檸檬
私は常名高校の別館にいた。その別館は常名高校の中でも、酷く孤立した作りになっている。 常名高校通称トコ高には芸能学部と芸術学部が存在する。
当初のトコ高には、普通学部と芸術学部があった。しかし三代目の校長はトコ高に特色を持たせたかったらしい。三代目校長は普通学部を廃止し、芸能学部を新たに加えた。芸能学部には歌手科に作曲科、更にデザイン科があり、芸能界に憧れる少年少女をターゲットにしたその戦法は見事に成功。技術を磨くのには十分な設備と前衛的な授業が反響を呼び、入学希望者は桁違いに増えたと聞く。そして芸能学部からは多くの芸能人や著名なデザイナーが巣立ち、トコ高の名を世間に知らしめた。今や歌手やデザイナーを目指す少年少女のほとんどは、トコ高の芸能学部を考えると言う。
そうして芸能学部が実績を積み上げていく中のんびりと存続してきたのが芸術学部だ。トコ高芸術学部の設備は質が良い、と受験生に一定の人気がある。
前衛的で進化し続ける芸能学部に、ゆっくりとしたときを刻み続ける芸術学部。トコ高生の間では前者がノウ学、後者はジュツ学と呼ばれている。
そして私は芸術学部に所属していて、今年から三年生になる。
*
ぺたりぺたりと音の鳴る絵の具をカンバスに乗せる。私が描こうとしているのは幻想的な森の景色だ。
不自然に空いた、短い草の生え揃う広場の様な空間を中心に、大樹や若木が燦々とした光を浴びている。広場には、柔らかな黄に染まった木洩れ日が落ちている。周りの木々の陰に、人知れず佇むりすや野鹿に兎、ときには狼。
そんな絵を描こうと、私はカンバスに黙々と色を乗せていた。
今は春休みだが、生徒が学校に立ち入ることは可能だ。描きたいものが洪水の様に溢れる性分の私が、休日に学校に来ることはそう珍しくなかった。
二年生のとき自分のクラスで、机やら床やらにブルーシートを敷き、私は筆を動かし続けた。
そうして絵を描き始めて三時間は経った頃。空腹感から私は、時計の針がとっくのとうに真上を過ぎていたことを知った。教室に設けられている時計を見れば、時刻は二時に近い。丁度切りも良かったから昼食を摂ろう、と筆を置いた。髪の毛を掻き上げていたヘアバンドを、首に下ろす。そうすると私の長い前髪が死んだ様に力無く、ばらばらと視界へ落ちてきた。
と同時に、からりと教室の引き戸を開ける音が響いた。
「やった、今日は来てた」
首を右に向けると、引き戸の前には一人の男子生徒がいた。うっすらと茶色がかった黒髪の彼は、いかにも優しげな雰囲気を纏っている。
ほら、おれらって休日登校常習犯じゃん? おれとしては、野々村さんっていう休日登校仲間がいると、ちょっと嬉しいんだよねぇ。
とろりとした声色でそう言った彼は、私から一メートル程離れた場所へと歩いた。そうして私の絵を見ると声を洩らす。
「やっぱり、野々村さんの描く油絵は良いね。おれは水彩画の方が好きだけど、野々村さんの油絵は好き」
何でも無いように、これ以上無い位の賛辞の言葉が並べられる。私は柄にも無く羞恥心が湧き、誤魔化すように前髪を耳に掛けた。つい小さくなった声でお礼を言えば、いえいえ、と緩い声が答えた。その後、彼の気配が少し遠ざかる。
私はあらかじめ机の上に置いておいたウェットティッシュを手に取った。作業で手に付いた絵の具を大まかに拭う。
それを済ませてから、私は一度絵を放置して昼食を摂ることにした。手近にある椅子に腰掛け、鞄からおにぎりを取り出す。ちなみに中身は鮭フレークと梅紫蘇だ。すると、斜め前の席に彼が座った。彼はいつも私の絵か、私が絵を描くところだけを見てどこかへ行く。こんなことは初めてだった。
「一宮君、何かご用?」
一口含んだ鮭のおにぎりを飲み込んだ後で、そう尋ねる。私の問い掛けに彼は優しい瞳のまま答えた。
「野々村さんって、つれないよねぇ」
「素っ気ないのは、悪いけど生まれ付きなの」
「んー、まぁ……。おれの好きな絵を描く人に、ちょっぴり興味が湧いたんだよ。だから仲良くなろうかなって」
「あらそう」
ぴしゃりと言い放てば、椅子に体をもたれた彼はふふ、と鼻から空気を洩らして笑った。そうだね、なんて言いながら何かを思案した様子を見せると、彼は唇を動かした。
「まずは自己紹介でもしておく?」
「名前は知ってるじゃない」
「お互いに苗字しか知らないでしょー」
うん、やっぱり自己紹介をしよう。それが良いよ。
そう言った彼は椅子から無造作に立ち上がると、ひらりひらりと歩き、教壇に立った。私はわざとおにぎりを頬張って、それを知らない振りをする。教室には、チョークのタップダンスの音が響き渡った。はーい、注目! と珍しく張り上げられた彼の声に私は顔を上げる。黒板には蛍光色の檸檬が踊っていた。丸みがあってかわいらしい文字が私の目に写る。
「おれの名前は一宮永人。ノウ学歌手科。今年から三年生。兄弟は兄ちゃんが一人。好きな飲み物はコーヒーで、嫌いな飲み物はコーヒー牛乳とかカフェオレ。あれの存在はコーヒーに対する侮辱だね!」
苦くないコーヒーだなんて、それはコーヒーとは呼べないよ。
明るくよく通る声で、彼は自己紹介を終えた。そして、私を見る。最初は無視していたが、教卓に肘をつきながらこちらを凝視されるのは予想以上に気まずい。鮭のおにぎりを食べ終えたときに、私は音を上げて彼に問うた。
「……何よ」
「やっと返事してくれた!」
「だって視線が鬱陶しいんだもの」
「ほらほら、野々村さんも自己紹介」
「何で」
「おれが聞きたいから」
そう断言して彼は、無邪気に教壇へおいでと私を呼ぶ。私はチョークを使うと手が汚れるから、おにぎりを食べてしまってからね、と先伸ばしにする。そんな私を一瞥すると、彼は窓の外を見遣って教壇に突っ伏した。しばしの合間、私がおにぎりを咀嚼するだけの時間が過ぎた。梅紫蘇のおにぎりを食べ終わると、その音を聞き付けてか彼が顔を上げる。
「野々村さん」
「何かしら」
「自己紹介してよ」
手招く彼に、私は渋々そちらへ向かった。笑顔の彼に渡されたのは、檸檬色のチョーク。
「何で黄色なの」
「だっておれら生徒が黄色のチョークを使える機会なんてそんな無いよ。チャンスは逃しちゃ駄目でしょ」
そう楽しげに私を見る彼の視線にちょっとした気まずさを感じつつ、私は檸檬色を黒板の緑に乗せた。
「……野々村宮乃。ジュツ学の1組。好きな画材は油絵の具。好きなモチーフは植物」
へぇ、宮乃って名前だったんだ。
彼がそう言ってから、少し黙り込み、また口を開く。
「じゃあ、もし野々村さんがおれと結婚したら、一宮宮乃になる可能性もあるんだね」
「は?」
何言ってるのこの人、と思わず呆気に取られた私は間抜けな声を出して彼を見る。それにも彼は動じること無く、優しく笑った。
「……自己紹介の続きしようか」
おれの夢は、悲しい人を少しでも癒せる歌を届ける歌手になることです。
教室という日常的な空間に、彼の厳かな声が聞こえた。一宮永人と野々村宮乃と描いた檸檬色の文字はまだ、黒板の上にいた。
一癖も二癖もある男性が好きな作者の趣味がモロバレルですね。