代替
優しさの「ゆう」に、すなわちの「の」で優乃、と。少女はそう名乗った。
「優乃」と私との間に、重苦しい沈黙が流れる。どういうことなの、と疑問の言葉を口から零すと、「優乃」は瞬きをした。
「ど、どういうって?」
その姿は、とても妹の名を騙っている様には見えない。
話も進まないから、ひとまず少女の言うことを信じることにしよう。声に出さずそう決意した私は、彼女の目を見て笑みを作った。
「少し、驚いただけだから。気にしなくても大丈夫よ」
私の言葉に、「優乃」はほんの少し緊張を解いて微笑んだ。素直な彼女の様子はかわいらしい。
彼女の言うことの真偽をいちいち問うていては、話が進まない。そう判断した私は少女に告げる。
「ひとまずはあなたの言うことを信じるわ。だから一度、全て話して貰って良いかしら」
「ありがとうございます。聞いて頂けるなら、全部話します。頭がおかしいと思われるかも、知れないですけど……」
「大丈夫よ、話しちゃいましょう」
安心させようと彼女に笑みを見せた私は、自分がまだ名前を教えていないことに気付いた。
「私の名前は宮乃。宜しくね」
そう言うと、「優乃」は嬉しそうに顔を綻ばせる。宜しくお願いしますと深く下げられた頭に、私は少し慌てた。
その後には「優乃」の唇が語るものに驚かされた。
彼女は今年から高校一年生になると言う。そんな彼女は春休みのある日、ベランダで本を読もうと思い立った。両手に数冊の本を抱え階段を上っていた彼女は、うっかり階段から落ちてしまったと言う。
――落ちた!
そう思った彼女は反射的に目をつむり、頭を腕で庇った。そして衝撃が収まると同時に、不思議な浮遊感があったらしい。そっと目を開けるとそこには――。
「何故だか、自分の部屋にいたんです。私は部屋を出て、階段を上っていたはずだったのに」
どこか不審感を抱きながら起き上がった彼女は、いつの間にやらベッドの下に転がっていたらしい。何かがおかしい。そう感じるも、自分の部屋にいつもと変わったところは無い。そこで彼女は、そろりそろりと部屋を出た。すると、自室の前を通る廊下は自分の家のそれではないことに気が付いた。泣きそうになりつつ部屋から外の様子を窺っていたところ、私が現れた。
以上がことの顛末だ。
「……何だか、小説みたいな話ね」
私がそう感想を述べる。「優乃」はくしゃりと顔を歪めた。
「……やっぱりおかしいですよね。私にも、何が何だか全然分からなくて」
「別に信じないとは言ってないじゃないの。『優乃』の部屋を見ればすぐに分かる話だわ」
現実味の無い話に、私は妙に体の力が抜けてしまった。こんなこと、あるのだろうか。
そのとき、「優乃」が声を発した。もう一つ、聞いて貰いたいことがあるんです、と。
「これこそ、本当に頭がおかしいと思われちゃうかも知れません。けど……」
一度言葉を切った彼女は、大きく呼吸をし、私の目を見て凛と言い放った。
「この世界は、私のいた世界では『乙女ゲーム』なんです」
紅茶に伸ばした手が、ぴしりと凍る。
――己の存在する世界が、ゲームの世界である。
にわかには信じられない言葉に、私は数秒間、思考を停止した。
「最近発売されたばかりのゲームで。ゲーマーの友人に面白いから、と渡されていました。宮乃さんは、主人公のお姉さんにそっくりです」
淡々と言葉を紡ぐ少女を前に、私は混乱に陥っていた。この子は何を言っているんだろう。私はゲームのキャラクターでも何でもない、一人の人間なのに。しかし、私の口は一人でにぺらぺらと喋り出した。
「そのゲーム、タイトルは分かる?」
「確か、『メロディ・ラバー』だったと思います。……あの、すみません。気を悪くされましたよね」
「構わないわよ。今の状況ではそんなこと言ってられないでしょ?」
そう言った私は、ケータイを取り出しネットに繋いだ。「メロディ・ラバー」と検索を掛けると、多くのサイトがヒットした。その中から公式ゲームサイトを選択し、開く。
少し重い、一つの画像。それを見た私は、自分の目を疑った。思わず「優乃」に画面を見せる。
「あっ、これです! 主人公もキャラクターも、皆一緒」
その言葉を聞いた私は、益々訳が分からなくなる。
「意味が分からない」
私の声に、「優乃」は首を傾げる。
「あなたの名前は野々村優乃。だけど、私の本当の妹の名前も、野々村優乃なの。そしてこのゲームのヒロインのデフォルト名も……『野々村優乃』」
私はもう一度画面を見詰める。食い入る様に見たそれは変わらず一定の光で、「ヒロインのデフォルト名『野々村優乃』」の表示を続ける。
「……このゲームのヒロイン、私の妹だわ。だけどこの前までは、茶色い髪の『野々村優乃』が主人公だった」
何が起こっているのか、全く理解が追い付かない。画面から目を離し「優乃」に視線を遣る。彼女は心做しか、顔を少しだけ青くして呟いた。
「こちらの世界の『野々村優乃』さんと、私が入れ替わった……?」
二人の間を重い沈黙が支配する。
そんな馬鹿なと今の判断を罵る声と、ならばどう説明する気だと反論する声。その双方が私の頭の中に響き渡る。
がたり。椅子を鳴らしながら私は席を立った。手近にあるアルバムを一冊手に取り、「優乃」の前で広げる。
アルバムの中には、茶髪の「優乃」がいた。私の妹の姿は、どこにも無い。つまり、やはり。
「……入れ替わったんだ」
そう囁いたのは、私達のうちどちらであったか。アルバムを閉じてテーブルの端に押しやった私は、再び腰を下ろす。
この不可解さを誰かにぶつけたくて、私は理不尽にも「優乃」に尋ねる。
「あなたは優乃じゃないってこと?」
「ここの世界の優乃さんではないですから……。そういうこと、になりますね」
少し寂しそうにはにかんだ彼女を見て、私は紅茶を啜った。それに倣うかの様に、彼女も紅茶を口に含む。
いわゆる、トリップと呼ばれる現象か。私はそう一人ごちる。ウェブ小説で読んだことはあったけれど、まさか実際にあるなんて思いもしなかった。
少女を盗み見る。この子は、心細くはないのだろうか。それとも、そこまで考えが及ぶ余裕が無いのだろうか。
黙り込んでしまった私に気まずさを感じたのか、「優乃」が宮乃さん、と私に呼び掛けた。不安に満ちた声に、私はやや投げ遣りな調子で返す。
「安心してよ。別に、追い出したりしないから」
ここで面倒見てあげるから。
そう言うと、少女ははにかんでありがとうございます、と私にお礼の言葉を述べるのであった。