記憶
それにしても、私の妹である優乃と今私の目の前に座っている「優乃」は、両者とも二度と元の世界に帰れないのだろうか。私は顎に手を遣る。アルバムの写真に写る優乃が全て「優乃」に成り変わっていた。優乃の部屋だけが、「優乃」の部屋と入れ替わっていた。この二つの事実を並べると、優乃達が元の世界に帰ることが出来る可能性は限り無く低く思えた。
そこまで辿り着いた私は、目の前の「優乃」に話し掛ける。
「何か他にヒントは無いのかしら。あなたがご友人から借りていたゲームのカードだとか」
「あ、それなら部屋にあるはずです! 今持って来ますね」
私の一言に困った風だった「優乃」は表情を一変させ、椅子から立ち上がった。そして勢い良く走り出そうとし、しばらく戸惑った様に動かない。
「……階段はここから奥に行って右よ」
私がそう言うと、「優乃」は少し謝って自室へと駆け出した。
少しすると、廊下を走る軽い音がする。それは階段を通ると居間に着き、「優乃」が私に笑い掛けた。
「ありましたよ宮乃さんっ、ご明察です!」
彼女が持つのは某ゲーム会社の販売する何の変哲も無い商品。明るい色で描かれた「メロディ・ラバー」という丸い文字を、私は何とも言えない気持ちで眺めた。
「優乃」は椅子に座ると、私の向かいで箱を開け始めた。彼女は正方形の取扱説明書をぱらぱらと捲った。その手があるページで止まる。
「やっぱり、書いてあります。宮乃さん」
どこか凛とした彼女の声音に、目を逸らす。
「私と同じ名前の『野々村優乃』さんもいました。……見ますか?」
気遣う様子を見せる彼女に、私は無言で右手を出した。
――見たい、でも見たくない。
相反する気持ちがせめぎ合うままに、私は説明書を視界に認めた。そこには、主人公と友人、姉の設定。
主人公を見てみれば、強気そうな瞳に切り揃えられた前髪が特徴的な妹がこちらを見ていた。
視線をスライドさせると、そこにあるのは「野々村宮乃」の文字。
「主人公のお姉さん。ちょっと冷たいけれど、主人公を助けてくれる頼もしい存在♪ 芸術学部に通っている」
僅か三行の説明文の隣には、一人の少女のイラストがある。
肩より短い黒い髪に、少し吊り上がった黒い目。主人公と同じブレザーを着て、無表情にこちらを見ている。それは、間違い無く私自身だった。
予想するのと体験するのとでは全く違う。倦怠感が体を這い上がってくる。 そのとき、軽快な電子音が「優乃」の方から聞こえた。私が驚いて彼女を見る。すると彼女自身もその音にびっくりさせられた様で、あわあわと自分の服をまさぐっていた。ぱ、と取り出されたのは携帯電話。白に淡い青色がペイントされたそれのカバーには、目に柔らかい桃色の模様が光っている。
「メールが着てます」
動揺からか、報告する訳でもなくそう呟いた彼女はケータイを開く。そして小慣れた手付きで幾らかの操作をすると、突然悲鳴を上げた。
母音と濁点の混じり合った様な悲痛な声が「優乃」から漏れる。
「ちょっと、な……大丈夫!?」
気が動転してどうすれば良いのかも分からず、私はその場で立ち上がり声を投げ掛けた。「優乃」からの返答はあるはずが無い。ああああ、と途切れ途切れに続く呻き声。テーブルにつっぷした彼女に為す術も無い私の視界に、彼女のケータイの画面が映った。
画面に表示される文字を認識した瞬間、私は現実を忘れた。どうなってるの、と当ても無い言葉が落ちる。
《『メロディ・ラバー』に関するデータをダウンロードしますか?》
《『メロディ・ラバー』に関するデータをダウンロードしています。電源を切ったりしないでください》
《均衡世界Dに存在する野々村優乃を均衡世界Nに送信します》
《送信完了しました》
《均衡世界Nに存在する野々村優乃を均衡世界Dに送信します》
《送信完了しました》
《均衡世界Nから送信された野々村優乃の記憶に不具合が発生しています。強制的にダウンロードしますか?》
《均衡世界Nから送信された野々村優乃の記憶を強制的にダウンロードしています。電源を切ったりしないでください》
《now loading...》
真っ白な画面に淡々と表れる小さな黒い文字。その内の一番下にある「now loading」の言葉だけが、不気味に点滅していた。呆けてしまった私は、何一つ身動きを取れなかった。と、白い画面から文字列が全て消えた。私は息を潜めて「優乃」とケータイを代わる代わる見遣る。時間の経過が酷く遅い様に思われたが、十秒も経っていなかった頃だろう。
《『メロディ・ラバー』のダウンロードを完了しました》
その一文に、私は見入った。そして、一つの結論を見つける。
「優乃」はうっすらと瞳に涙を溜め、顔を上げた。今体調を尋ねるのは違う様な気がして、私は黙り込んだまま、彼女と視線を合わせる。
「――ああ」
泣き声にも似た溜め息を吐いたのは「優乃」だった。彼女は私に、少しだけ、ほんの少しだけ悲しそうな笑みを零す。
「……こちらの世界の優乃さんも、デザイナーになる夢を持っているんですね」
私の想像した結論は当たってしまうのだろうか。
私の妹である優乃の記憶を手に入れた「優乃」は、その優しい声のまま、私に最終宣告を言い渡した。
「もう、帰れないみたいですね。彼女も、私も。……ね、お姉ちゃん」
それは、「優乃」が優乃に成った、その瞬間だった。想像を絶する現実に、言葉が出ない。
優乃と私は、決して姉妹仲が良い訳では無かった。寧ろ、負けず嫌いで自己主張の強い優乃は、勝ち気で譲らない性格の私と相性が悪かった。それでも妹がこの世界から消えてしまったという事実は、十分に私を動揺させた。何故優乃が、妹が入れ替わってしまったのか、何故。
全身から力が抜けて、思考が停止する。しかし眼前にいる優乃を見て、私ははっとした。彼女は自分の生まれた世界からここへ一人でやって来たのだ、と。どちらが可哀想だとか、そういうことではない。
今、優乃が頼れる人間は私しかいないのだ。
その事実による意味も無い責任感が、私を仮に、であれ立ち直らせた。
「優乃」がこの世界の優乃である、と宮乃に認知されました。