思い出す。

 暗い部屋に、甲高い女性の声が隣の部屋から響く。

 それが耳に入る度に恐怖で体が震え、自信の体を抱きしめた。

 心の中で大丈夫、きっと助けてくれると呟いて、涙がにじむ瞼をぎゅっと閉じる。

 ガラス製の物が床に叩き付けられる音と何か重いものが倒れる音がして、すぐに辺りは静かになった。

 その様子に気づいて顔を上げると、スっと襖が開いて、そこには大きな何かが立っていた。

 この社で暮らすようになってよく見るようになった夢は、その何かの存在を教えてはくれない。

 いつも中途半端に終わって、目を覚ますと激しい頭痛に襲われた。


「もう考えるのなし、朝食の支度しないと!」


 頭を切り替えて、瑠璃は身支度を整えると台所へ足を運んだ。

 ここへ来てからずっとご飯を共にしているが、瑠璃の食べれない物が出たことはなく、

 それを月琶も孰季も平気な顔をして食べている。

 それはつまり、人間と妖の食生活に違いはないということなのだろう。

 だから朝食を作るよう任せられても、困りはしない。

 料理を作るのは好きだったので、時間が経つのは早かった。

 気づけば料理は完成していて、あとは運ぶだけ。

 そういえば、太陽はすでに昇っているが孰季と月琶の姿を見ていない。


「寝坊でもしてるのかな?」


 孰季と一緒に月見に出かけた月琶の嫌そうな顔を思い出して、

 もしかしたらまだ孰季も月琶も帰ってきていないのではと首を傾げた。

 社の中を少しだけ探してみるけれど、本当に誰の姿も見当たらない。


「えっと、ご飯どうしたらいいんだろう。」


 縁側に立ち、本当に困ってしまった。

 頼まれたから朝食の支度をしたというのに、誰も居ないというのは、怒ってもいいのだろうか。

 怒る相手はどこにも居らず、瑠璃は社の中に一人と思うと寂しさを覚えた。


「一人で食べちゃおうかな…。」


 ぽつりと呟いて、瑠璃が踵を返そうとしたとき。庭の草木がガサガサと揺れるのがわかった。

 なんだろうかとそちらの様子を窺っていると、ひょっこり顔を覗かせたのは孰季だった。


「瑠璃良い所に、探す手間が省けたわ。緊急事態だからアタシの言う事に従いなさい!」


 言いながら、孰季は瑠璃に飛び掛かった。


「え? ちょ、ちょっと!」


 何やら慌ただしい孰季の様子につられて、瑠璃も慌ててしまった。

 急ぐように社の中へ飛び込んで、孰季は物置部屋へと瑠璃を連れてきた。

 孰季は物置部屋に着いてすぐに、そこら辺のダンボールの中をあさり出した。

 あれでもないこれでもないと言いながら、あちらこちらひっくり返している。


「緊急事態って、何があったの?」


 瑠璃の疑問に、孰季はくるりとこちらを振り返る。

 口には白い物を(くわ)えていて、真剣な表情をしながらそれをこっちへ持ってきた。


「今から月琶の昔馴染みが来るわ、そいつに人間だって絶対知られないようにこれをつけて。」


 孰季が渡してきたものは、白い花の髪止めだった。


「可愛い。」


 素直な感想が口から洩れると同時に、見覚えを感じでじっと見つめる。


「こらっ!」

「あ…。」


 手の上でまじまじと眺めながら引っ掛かりの原因を探っていると、孰季がそれを奪い取って行った。


「時間がないんだから早くおよし、これで髪を束ねて。少しは人間の臭いも誤魔化せるはずよ。」


 結局の処、状況が飲み込めないまま瑠璃は髪止めをつけさせられた。


「ただいま!」

「まったく、やっと帰ってきた。」


 玄関の方から月琶の声が聞こえてきて、孰季がやれやれと言った様子で自分の部屋の方へと向かった。


「あれ、孰季どこ行くの?」

「昨日から寝てなくてアタシは眠いのよ。」

「ご飯できてるよ?」

「じゃぁ食べてから寝かせてもらうわ。」


 部屋に持ってきて頂戴とだけ背中越しに言うと、孰季はそのままスタタと自室の方へと行ってしまった。

 瑠璃は孰季の後姿を見つめながら、様子がどことなく不自然に見えてしょうがなかった。


「瑠璃ご飯できてるか?」

「あ、うんっ!」


 ボーっと孰季のことを考えていると、縁側の方から月琶に呼ばれ、小走りでそちらへと向かった。

 声が下方向へと進むと、縁側でうろうろと落ち着きのない月琶の姿があった。


「どうかしたの?なんか落ち着かないね。」

「え?いや、そんなことは…っと、そうだ。急で悪いんだけどご飯を一人分追加してもらえないか?」

「え?うん、わかった。お客さん来てるんだっけ?」

「あぁ、まぁ…な。」


 瑠璃の何気ない言葉に、月琶は少し気まずそうに視線を逸らした。

 どこか歯切れの悪さを感じて、月琶はその客と瑠璃を会わせたくないのかもしれないと思った。

 瑠璃は孰季の部屋に居るように言われ、行き場のない不満が胸のあたりで渦巻くのを感じた。

 瑠璃には、月琶の考えていることがわからない。


「孰季、ご飯持ってきたよ。」


 月琶と別れて一人分のご飯を追加した後、瑠璃は二人分のご飯を持って孰季の部屋へと訪れた。

 両手がふさがっていて襖を開ける事ができずに佇んでいると、見かねたように中から襖が開かれた。


「一緒に食べるんだろう、ぼさっとしてないで入ってちょうだい。」


 少し落ち込んでいた瑠璃の表情を見て、孰季は困ったものだと思いながらも、優しく声をかけてきて、

 それが申し訳ない気持ちになった。

 部屋の中へ入り、向かい合ってご飯を食べる。

 孰季は器用な手を持っていないから箸などは使わず、猫のようにご飯を食べている。

 瑠璃達と同じ物を食べているから不便なのではないかと思ったこともあったが、

 それはもう孰季にとってはとるに足らない問題だった。


「今日帰りが遅かったけど、何かやってたの?」

「ちょっとね。」 


 瑠璃は雑談をしようと口を開いた。

 だが、返ってきたのは予想以上に冷たい言葉で、瑠璃は気まずくなって俯いてしまった。


「そっか…。」


 ちょっとした雑談のつもりが、どうしてこうなってしまうのだろう。

 胸に渦巻いていた不満や不安がぐるぐると増幅していくようで、瑠璃は居た堪れなくなった。

 拒絶を感じるたびに、彼らとの距離を感じてしまう自分がいる。

 それはきっと疎外感だった。

 人の世界を捨てこちらに来たとはいえ、彼らにとって瑠璃は所詮よそ者でしかないのかもしれない。


「・・・・・。」


 俯く瑠璃に気付いた孰季は、一瞬戸惑ってから、どうしようか考えた。

 月琶が連れてきたのは諌垣という天狗で、そいつはあまり接点のない奴だ。

 覚えがあるのは、前に一度だけ顔を合わせたとき、

 孰季に染みついていた人間の臭いに顔をしかめていたことだけ。


 諌垣はたぶん人間が嫌いで、だから月琶は諌垣と瑠璃を会わせたくないのだろう。

 人間を敵視して危害を加える妖が居るということを、孰季は教えた方がいいと思っている。

 いつかは知らなければならないことだし、知っておいても損はない。


 本人が意識してくれればこちらとしては守りやすくもなる。

 けれど、彼女には知らないでいてほしいという、孰季の本心がそれを拒んだ。


「ちょっとお手洗いに行ってくるね。」

「あ、ちょっと瑠璃待ちなさい!」


 沈黙が堪えられなくなったのか、瑠璃は立ち上がり、部屋を出て行ってしまった。

 孰季の声も耳に入らない様子で、そのまま廊下を進んで行く。

 その様子に慌てた孰季は、すぐに彼女を追って部屋を飛び出した。



 その頃、月琶は訪れた客人を客間に案内し、瑠璃が作ってくれたご飯を囲んでいた。


「これ誰が作ったんだ?」


 一口食べて、諌垣は月琶の料理じゃないことをすぐに察した。

 普通に考えてまず料理が出てくるのも早すぎる。


「あぁ、少し前から居候してる奴が今日は作ったんだ。」

「へぇ…」


 何か納得したように、諌垣は味噌汁に口をつけた。


「孰季はいつから人間界離れてこっち来たんだっけ。」

「藪から棒だな、確か3年くらい前だよ。」


 どうして急にそんなことを聞くのかと訝しむ月琶に、爽やかな笑顔を見せると諌垣は立ち上がった。


「ちょっと(かわや)借りるよ。」

「あっちょっと、俺も行く!」

「男連れとかいい気しないわ。」

「何言ってんだお前。」


 そんな会話をしながら客間の襖を開けたとき、月琶と諌垣の目の前にポカンとした、

 まさに安保な顔をした瑠璃がそこにいた。


「あ、もしかして月琶のお客さんですか?」


 少し慌てたように色々取り繕っている瑠璃を見て、月琶は内心焦っていた。

 瑠璃と諌垣を会わせたくなくて孰季に監視を任せていたというのに、

 どうして彼女は今目の前に一人でいるのか。


「瑠璃待ちなさいって言って・・・、あら。」


 廊下の角からかけてきた孰季の姿をみて、月琶はものすごく落胆した。

 あいつは何をしているのだろうか。


「もしかして君が、少し前から居候してるっていう?」

「そ、そうなんだよ。」

「なんで月琶が答えるんだよ。」


 諌垣の言葉に言い返せなくなって、月琶は少し黙った。

 その姿を見ていた孰季があのバカは何をしているのだろうかという様な目で見てきたため、

 更に居た堪れなくなってしまう。


「君もしかして人間?」

「え?」


 ふいに敵意を向けられたような鋭い瞳に、瑠璃は恐怖を感じた。

 どうしてかわからないが、この人は危険だと脳内で危険信号が鳴っている。


「ち、違います。」


 つい、口が勝手に言葉を発していた。

 月琶も孰季も少し驚いた顔をしているのが視界の隅で見える。

 それもそうだ、どうしてここで嘘をついているのか、瑠璃自身もわからないのだから。


「そっか、もし人間だったらどうしようかと思っちゃった。そうだよね、妖の主が住む社に人間が居候なんて有り得ないよね。」

「あの・・・」


 何を言っているのか、瑠璃には理解ができなかった。

 ただ分かる事といえば、この天狗から伝わる殺意というか、殺気というか。

 とにかく人を憎んでいるということがひしひしと伝わってくる。


「きっとこの人間の臭いは気のせいだよね、君のつけてる髪飾りかな?」

「髪が邪魔だっていうから貸してるだけでそれはアタシが人里から持って来た物だからね、人間の臭いがするのは当たり前でしょう。」


 孰季の言葉に、諌垣はゴミでも見るような眼を彼に移した。

 疑いというよりはすでに、彼の中でもう確信へと変わりつつあるような感じ。


「そっか、それならこの家から人間の臭いがするのも頷ける。じゃぁさっさとそれを部屋に引込めてくれないかな、俺は臭いがするだけで切り裂きたくなるくらい人間が大嫌いなんだ。」


 彼は笑っていた。

 嫌悪や憎悪を表情に浮かべながら、人を殺す事を楽しいとでもいうように、その笑顔は醜く歪んでいた。


**

「瑠璃、お茶持って来たんだけど飲むか?」


 昼頃になって、諌垣は用事があるからと帰って行った。

 それを見送った月琶は少し控えめに孰季の部屋に訪れている。


「ごめん、置いといて。」


 諌垣に会ってから、瑠璃は孰季の部屋でずっと塞ぎ込んでいた。

 本当は自室へ戻ろうとしていたのだが、

 それはあまり勧められなかったので孰季が自分の部屋に引っ張り込んで今の現状である。


「私、妖のこと知らないんだね。」


 瑠璃の様子を見てどう声を掛けたらいいのかわからずにいる二人に、瑠璃の小さな声が届く。


「そりゃあ、お前は人間だからな。」

「そうよ、わからなくて当然だわ。」

「妖の事教えてほしい、何も知らないで月琶と孰季に甘えてるのは嫌。」


 そう言いながら顔を上げた瑠璃の表情は、とても悲しそうだった。


「彼はどうしてあそこまで人を嫌うの?」


 塞ぎ込みながらそんなことを考えていたらしい真剣な瑠璃に、孰季と月琶は顔を見合わせた。

 どうしようかと悩んでいるようだったが、瑠璃の意思に応えようと考えて、こちらを向き直った。


「ちょっと長くなるんだけど、聞いてくれるか?」


 月琶の言葉に頷き瑠璃を確かめてから、彼は小さく微笑んでゆっくりと言葉を紡いだ。


「今では妖は人間を嫌い、人間も妖の存在を認識していない。だけど昔は人間と妖だって互いを認識し合って仲良く共存できていた。」


 人間がまだ妖の存在を認知していた時、とある集落で彼らは心安らかに共存していた。

 妖は人を好きだったし、人も妖を好いていてくれた。家族のように暮らし、

 強い結びつきを持った人間と妖の男女も居た。


 そんなある日、人間と妖の関係を壊すきっかけになった騒動が起こる。


「ある家の主人が山の中で野犬に噛まれたように死んでいた。その頃からちょこちょこ耳に入っていた妖が人を襲うという噂を不安に思った集落の長が、本当に野犬なのか俺たち妖の仕業なのかわからなくなっていた。その時は何とか俺たちの仕業じゃないと信じてもらえたんだが。」


 一難去ってまた一難という言葉があるように、騒動はそれだけで収まらなかった。

 同じように野犬に食い殺される人間が相次ぐ中、拍車をかけるように民家が荒らされたり、

 家畜が殺されるという事件が多発した。


「人間たちは手の打ちようのない現状に“これは人間の仕業ではない”と、俺たちの話も聞かずに全ての元凶は妖にあると決めつけた。」


 それでも妖側はどうにか共存しようと、懸命に犯人探しに駆り出された。 

 昼夜問わずに犯人を見つけようと走り回ったおかげで、野犬と家荒しの犯人の男を見つける事ができた。

 男は外から来た人間で、前に妖に襲われ経験をしていた。

 その恐怖を忘れられず、男は人間と妖が共存して居たその集落が信じられなかった。

 だから人間に目を覚ましてほしくてそういう事をしたのだと言う。


「その頃から、一部の人間が妖に対して余所余所しくなり始めた。特別仲が良かった人間以外は芽生えた小さな恐怖を隠せなかったんだろう。」


 今まで安全だと思っていたものが突然信用できなくなるのだ、それほど恐ろしいものはなかっただろう。

 今までがどうであれ、これからはわからない。そんな考えが人間の恐怖心を更に煽った。

 それでもまだ、ぎこちなくだが共存は成り立っていた。

 けれどそれすらも意味を無くすのにはそう時間がかからなかった。

 妖が猟銃で撃ち殺されたのだ。

 それをきっかけに人間と妖の溝はより大きく、修復の利かないところまで広がってしまった。


 人間と妖が互いを信じられなくなってしまえば、もう共存なんてできやしない。

 妖たちが何を望んでいようと、人間は妖が悪いわけでないとわかっていたけれど、

 それでも人間の危険に為り得る存在であるときっぱり否定することができなかった。


「当時の主は人間との共存を無理だと言って、その村を出ることを決めた。一切その村に干渉するなと俺たちに言い聞かせた。それは人間が俺たちの存在を忘れ、平穏に暮らしてくれる事を願っての決断だ。」


 それから長い年月が経過して、人は妖を空想のおとぎ話に出てくる存在とした。

 幽霊や化け物と同様に、現実に存在するかもわからない、

 そんなあやふやな存在とだけしか思われなくなった。


「今の世界の現状は、あの時主様が願ったことではあるが、それでも俺たちにとっては忘れられることがとても怖かったんだよ。」


 中には人間に忘れられるのを恐れた妖が、

 主様の言葉を無視して人間に小さな悪戯を仕掛けたりもしたが、徐々に妖の影は消えていった。

 人間が生きている世界は、所詮人間が作り上げた世界だ。

 人間が作った家に、人間が作った食べ物、人間が作った集落に、人間が作った規律。

 人間が作り上げた国で、人の定めた規則に従い、人間だけで生きている。


「しょせん俺達は妖で人とは違う、相容れない存在なんだ。」


 人間が作り上げた世界で、月琶達が生きて行く事が出来ない。

 彼らが人間でないという理由で、それだけで共存はより難しくなる。

 それが彼らにとっての人間の世界だった。

 人間は自分たちと違うというだけで恐れ、害が及んではたまらんと迫害を繰り返してきたのだ。


「諫垣も昔は人間が大好きだったんだが、豹変する人間たちが信じられなかったんだろう。自分たちが恐怖の対象にされるなんて、誰もそんなことを考えたことがなかったんだ。」


 その中でも諫垣の反動はどの妖より強かった。

 だからあそこまで人を嫌っているのだと、月琶は悲しそうに笑ってみせた。


 その日の夜、瑠璃は布団の中で月琶に聞いた話を思い出していた。

 月琶も孰季も、瑠璃に優しく接してくれる。それは彼らが人を今でも好きだからだろう。

 人が妖にしたことは、客観的に見て人に非があると思う。

 自分勝手で身勝手な人を、月琶と孰季は許しているのだ。

 本当であれば、諫垣のように嫌悪や憎悪を抱いたっていいのに。


 もし瑠璃が人間の立場でその場にいて、妖を信じられるだろうか。

 不意にそんなことを考えて、布団を頭までかぶる。

 やはりここは、瑠璃(ひと)が居てはいけない世界なのかもしれない。

 そんな事を考えながら、静かに目を閉じた。


**

「なぁ孰季、瑠璃見なかったか?」

 

 次の日の昼時、なかなか起きて来ない瑠璃を心配した月琶が部屋を除くと、

 その部屋は静寂で包まれていた。

 

 瑠璃の姿がどこにも見えないことに疑問を抱いた月琶は、

 縁側でお茶を飲みながらのんびりと昼寝をしている猫又に声を掛けたのだ。


「さぁ、朝から見てないわよ。どこにも居ないの?」

「部屋にも居なかったんだ。まさか山に…」


 月琶の言葉に、孰季は庭の奥に広がる深い緑に目を向けた。


「良い機会なのかもしれないよ。」

「孰季?」


 珍しく低く響いた孰季の声に、月琶は驚いて彼の姿を凝視した。


「山を降りたんだったら帰るべき家に帰ったんだからそれでいい。散策に行ったんなら考える時間を与えるべきだ。この山に居る妖は見境なく人間を襲う奴はいないんだから心配することはない。」

 

 どこか虚空を見つめながら呟く孰季の言葉を、月琶にまるで自分に言い聞かせているように感じた。

 日の光に反射して金色に光る瞳が、少し揺らいでいるには、気のせいだろうか。


「孰季は優しいな。」


 そう言って笑う月琶を、孰季は悲しそうに見上げた。

 それに気づく様子もない月琶を思い、彼の腕に刻まれた二本の赤い模様に視線を移した。


「アタシはあんたが消えちゃわないか、一番そこが心配だよ。」


 ぼそっと呟いた言葉は、月琶に届くことなく空気に溶けて消えた。


**

 月琶と孰季が縁側でそんな会話をしている頃、瑠璃は一人で足場の悪い山道を懸命に歩いていた。

 どうしてそんなことをしているかというと、話は瑠璃が起きだした明け方に遡る。

 昨夜の事があり、あまり寝付けずまだ暗い時間に瑠璃は部屋を抜け出した。

 早い時間に起きてしまったので、まだ月琶も孰季も寝ているようで、社は静寂に包まれている。


「ん?」


 縁側に差し掛かった時だ、庭の方からガサガサと木々が不自然に揺れる音がして、

 瑠璃はそちらへ視線を向けた。

 だが、そこには何も変わったことはなく、首を傾げながら庭へと足を踏み入れた。


「小動物でも居たのかな?」


 それならそれで見たかったと心残りに誘われて、

 もしかしたらまだ居るかもという淡い期待を胸に不自然に揺れていた木々を覗き込む。


「これって・・・」


 不意に視界に入ってきた黒い物に視線を向けると、黒い羽根が木の枝に引っかかっているのを見つけた。

 まるで鴉の羽根のような黒い羽根だが、瑠璃の脳裏に浮かんだのは天狗のそれだった。

 

「・・・・・・。」


 もしかしたら諫垣がさっきまでここに居たのかもしれない、そんなことを考えているうちに、

 瑠璃の足は山の中へと走り出していた。

 そうして諫垣を探して山の中に入ってから早数時間、瑠璃は諫垣を見つける事も出来ず、

 見事に迷子になっていた。不慣れな山にどこを見ても木々ばかりの風景が、瑠璃を悩ませる。


「帰らないと月琶と孰季が心配するだろうな。」


 雲行きの怪しくなってき空を見上げながら、歩き疲れた瑠璃は途方に迷って木の根に腰を下ろす。

 小さなため息をついて、何をやっているんだろう、そんなことを思っていると、

 不意に左の方から声をかけられた。


「こんな処で何してんの?」


 見るとそこには、変なモノでも見た様な顔をした諫垣の姿があった。


「あ、あなたを探してて。」

「俺を?」


 瑠璃の言葉を聞いて、諫垣は目を丸くして驚いていた。

 その様子があまりにも普通で、少し拍子抜けしたのは瑠璃の方だ。

 昨日はあんなに殺意ばかりを感じていたから、用心深くなりすぎていたのかもしれない。


「俺に何の用かは知らないけど、月琶に言って来てんの?」

「あ、えっと・・・」

「言ってないのか。」


 口ごもる瑠璃の様子から察した諫垣は、”めんどくせ”と呟いた。


「着いて来な、送ってやるよ。」


 そう言って手を差し伸べられ、本当に悪い妖ではないのだと再確認した。

 そして躊躇なくその手を取ると、諫垣は小さく微笑んだ。


「行くぞ。」


 足元を気にしながら、諫垣は歩幅の違う瑠璃のためにゆっくり歩いてくれた。

 人間じゃないと思っているから、こういう態度なのだろうと思うと、少し寂しく思う。


「そういえば、月琶の腕にある模様みたことある?」

「え、模様?」


 突然諫垣に声を掛けられて、動揺した。

 変な事を考えていたから尚更だ。瑠璃は考えていたことを誤魔化すように質問されたことに応えた。


「月琶の右腕にある二本の赤い線みたいな模様のこと?」

「あぁ、そうそうそれ。ありがとな。」


 どうやら瑠璃の返答に満足したようで、諫垣は背中を向けたままお礼を言った。

 何に対しての礼なのかわからず、瑠璃は小首を傾げた。けれどこれはいいチャンスかもしれない。

 会話をしたことによって瑠璃は聞きたいと思っていたことを聞こうと口を開いた。


「あのさ、諫垣。どうして諫垣は人間が嫌いなの?」


 瞬間、諫垣は足を止めて振り返った。

 その表情はとても冷たくて、瑠璃は少し脅えている自分に気付く。


「どうして気になるの?」

 

 感情の全く籠っていない様な冷たい瞳を向けられて、瑠璃は怖気づきそうになる。

 だが今聞かなければ、そう自分を奮い立たせて、意を決して真っ直ぐ諫垣を見つめた。


「諫垣の事が知りたいから。」


 繋いでいる手が小刻みに震え、だんだん冷たくなっていることすら瑠璃は気付いていないようだった。

 そんな小動物が肉食獣を目の前にしている時の状況に、

 それでも立ち向かってくるバカな人間を諫垣はじっと見つめた。

 こういう人間は面白いと思うし興味深いから嫌いじゃない。

 けれど、こいつはこいつもしょせん人間で、諫垣とは違う生き物だ。


「人間に話す義理はない。」


 雨の匂いを漂わせながら、肌寒い風が二人の間をすり抜ける。

 諫垣はきっぱりと言い放ち、繋いでいた手を離した。


「諫垣私が人間だって知ってるの?」

「え?」


 瑠璃の言葉に、諫垣は気まずそうに顔を逸らした。

 瑠璃はてっきり自分を妖だと思っているから優しいと思っていたが、彼は知っていたのだ。


「話を聞くまで帰りません。」


 もしかしたら人間がそこまで嫌いではないのかもしれないと調子に乗った瑠璃は、

 笑顔で諫垣の前に立ちはだかった。

 その様子を見て困ったように溜息をついた諫垣は、何かを言うために口を開いた。


「あのな、」


 だが途中で諫垣の言葉は途切れ、代わりにザァァーとものすごい量の雨が諫垣と瑠璃の上に降り注いだ。


「あぁっくそ、降ってきやがった。そこの樹で雨宿りして待ってて。」


 動くなと釘を刺して、諫垣はどこかへ行った。

 瑠璃は素直に諫垣に言われた通り指定された大きな樹の下で少しばかりの雨を凌ぐ事にする。

 諫垣を待っている間、瑠璃は先ほど繋いでいた諫垣の手を思い出していた。

 少し大きくてごつごつした男性の手を思い出させるほど、人間とどこも変わらない暖かな手。

 昔の人間は、何を恐れたのだろう。

 彼らが人を傷つける存在ではないと、瑠璃がそう思いたいだけだ。


「―――… タイ …… イ … タイ 」


 ボーっと物思いに(ふけ)っていると、雨音と一緒に小さな声が耳に届いた。

 瑠璃はハッと顔を上げ、耳を澄ませる。痛い痛いと聞こえたような気がしたのだ。



「まったく、なんで俺が。」

 

 人間の面倒を見てやる義理はない。

 そんな事を考えながら、ザァーっと降り続く雨の中、

 瑠璃が必要であろう傘の代わりになるものを探して、近辺を捜索していた。


「俺は人間が嫌いなんだ。」


 姿を見るだけでも吐き気がこみ上げる。

 失うのならば近づかなければいい、人間に関わるとろくな事にならない。

 あいつらは気付いた時にはそこにいて、諫垣の想いの大半を占めていた。


「くそっ!」


 気を緩ませたらすぐに思い出される、人間の事。

 簡単に自分たちを切り捨ててしまえるほどに残酷で、醜くて、そんなことはわかっているのに、

 憎み切れない自分が居た。

 だから嫌なのだ、人間に関わるのは。

 あいつらはすぐに心に潜り込んでくるから、淡い期待を抱いてしまうから。

 もしかしたら、まだ人間に未練があるのかもしれない。


「これでいいか。」


 丁度良い大きさの葉を見つけ、諫垣は瑠璃を待たせている樹へ戻った。


「・・・。」


 だが、そこに瑠璃の姿はなく、諫垣は頭に血が上りそうになった。


「あのくそ女どこ行きやがった。」


 これでもまだ我慢している方だ、

 これ以上何かしでかしたら月琶が世話している人間だとしても誤って殺してしまう恐れがある。


「諫垣!」


 不意に名前を呼ばれ、諫垣は苛立ちながら視線を動かした。

 そこには雨に濡れて、髪から雫を垂らしながら何かを抱きかかえている瑠璃の姿があった。


「おいお前、動くなって」

「そんなことより、どこか雨風の当たらない所に連れて行って!」


 必死なその剣幕にただ事ではないと察した諫垣は、

 瑠璃が抱きかかえているのが傷を負った狸だということに気付いた。


「・・・・・・、着いて来い。」


 状況を把握した諫垣は、手に持っていた大きな葉を瑠璃に手渡した。


 諫垣に案内されて辿り着いたのは、一軒の山小屋だった。

 この山にはわりと人間の手が入っているのだろうか、社といい山小屋といい、

 人が住める建物が多いような気がする。


「そこに寝かせて。」


 諫垣に支持されるまま、抱きかかえていた狸を寝台のような場所へ寝かせる。

 瑠璃はその手で隅々まで狸の体を調べ、

 足に怪我をしていること以外は雨で体温を奪われたくらいで、他に外傷はないことを確認した。


「お前、手慣れてるな。」


 その様子を少し離れた処で、腕を組みながら見守っていた諫垣がぽろっと言葉を漏らした。


「怪我した動物の手当てはよくしてたから。」


 その声はぎりぎり諫垣に届くくらいの大きさで、諫垣は反応に困った。


「この子、どうしてこんな怪我したんだろう・・・。」

「猟銃に撃たれたんだろうな、人間は生き物を殺す趣味があるらしい。」


 嫌悪の念が丸見えになるほど、諫垣の表情は歪んでいた。

 確かに今は生きるために猟をする人なんていないというのを、瑠璃も知っていた。

 動物たちからしてみれば、意味もわからず命を狙われるなんて、なんと理不尽だと思うのも頷ける。


「私の家にある薬持ってくる。」

「山を下りるってこと?」


 立ち上がった瑠璃の腕を、諫垣が掴んだ。

 どうして止めるのだろうかと彼の顔を見ると、何故か怖い顔をして言う。


「今出歩くのは避けた方がいい、薬はここにもあるから。」

「でも、信用できる薬の方がいいし。雨だったら大丈夫だよ。」


 そう言って、瑠璃は諫垣の手を優しく解いて山小屋を出た。

 傷を負った狸がいるため、諫垣は狸を残していく事も出来ずに、それ以上瑠璃を追う事はできなかった。


「危険なのは、雨だからって理由じゃないんだよ。」


 諫垣は瑠璃が飛び出して行った扉を見つめ、小さな声で呟いた。

 この山はそんなに大きくないから、

 噂好きな奴らのおかげで狸が人間に襲われたという事実はきっともう広がっているに違いない。


「戻ってこれたら・・・」


 不意に言葉から漏れ出てしまいそうになったその言葉を、喉の奥に引込める。

 もう一度だけ信じてやってもいいかもしれない。その言葉を口にしたら、もう戻れないだろうから。


**

 太陽が頂点を通って数時間後、その日の山は妙に騒がしかった。

 それに気づいた月琶は、孰季と共に参集を歩き回っていた。


「なんか殺気立ってないか?」


 月琶の言葉に、孰季も頷きを返す。


「どこ見ても子狸一匹見当たらないってのにこの空気、おかしいわ。」

 

 同じように山の異変に気付いた孰季はさすがに瑠璃が心配みたいで、

 そこらをきょろきょろと見渡していた。


「主様。」


 不意に声を掛けられ、月琶は足を止めて声がした方を見た。

 そこには老いた古狸と子狸二匹が座っており、こちらをじっと見つめている。


露卉(つゆくさ)様? 珍しい、狸の長であるあなたがこんな処に?」


 月琶は古狸を見て近づいて行った。

 露卉は長年狸をまとめ来た古狸で、目があまり見えないためにあまり外出しないのだ。


「お助けください、私の声はもう皆の耳には届かない。」


 露卉の言葉に、孰季と月琶の表情が一変して真剣なものになった。


「何があったんですか。」


 話を聞くと、露卉の同胞の狸が数時間前に人間の猟銃により負傷したらしい。

 それを聞きつけた他の妖が話を広め、

 山のモノたちはもう我慢ならないと人里への襲撃を算段しているらしいのだ。


「それは、山全体でということか?」

「狸は私のこの二匹以外皆どこかへ行ってしまった。」


 悲しそうに俯いた露卉を見て、月琶は彼の目の前にしゃがみ込むと、大きな手で露卉の頭を撫でた。


「大丈夫だ、俺が何とかしよう。いつもお前には苦労を掛けてすまない。」

「いいえ、私は石や鉛玉で体を傷つけられようと、人と過ごした時間が忘れられないだけ。糸に未練を残した古狸です。けれどね、私はあなたも好きなのです。無理はなさらずに、お願いしますよ。」

「あぁ、わかっているよ。」


 また露卉の頭をなでると、月琶は黒い羽根を広げた。


「孰季、露卉様を頼んだぞ。」

「わかってるよ。」


 孰季の迷いのない言葉を聞いて、月琶は小さく頷くと木々を掻い潜って空へと羽ばたいて行った。

 それを見届ける孰季だったが、隣に座る古狸がこちらをじっと見つめていることに気付いた。


「なんだい。」

「最近の月琶の様子はどうかと思ってのう。」


 本当にこの狸は何を考えているのかわからない。

 孰季は気を許せない相手をキッと睨み付けたあと、月琶が飛んで行った空を仰いだ。


「腕の紋様だったら三本消えてたよ。」

「そうか、残り二本か。そろそろ刻みなおさなければのう。」

「よそ者のアタシを監視に据えるなんて、ホント何考えてるのかわからないね、この狸爺は。」


 どんな悪口を言っても、喧嘩を吹っかけても、露卉は表情を変えない。

 それが勝ち誇っているように見えて、自分が負けているように見えて、

 これが狸の長だということを思い知らされる。


「そういえばお前さんたちと一緒に暮らしていた娘、先ほど諫垣と共にいたが、血相変えて山を下りたようだな。戻ってくることがあればちと危険かもしれぬ、今この山は人間には都合が悪かろうて。」

「それって瑠璃の事言ってるのかい?」


 孰季の顔が見る見るうちに青くなっていく。露卉は続けた。


「瑠璃というのか? 諫垣と月琶の育ての親に面影が似ていると思っていたが。そういえば三年前のお前さんと持っていた髪飾りは娘と同じ匂いがしたのう。あれはお前の・・・」

「その口閉じないと喉食いちぎるぞ老いぼれ狸。」


 牙をむき出す孰季はそれ以上何も言わせなかった。

 露卉も孰季と争うのは避けたかったし、その老いた体で傷を負うのは少し辛いものがある。


「お前さんと争うのはこの老いた体ではちと辛い、やめておくよ。私はこれから行く処があるが、お前も来るか?」 

 言いながら、露卉は不敵な笑みを浮かべていた。

 余所者である孰季にはわからないことがたくさんあるが、ただ一つ確かなのは、

 この古狸が食っても食えない毛玉だという事だ。


**

 雨も上がり、自分の家へと帰った瑠璃は誰も居ない事を確認すると自室の薬入れに手を伸ばした。

 家を出てから数週間、この家は何も変わらない。

 誰かが返ってくる前に山へ帰ろうと家を出た瞬間、視界の端に一枚のポスターが目に入った。


「う、そ・・・。」


 家出人探していますというそのポスターに写っていたのは、自分の姿だった。

 その事実が信じられなくて、瑠璃は逃げるように山へ走った。


「美穂!」


 最後で自分の名を呼ぶ声がして、その聞き覚えのある低い声に振り替える。

 そこに立っていたスーツ姿の男性の目が驚いたように見開かれて、すぐに安堵したように緩んだ。


「どこ行ってたんだ、母さんと心配してたんだぞ。」


 父は、一歩前へと歩み寄った。けれどそれ以上は進んでこない。


「ご、ごめんなさい。しばらく帰れないの。捜索願とか出さなくていいから。」

「帰って、来るんだよな?」


 その問いに答えられず、その場に居ることすらできなくて瑠璃は筒井屋へ背を向けて走り出した。

 逃げるように、一刻も早くその場から離れたくて、無我夢中で薬を抱えながら走った。

 荒い息を繰り返し、渇いた喉が痛んだ。どうにか唾を飲み込んで喉を潤し、息を整える。

 何も考えずに山へ駈け込んでしばらく走っていたので、瑠璃は現在地がわからなくなっていた。


「早くあの子の処に行かないと・・・」


 自分に言い聞かせるように呟くと、ふらつく足で山道を歩き始めようとした。

 その時、 不意に耳にこそこそと話す声が聞こえてきた。


『人間ダ、懲リズニマタ人間ガ山ヘ』

『マタ同胞ヲ狙ッテルノカモシレナイ、危険ダ』

『人間ハ危険ダ、殺シテシマオウ』


 そんな縁起の悪い言葉の会話が耳に入り、瑠璃の足が止まった。

 背筋が凍り付くような寒気を感じ、顔を上げることができない。

 頭の中では一刻も早くこの場を離れるべきだとわかっているのに、

 恐怖で足が震え動かすことができなくなっていた。


 ガサガサと木々が揺れ、直感で何かが自分に迫っていることがわかる。

 その音がすぐ背後まで迫った瞬間、瑠璃はもうダメだと思ってしゃがみこみ、強く目を瞑った。


「危ない!」


 切羽詰まったような声と同時に、何か暖かな存在が自分の体を包み込むのが分かった。


「・・・?」


 静まり返った山の中、自分を包む温もりにゆっくりと目を開けた瑠璃は顔を上げる。

 そこに居たのは、優しく微笑む月琶の姿だった。


「月琶・・・?」


 一瞬の安堵は消え、彼の口から垂れる赤いモノに瑠璃は、状況が飲み込むことができなかった。

 どうして月琶に抱きしめられているのか、どうして月琶の顔が見る見るうちに青白くなっているのか。


「どうし・・・」


 どうしたの?そう聞くつもりで、青白くなっていく月琶の頬に手を伸ばした時、

 糸が切れたように月琶の体が地面の上に崩れ落ちた。


 動かなくなった月琶の腹部から赤いモノが流れ出て、地面の枯葉を染めていく。


『主様が人間を庇われた』

『あぁ、なんということを』

『主様・・・』


 悲しそうな声が辺りから聞こえる、その声が、月琶に何が起こったか物語っていた。

 きっとこの声は妖のもので、瑠璃を狙っていたのだろう。

 あと一歩の処で月琶が瑠璃を庇って代わりに負傷した。

 けれど今、そんなことはどうでもいい。

 瑠璃は顔を上げると月琶の大きな体を持ち上げて、ずるずると引きずった。

 とにかくここでは何もできない、せめて諫垣の処へ連れて行こうと思ったのだ。

 目からはたくさんの涙がこぼれた。恐怖で足が震え、歩き難い。意識のない月琶はとても重かった。

 それでも歩かなければ、手遅れになる前に、まだ背中に伝わる鼓動が、瑠璃の心を支えていた。


**

「狸の爺さんが何の用?」

 

 突然訪れた珍しい来客に、諫垣は眉根を寄せた。

 露卉の背後に、月琶の処で一緒に住んでいる孰季も一緒だというのがまた奇妙だ。

「同胞を見舞ってはダメなのか?」


 その嘘くさい口調に、諫垣はより警戒を強めた。

 だが露卉は訝しむ諫垣の横をすり抜けて、家の中へ無断で上がり込んだ。

 それに続いて孰季も諫垣の横を通り過ぎてゆく。

 不愛想な猫の態度に苛立ちを感じ、けれど何も言わずに扉を閉めた。


「で、何しに来たのさ。」

「怪我人に薬を持ってきてやったのじゃよ。」

「そんないっぱい薬いらないよ、中傷くらいだから。」

「そう言うな、時期にわかる。」


 またこの狸は訳の分からない事を言うと眉を寄せた瞬間、バンっと大きな音を立てて扉が開かれた。

 驚いた諫垣はそちらを振り向き、そこに立っていたモノに目を丸くした。


「おい瑠璃、何があった・・・」


 ぐったりとした月琶を背中に負ぶった瑠璃が、ふらつく足取りで中へ入ってくる。

 驚いたのは孰季と諫垣で、露卉顔色一つ変えない。

 その様子を見た諫垣は何かを悟ったように舌打ちをすると、瑠璃に駆け寄った。


「月琶を奥に運ぶから、お前は休んでろ。」


 優しく声を掛けながら、諫垣は瑠璃から月琶を引きはがす。

 瑠璃は少しだけ諫垣の顔を見ると、安堵したように表情を緩め、意識を手放した。


「おい!」


 月琶と瑠璃の体を何とか受け止め、諫垣は一瞬困った。だが月琶の状況は一刻も争う。

 瑠璃に気を取られている暇はなく、

 諫垣は後ろを少し振り返って動揺のあまり動けなくなっている孰季に声を掛けた。


「孰季、瑠璃を頼む。」


 諫垣に真剣な目で見つめられて、孰季は我に返って頷いた。

 それを見届けた諫垣も小さく頷くと瑠璃の体をその場にゆっくり寝かせる。

 そして次に露卉に視線を向けた。


「おい狸爺、責任持ってあんたが治療しろ。できるから来たんだろ。」


 怒りに染まった諫垣の瞳に、露卉は頷いて見せた。

 それをどう受け取ったのか、諫垣は何も言わずに月琶を奥へと連れて行く。

 それを何も言わずに露卉が追いかけて、扉は閉められた。


 残された孰季は、気を失っている瑠璃に視線を向け、その手に持っている袋に気付く。

 それはよく怪我をした動物に彼女がつけてやっていた薬で、

 ケガをした狸もここに居るという情報から、その薬をその狸に使うために家に帰ったのだと悟った。


「あんたは、三年前から変わってないんだね。」


 まだ孰季が人里で猫だった頃、幼い少女に拾われて、猫又という妖怪になるまでの間、

 孰季はその子の家に居た。

 人間の世界で異質となり、自分の居場所はないと、大好きな子から離れたというのに、

 その子が今目の前にいるのは、なんとも複雑で、けれどやはり幸福感で満たされた。


**

 暖かい温もり、陽だまりの匂いが鼻をくすぐって、瑠璃はゆっくりと瞼を上げた。


「ここは・・・」


 見知らぬ天井を見上げて、月琶の社でも自分の家でもないことに首を傾げた。

 知らない天井から視線を逸らすと、傍らで二本の尻尾が揺れるのが見える。


「いっくん?」

「美穂は相変わらず寝起きが悪いんだね。」


 目を覚ました瑠璃に気付いた孰季は、まだ寝ぼけている瑠璃に昔のようにすり寄った。

 懐かしい陽の匂いに包まれて、瑠璃の脳裏に三年前に姿を消した猫の姿が蘇る。

 あれだけ探したのに、こんな処に居たなんて。


「よかった。」


 そう言って、瑠璃はふわりと微笑んだ。

 寝起きのせいか幼さが垣間見えて、孰季の中に昔の気持ちが蘇る。

 暖かくて嬉しくて、ひたすら愛おしいと思った。


「アンタが目を覚ましたって知らせてくるわね。」


 孰季はそう言って寝台から飛び降りた。

 名残惜しそうな声が背後から聞こえたが、それに気付かない振りをして、孰季は部屋を出て行った。

 あの場所は願ってはならない場所なのに、昔のように笑いかけられてしまったら、戻りたくなる。

 あの子の傍らに居たいと、願ってしまう。

 それはダメだ、彼女は人間で、孰季はもう普通の猫ではない。


「諫垣、瑠璃が目を覚ましたわよ。」

「あぁ、やっとか。全く外傷もないってのに三日も眠り続けるなんて。」


 なんて奴だと呆れている諫垣に、孰季は少しムッとした。

 けれど、これもこいつが心配していたことを知っていれば、そこまで怒るようなことではない。

 孰季と同様、さっきまで諫垣も彼女の傍にいたのだ。


「じゃぁ、ちょっくら顔出しに行くか。」


 そう言いながら、諫垣は座っていた椅子から立ち上がった。


「僕も行くよ。」


 不意に聞こえてきた声に、孰季と諫垣は振り返る。そこに居た声の主の姿を見て、諫垣は笑った。


「そうだな、お前も挨拶しないと。」

「諫垣も報告することがあるんでしょう。」


 人の事ばっかり言ってんじゃないよと孰季に突っ込まれ、諫垣は頭をかいた。

 どうやら少し困ったようだ。

 そんなメンバーで、瑠璃の居る部屋へと向かう。


「瑠璃、目を覚ましたって?」


 諫垣はドアを開けるとすぐに寝台の中で上体を起こしていた瑠璃に声を掛けた。


「諫垣、月琶はどうなったの!」


 すると、諫垣の姿を見るなりものすごい力で服を掴まれた。

 どうやら目を覚まして少し考える時間ができ、気を失う前後の事を思い出したのだろう。


「大丈夫だから落ち着いて、月琶は生きてるよ。」


 瑠璃を落ち着かせるように手を掴んで、諫垣は優しい声でそう言った。

 その言葉に安心した様子で、瑠璃はホッと息をつく。


「まぁでも、後遺症は残ったけど。」

「え?」


 不意に呟かれた言葉を耳にして、瑠璃は先ほどから視界に入る白い髪をした小さな男の子が気になった。

 どことなく月琶に似たその少年は、足に包帯を巻いた狸を抱えている。


「おはよう瑠璃。」


 その赤い瞳を細めて、その少年は微笑んだ。


「もしかして、この男の子が?」


 疑問を口にした瑠璃の言葉に頷いたのは、いつの間にか傍らに座っていた孰季だった。

 話によると、月琶は呪いの様なモノをその身に宿していたのだが、

 生死の境を彷徨くらい大きな傷を負い、呪いが自分の意思で月琶を生かそうとして、

 命を繋ぎ止める程の力を使ったのだという。

 その反動で月琶の体が小さくなってしまったとか、なんとか。


「えっと、よくわからないけど、その呪いっていうのは、もう月琶に何の影響もないの?」

「月琶を診てた狸の長は、体が元の大きさに戻った頃にその呪いも力を取り戻すって言ってたな。」


 軽い調子でそんな事を言われて、誰も気にしている素振りが見えない。

 そんなに重い話でもないようなのだけれど、呪いという不吉な単語は聞き捨てならん。


「それでさ、月琶こんな姿だし力も一緒に弱くなってて、主の仕事できないんだってさ。だから俺がこの山の主になることになったから。」

「そ、そうなの?」


 主の事とか瑠璃は正直よくわからないので、どう反応したらいいのかわからなくなってしまった。

 思ったよりも瑠璃の反応が小さくて、諫垣は少し拍子抜けしていた。

 その様子をみて孰季が笑いを堪えている。


「諫垣って人間が嫌いとか言ってるけど、実は大好きだよね。」


 ぽつりと呟いた月琶に、諫垣は顔を真っ赤にして月琶を睨み付けた。


「ち、違う!俺はこいつなら面白い奴だし根性あるし人間でも嫌いじゃないかなって思ってるだけで!」

「瑠璃だから好きなの?」

「嫌いじゃないってだけだ!」


 その二人のやり取りを見ていると、兄弟が小さな喧嘩をしているように見えた。

 こっちから見ればサイズが真逆だが、それはとても微笑ましくて、瑠璃の脳裏に父親の姿が浮かんだ。


「どうしたんだい?」


 一瞬悲しそうな顔をしたことに気付いた孰季が、心配そうに顔を覗き込む。

 諫垣と月琶と狸も、つられて瑠璃を見た。


「なんというか、月琶と諫垣が兄弟喧嘩してるみたいで微笑ましくて。」


 嘘をついた訳ではない、これは本当の事だから。

 けれど、孰季がした質問の答えではないというのは誰の目から見ても明らかだ。


「家に帰りたくなった?」


 孰季の優しい声に囁かれて、瑠璃は小さく頷いた。


「薬を取りに家に戻った時、お父さんに会って。逃げて来ちゃったんだけど、ずっと私を探してたの。だから、ちゃんと話をしようと思って。」


 まさか自分を心配して探しているなんて、そんなこと思っても見なかった。

 無関心な家だと思って、家族の交流なんて全くなくて、何をしても何も言われなかった。


「じゃぁ、あんたは家に帰るといい。待ってる人がいるんだろう?」


 きっと、こうなる事は何処かで分かっていた。

 彼女が人里へ帰ってしまえば、きっと彼女は戻って来ることはない。

 しょせん彼女は人間で、こっちの世界とは無縁のはずだったのだ。


 妖と人間の共存はできない。

 ちょっとした偶然と気まぐれで、一ヵ月くらい関わりを持った。

 小さく記憶の片隅にでも残して置いてくれればそれでいい。その程度の思い出だと思えばいい。


「ありがとう。」


 瑠璃は少し寂しそうに、小さく笑った。

 その様子を傍から見ていた諫垣は、少し考えてから首を傾げた。


「そんなしんみりしなくても、いつでも来ればいいじゃないの?」


 ぽつりと呟かれた言葉に、全員が一斉に諫垣を見上げた。

 突然多数の視線を投げかけられ、諫垣は動揺したようで、たじろいでいる。


「来ていいの?」

「なんでダメなの?」


 瑠璃の質問に逆に質問で返す諫垣だった。

 人間と妖は共存できない、それが妖達の脳裏に染みついていた現実であり、

 勿論今回も瑠璃が帰ってこないものとばかり思っていた。


 瑠璃自身も来てはいけないのだろうと思っていて、寂しい思いをしたというのに、

 諫垣は逆にわからないとでも言いたそうに首を傾げていた。


「妖だって人里に降りるんだぞ、人間が山に来ちゃいけないってのは不公平だろう。」

「それもそうね。」


 納得したように頷く孰季を見て、瑠璃は硬直した。

 妖が人里に降りてきているなんて初耳だったし、気持ちの入れ替えが早すぎると思う。

 さっきまでのしんみりした空気は何処かへ消えていた。


 数時間後、瑠璃は少ない荷物を持って山を降りる準備を整えた。

 見送ると言って出てきた孰季と月琶と諫垣と狸がそこに居て、なんだかくすぐったい気持ちになる。


「じゃぁ、またね。」


 再び会うことを約束するように、瑠璃は微笑んで手を振った。

 山を降りながら、瑠璃は月琶に聞いた昔の話を思い出していた。

 人と妖の共存はできないと悟った昔の主様だけど、瑠璃は本当にできないのか、ずっと考えていた。

 できるかどうか、それはこれから試してみればいい。

 時間は沢山あるのだから、そういうことだと、瑠璃は小さく笑った。


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