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全年齢版です。
さらさら、さらさら。穏やかで優しく、真っ暗な水のなか。そこにいつから存在したのか知らないが、確かに彼女はそこにいた。自分が何者なのかわからないまま、意識をヒレのように揺らして泳ぐようにそこにいた。ずっと眠っていた気もするし、起きていた気もする。意識がぼんやりと流れていこうとした、そのとき。どこかから楽しそうなアルコール混じりの声が聞こえてきた。
「ブルッカ・ドッラ・ベリータ! アーっ。この国は最高だな。家に帰れなくなりそうだ」
「ブルッカ・ドッラ・ベリータ。わかるよ。ここにしかない美食、タイルの美しい町並み、美しい女性。神に祝福された土地としかいいようがないね」
「けれど知ってる? 旅行者さん。ここに住むと本当の姿になる。というより、本当の姿にしかなれない。気の毒に。金の毛皮の女主人が連れてきた子は本当の自分になっちゃった」
「あれじゃあ誰の目にもとまらないわ」
浮き足立つ若い男たち、それに琥珀のような若い女たちの声。ここではいつもたくさんの声と様々な会話が耳に届いた。
誰もが口を揃えて言う。この国は夢のよう。けれど反面、恐ろしいところでもある。どう隠してもこの土地では本当の自分にしかなれない。すべてをひっくるめ、人々はこの国を賞賛する言葉を乾杯の掛け声に変える。ブルッカ・ドッラ・ベリータ!
すると静かな空間の中に誰かが押し入るようにやってきた。がたがたと何かを動かしたり、乱暴に開けたり閉じたりする音がする。たまにこうやって侵入者がやってくる。靴の音は三人分。もしかしたら四人分かもしれない。近くで男のうんざりとしたため息が重たく広がった。
「いくら探してももう何もありませんよ。おおよそ借金のかたに売り払われたのでしょう」
「本当に残っていないのか。見つかっていないんだぞ。あれだけが。オークションにだって出てこない。どの愛好家も持っていない。ここにないならどこにあると言うんだ。俺は見つけるまで帰らないからなッ!」
「あちこち探しても見つからないんです。いい加減諦めては? それにもうすぐ夜が明けます。引き上げるべきではありませんか」
「なに。問題ない。今頃男の上で仕事中だ。おまえも寄ってくるか? メアリーの店を紹介してやろう」
「娼婦は遠慮します。人形の相手するよりはマシですが」
「人形はいいぞ。人間の女のように嘘をついたり人を騙したりしない。いいか。あれは俺のための人形だ。俺のために作られた特別な人形なんだ」
「何度もお聞きしましたよ。人の命さえ奪いそうな勢いだ」
会話は主にこの二人のものだった。それから彼らは再びまわりを漁り、帰っていった。再び平穏が戻ってくる。並々ならぬ気迫を感じ、彼女を沈める水の中は、ひんやりと霜がおりるように冷え渡った。そこで息を殺し身を潜める。
あのひとたちには見つかりたくない、そう思ったのだ。だから誰もいなくなって心底安心した。やっと息ができる。それなのに、またしばらくしてさっきとは違う誰かがやって来た。
「もう誰もいないぞ。荒らすだけ荒らして帰ったらしい」
「ひどいな、まったく。不法侵入だ」
「どうせまた人形狙いの犯行だろ。もうここにはなーんにも残ってないっていうのに。ᒍ?」
柔らかな春の芝生をゆっくりと進んでくるような足音が近づいてくる。ぎいっと目の前で何かが持ち上がった。そのあと、体の上に掛かっていたものが取り払われる。ひと呼吸置いたあと、張り詰めたような空気を感じた。
「うそだろ。それでなんであんたがこれの場所を知ってるんだ。今まで知らないふりしてたのか?」
「偶然だよ」
「嘘だね。どうして黙ってた? そいつを借金取りたちが総出で探してる。おっさんの人形、相当な高値で取り引きされてるんだろ。そう。その人形を売ってうちの店の修理費に」
「しっ。箱に何か書いてある。エイミ……?」
その言葉で世界が明るく開いた。重たく降りていた幕が上がり、光と星が同時に生まれる。暗がりの中の意識に色がつく。一番はじめに飛び込んできたのは、オレンジ色の淡い光に照らされた、男の姿だった。驚いたのか目を大きく開けて。けれど誠実そうな瞳だった。暗闇にまぎれてしまいそうな肌の色。黒い髪と同じ色の目が見下ろしてくる。もう一人、金髪の男が後ろにいて、こちらを見るなり大きな声を上げた。彼が持っていた手持ち型のランプが大きく揺れて、部屋の中で明かりが暴れる。
「わっ、バケモノ!」
「静かに」
「だって人形が目を開けたんだぞ! マイヤーソンの霊が乗り移ってるんだ!」
「オペラ」
静かに、けれど強く彼は少年をオペラと呼んで注意する。彼の背の向こうは薄暗い天井だった。
「エイミ。これはきっと君の名前だね。君はゴーストか何か?」
自分はエイミだ。とすぐに彼女は理解した。不思議な感覚だった。けれどそれがあたりまえなのだ。音と空気がいつもあるように。説明を受けるより早く、すっと心が納得し名前を受け入れる。でもゴーストなのかと聞かれたら答えられない。自分が雑草なのか、猫なのかすらわからない。だから黙っていた。
「言葉がわかる?」
後ろにいるオペラは信じられない、という面持ちで彼を後ろから見ていた。オペラが悲鳴をあげるほど恐ろしいらしいエイミに対して、彼は穏やかな眼差しを向けてくる。エイミは頷く。
あたりを見渡すと、そこは荒れた部屋だった。首がコキン、と鳴る。倒れた椅子、丸いテーブル。壁に掛かっている絵の額縁がずれて斜めになっていた。カーテンすらかかっていない、ヒビの入った窓。この部屋の床下収納の中にエイミはいた。なにも知らないまま音だけ聞いて、ずっとこんな狭いところにいたらしい。そっと木の縁を撫でる。少し動かしにくいと感じていると、今度は関節がパキパキと鳴った。指には爪が同じ長さの爪がきれいに並んでいる。両腕を見比べると、カフスのついた袖から手がのぞいていていて、着ているのはシンプルなワンピースのようだった。もう片方の手の甲に触れてみる。つるつるの肌はやや柔らかい。
「動いた! まばたきまでしたぞ!」
「話せるかい?」
ぎゃあぎゃあ騒ぎ立てるオペラを無視して、彼は手をこちらに差し伸べてきた。大きな手だった。彼の目とまっすぐに向けられた手を交互に見てから、エイミは彼の手に手を伸ばす。
「こんなこと信じられない。まだアニバーサリーじゃないぞ」
彼の大きな背中の後ろからオペラがひきつった顔を覗かせてくる。手を取ると、ぐっと強い力で引き上げられた。けれど強引ではない、気遣いのある力加減。体を起こされて向かい合った瞬間、彼に対して何か特別なひとかけらが体の内側に落ちてきた。初めて見た他人だからそんなふうに感じたのかもしれない。
「ここ、どこ? あの……私、何か変?」
エイミに明かりを向けていたオペラがしゃべった、と顔を強ばらせて後ずさる。そんなに自分は恐ろしい存在なのだろうか。たちまちエイミは不安になった。自分のことも、まわりのことも何もわからない。わからないものばかりに囲まれて、自分という存在がぎゅっと小さくなったような気がした。
「ここはベリータ。君は外見だけならお人形さん。何も変じゃないよ」
「ベリータ……お人形……?」
「いや、変だろ。それにこいつなんにもわかってないぞ。どうするんだよ」
まるで厄介者か外来種のように言われ、エイミは俯く。ぎし、と首の後ろから音がした。自分の体が軋んだ音だった。手を眺めると、一見人間のようだが関節には球体が入っていた。手のひらにシワがひとつもなく、つるっとしている。これは確かにお人形だ。自分はゴーストでも猫でも雑草でもなく、お人形だったのか。エイミは手を握ったり、開いたりして眺めていた。
「こんなところには置いておけないなあ……どうする? どうしようか。ここは危険だからうちに来る?」
「あんた! また猫を拾うみたいに! もう三匹も手の掛かるのがいるだろ!」
「そんなふうに思ったことないよ。とりあえず連れて帰ろう。さあ、おいで」
「また問題ごと抱え込む気だな」
オペラの言葉を無視し、彼はあっという間にエイミの脇に手を入れる。彼はエイミのことを軽々持ち上げた。それから床の上に立たせてくれる。ワンピースの裾が揺れ、黒い靴を履いたエイミの足が地面に着いたかと思ったら、そのまま足元から崩れ落ちてしまった。操り人形の糸が切れたみたいに。立てない。お人形だからだろうか。このままずっと立てないのだろうか。ぞっとして動かない足を見つめた。
「大丈夫だよ。ずっとそんなところにいたんだから。立てなくても仕方がない」
水から手のひらですくい上げるようにして、彼はエイミを横にして抱え、立ち上がった。優しい声だった。
どうしてこの人はこんなに良くしてくれるんだろう。自分が何なのかわからないものに対して。それにこのままついていってもいいのだろうか。大丈夫なのだろうか。もし、良い人のふりをした悪人だったら。戸惑うエイミの視線に気がついた彼が微笑んだ。
「私はᒍ。一緒にいるのはオペラ。この建物の隣で娼館を営んでいるんだ」
「あんたがいるこの家は昔人形を作ってたじいさんが住んでた。今はもうあの世」
「マイヤーソンっていう人気のある人形作家だったんだよ。タルトタタンが好きでね。覚えてる?」
聞かれても何もわからない。エイミは首をふる。タルトタタンが好きなおじいさんが生みの親らしい。このエイミという名前もその人がつけてくれたのだろうか。どんな気持ちで、どんな意味をこめたのか。会うこともなく亡くなってしまっていたのなら、想像することもできない。
「わからない。自分や他の人のこと、なんにもわからないの」
これって普通じゃない。オペラの反応から察するに、人形が動くのだって、この世界では恐ろしいことなのだ。オペラが前を歩き、暗い通路をランプで照らしていく。細い階段を降りてエイミを運ぶᒍの横顔がぼんやりと照らし出されている。光と影の美しさに目が離せなくなって、ᒍを見つめていると気がついた彼がうん? と首を傾げて笑う。その表情につい引き込まれる。けれど長く目が合っている状態に耐えきれず、慌てて視線をそらしてしまった。
わけもわからないまま、目覚めてしまったエイミがいた建物はᒍの娼館と、もうひとつ隣の建物にぴったりくっついて挟まれていた。縦に長く三階建てになっている建物は、どの家もカラフルなタイルが貼られている。チェリーのような赤、心踊る黄色。控えめだけど忘れられないグリーン、遠い国の青。他にもたくさん。
出てきた真っ赤な格子模様の玄関のドアは壊れ、ガラスは半分割れていた。誰かが住んでいるとは思えない外見。それでもタイルの模様は美しい。飛び立つ鳥、丸いレモンやたくさんのフルーツ。葉っぱや風を表したような模様。ところどころ壊れたり、タイルが取れていたけれど、それでも素敵だと思える。もしこれが完璧な状態だったら、みんな足を止めて見上げるに違いない。
ふと、建物の通りの向こう側、樹木が連なる奥からさらさらと水の滑る音がした。ᒍが歩き出したとき、深い緑が茂る木の隙間から川が見えた。エイミははっとする。闇の中で聞こえていたのは、川の音だったのだ。この川は初めて見るのに、全くそんなふうには思えない。ほう、と小さく息を漏らす。何も知らないまま外の世界との繋がりを、ひとつ見つけられた気がした。
外は薄暗く、遠くの空にぼんやりと闇がとけていくようだ。ᒍに抱かれたまま初めて見る外の景色は目が覚めるほどの鮮やかさだった。まだ朝日も出ていないのに、まばゆい光でエイミの内側を照らしていく。
あたりの空気は新しく、すっと透き通るように冷えている。髪の間を風が通り抜けた。狭い収納庫の中で固まっていたエイミの心が動きだした。
隣の家の淡いブルーの幾何学模様の扉にオペラが鍵を差し込んで開ける。その周りには花の形をあしらったタイル。けれど、よく見るとところどころ欠けたり取れたりしている。ᒍに抱えられたまま中に入ると、すぐに立派な螺旋階段が飛び込んできた。リボンがほどける瞬間を止めたようになめらかに一周したその上から、三人の女の人たちがこちらを見ている。その姿にどきりとして、思わずわッ、と声をもらした。みんなレースや、薄い透け感のある生地の下着姿。声が出たのはそのせいだけじゃない。彼女たちの頭部はそれぞれハーフムーンに近い月と先の尖った星、それから光の輪を持つ太陽の形をしていた。目や鼻はない。もちろん口も。それなのにしゃべるのだ。しかも、彼女たちの顔は淡く発光しているように見える。
「その子だれー? 新しい子?」
「違うって。この前ロゼのこと断ってたのに新しい子が来るわけない!」
「とってもかわいいわね。お人形さんみたい。お名前は?」
身振り手振りを交えてオレンジの太陽、黄色い星、白い月が順番に話す。
「エイミ。ほんとに人形」
ランプの火をふっと消し、オペラが答えると三人はえーッ、と同時に声を上げた。
「動くのー?」
「話すの?!」
「それ私たちが言う?」
と、太陽と星に月が突っ込むと、三人は一斉に笑いだした。
「君たち、まだ起きてたのかい」
「そりゃあ隣の家でガタガタされたら寝てられないよー、ᒍ」
「また変態野郎が人形を探しにきたってわけ。あいつらも懲りないね……って待ってよ! まさかその人形って」
「マイヤーソンさんの子じゃないの……?」
賑やかな室内が一瞬でしん、と静まり返る。注目を浴びてしまい、なんだか居心地が悪い。今日やってきた彼らは変態野郎だったのか。
「ᒍが見つけたんだ」
そう言ってオペラは隣の部屋へ行ってしまった。
「特殊性癖のドールコレクターが見つける前にᒍが見つけたのね」
「そういうこと。さて、エイミ。何か食べる? 喉は乾いてない?」
近くにあった曲げ木の椅子にエイミを座らせると、ᒍは膝をついて視線を合わせてきた。人形でも対等に接しようという気持ちが伝わってくる。彼の柔らかで真っ直ぐな視線になぜかどぎまぎしてしまい、また頷くことしかできなかった。
「人形ってお腹すくのなのかしら?」
「人形って喉が乾くものー?!」
「ちょっと待って。それわたしたちが言う?!」
月と太陽に星が突っ込むと、それが鉄板のお約束ネタなのか、三人はまた笑いだした。朝日よりも明るい笑い声だった。
「ᒍ、私たちのこと紹介してよ!」
星が階段から降りてくる。すると順番に月と太陽もやってきた。
「そうだったね。エイミ、星の彼女はローラ」
「はーい、よろしくね! 私、ここではアイドル枠だからそこは譲らない」
「それから月の彼女がエリザベス」
「エリザって呼んでね」
「最後に太陽の彼女はケイナ」
「ケイナよ。よろしくエイミ。お人形大歓迎。かわいい女の子大好きよー」
ほとんど裸に近いような恰好の女性たちに囲まれて、エイミはどこを見たらいいのかわからなかった。目がないから視線も合わせられないし、感情は声からしか判断できない。けれど悪い人たちではなさそうだ。ᒍやオペラからも嫌な重たさを感じない。ずっと喋っている三人は、それぞれ違った華やかさがあった。娼館ということは、彼女たちはここの娼婦なのだろう。そして娼婦にもアイドル枠があるのか。
「この子うちで売るのー?」
「人形枠で?! そりゃあ需要は」
「こらこら」
ᒍがそう言ってエイミの両耳を塞いだ。そのため何を話しているのか全く聞こえなくなってしまった。少しすると三人が気の毒そうにこちらを見てきた。自分はかわいそうだ、と他人から思われるようなことがあっただろうか。歩けないこと? 口が小さいこと? 人形であること。もしそうだとしたら、どこかに隠れたくなってしまう。月がᒍを指差すと、慌てたようにᒍがぱっと手を離した。
「ごめんね。痛かった?」
「へいき」
「しゃべった!」
「かわいいい声ー」
「お人形さんがお話するなんて」
それ、私たちが言う? と続くかと思ったら今度はなかった。三人はエイミの髪を触ったり、手を握ったり、頬を両手でぎゅっと真ん中ヘ寄せたりしてくる。そのときᒍの右手が目に入り、一部だけ色が違うことに気がついた。ケガの跡だろうか。だとしたらずいぶんと広い範囲だ。どうしてそんな痛々しい跡ができてしまったのだろう。エイミとᒍの視線が絡む。すると、突然ドアが開いた。
「入るよ」
コンコンとドアをノックしたのは高齢の紫色の髪をした女性だった。ふくよかで金色の杖をついて、ギラギラした虎の顔がプリントされた服を着ている。指には赤や透明な石の指輪がたくさん。コツコツと杖を鳴らして足を引きずりながら中へ入って来た。
「また隣に人形狙いのやつらが来ていたようだね。家主が死んで鍵が壊れてるからって、勝手に入っていいことはないだろう。それに夜中に来られてガタガタやられたら、商売の迷惑になる。壁が薄いんだからたまった、もんじゃ……ない……」
話しながら彼女はᒍを見て、次に椅子に座ったエイミを見た。やたら存在感のある人だ。一度は素通りした彼女の眠そうな目が、ばッと大きく見開かれてエイミに戻ってくる。エイミのほうが驚いて、手をギュッと胸元で握ってしまった。
「マイヤーソンの人形そっくりじゃないか!!」
「そっくりというかそのもの」
「そのもの?! ローラ、あんたまた嘘ついてるんじゃないだろうね?! しかも動いてる! 電池かい?!」
高齢とは思えない速さで近づいてくると、彼女は乾いたくちびるを震わせ、ウソらろ、信じらんね。とつぶやいた。太陽や月や星が話しても平気なのに、なぜ人形が動くとみんなこんなに戸惑うのか。エイミはよく理解できなかった。
「いったいどうしたんだ、ᒍ!」
「メアリー母さん、落ち着いてー」
「私たちだって今会ったばかりなんだから」
彼女はエイミの存在に、声がひっくり返るほど慌てている。ひと目見ただけで、マイヤーソンが作った人形だとわかるのか。彼の人形には何か特徴が?
エイミという名前の自分はいったいなんなのだろう。エイミはますますわからなくなった。太陽のケイナがメアリー母さん、と呼んだ彼女の両脇を固めると、星のローラが椅子を奥から持ってきて座らせた。そしていつの間に水を用意したのか、月のエリザベスがコップをメアリー母さんに手渡した。それを彼女は一気に飲み干した。ぐいっと口元を拭うと、赤いリップが肌の上で血のように伸びる。
「なんで人形がここにあるんだ。あそこには一体も残ってないはずだよ。まさかおまえ知ってたのかい、ᒍ」
聞かれてもᒍは答えずに曖昧に笑うだけだった。空になったコップをメアリー母さんがノールックで差し出すと、それをまたエリザベスが受け取る。
「あいつが隠した場所を黙ってたんだね。本当に悪い男だよ。それで? おまえその人形をどうするつもり? 今売ればおよそ1000ラブくらいの価値はあるだろうね」
「1000ラブ?!」
ローラ、ケイナ、エリザベスが一斉に声を上げ、じっとエイミを見つめてくる。信じられない、けれど本当に? といったふうに三人で顔を見合わせている。1000ラブと言われてもエイミにはわからない。どれくらいの価値なのだろう。
「人形作家マイヤーソンの一作目だよ。変態ドールコレクターたちが探し回って、喉から手が出るほど欲しがってる。足だけでも値段がつくよ。トラと一緒だ。死んだトラはあらゆる場所に値段がつく。しかも、そいつらはマイヤーソンの人形欲しさに毎月オークションに集まって出品を待ってるときた」
「それも未使用だもんね。誰かに」
再びᒍに耳を塞がれてしまい、エイミは口をぱくぱくして何かを話すローラを見上げることしかできない。ケイナはうんざりして散る様子で、エリザベスは頷いている。そんなに聞かれたくない内容なのだろうか。メアリー母さんも何かを言って、それからあんぐりと口を開けた。エイミがまばたきをするとさらに口が大きく開く。顔がない独特の頭部を持つ女性たちが普通に話しているのがあたりまえなのに、人形が動くのは顎が外れそうになるほど信じられないことなのだろうか。それに、自分がオークションにかけられるほどの人形だとは。マイヤーソンはずいぶん人気で、腕のいい職人だったようだ。ローラの話していた未使用というのも気にかかる。
あまりにも自分自身の情報がなさすぎてエイミは膝の上にある手に目を落とした。袖から出た手首の関節には、動くように球体が中に入っているようだった。そっと耳からᒍの手が離れる。
「ごめんね」
ᒍは悪いことはしない。エイミは首を横に振る。きっと何か理由があったのだ。エイミを眺めていたメアリー母さんが彼女自身の首を指で軽く叩く。指輪の色石がぎらりと光った。
「首のうしろの確認はしたんだろうね」
「首のうしろ?」
「マイヤーソンのサインだよ。あの下手くそな字はだれにも真似出来ないからね」
「ちょっといい?」
「うん」
エイミの返事を聞いてから、ᒍがそっと首元の髪をよけた。メアリー母さんも身を乗り出してくる。
「おここおここ。あるじゃないか。番号まで。そこに1って書いてあるだろ。7じゃないね。1だ。はー、久しぶりに見たね、この死にかけのミミズが這いつくばったような字! 本当に動くんだね。しかもしゃべるんだろ? それならキャンベルに渡したほうがいいかもしれない」
「キャンベル? 誰?」
「ローラ。本気で言ってるんだね? うちの店の子たちなら全員答えられるこの国の大臣の名前だよ。ᒍ、あんたこの子にもっとお勉強させたほうがいいね」
「ちゃんとわかってる!」
「いいんです、この子はアイドル枠だから。それでどうしてキャンベル大臣に?」
ぼんやりと黄色に光っていた星が一瞬で赤くなる。ᒍがすかさずフォローした。メアリー母さんが小さな目をぎろりとさせる。まるで力を秘めた宝石のように。
「王子が女に興味を示さないらしい」
「それで私たちのところへ声がかかったということですか」
「王室は病気を持っていない、教養のある、素直で人形のような娘をご希望だ。それでもし、王子が女に興味を持てるようになったら……その店には5000ラブの賞金を出すと言っている」
さっきの額の5倍だ。今度はみんな大きな声を出したりはしなかった。
「5000……?! うちだけじゃなくて隣の家の修理までできる金額だよ、ᒍ!」
「そうだね、ケイナ」
「いいかい。ノブレス・オブリージュの看板を掲げた貴族たちは一切知らない情報だ。絶対に漏らすんじゃないよ」
「貴重な情報をありがとうございます。メアリー」
「はぁ?! 誰がタダって言った。これは3ツ目の貸しだよ。ᒍ。おまえのところのお人形さんがもし王子の目にとまったら。私に1000ラブ寄越すんだ。もちろん。貸しとは別にね」
忘れるんじゃないよと念を押し、メアリー母さんは出ていった。かのように見えたが、戸口から再びひょっこりと顔をのぞかせた。
「エリザベス、あんたまた太ったね。もうすぐ半月になりそうじゃないか。そのままだとあっという間に満月になるよ。あんな男は早く忘れるんだね」
ばたん、と扉が閉まる。今度こそ帰っていった。まるで嵐のよう。名指しされたエリザベスは黙ったまま俯いている。男の人と何かあったらしいことは、お人形のエイミにもわかった。ケイナがエリザベスの肩を抱きながらため息を落とす。
「どうするのよー、この子」
「どうするも何も、教養のある淑女のようなお人形に仕立てるしかないだろうな」
いつからいたのか、どこから聞いていたのか。戻ってきたオペラが肩をすくめた。前髪の隙間からのぞいた青い目がᒍに向けられる。さっき外で見たタイルの青と同じ色をしていた。
「その大金があればメアリーばあさんからの借金も返せる。貸しがいっこ減るじゃないか。そうだろ。黙ってないでやるって言えよ。オレが明日からそいつにマナーを教える。デビューは一週間後の演奏会だ」
いいな、忘れるなよ、とオペラはエイミに告げるとまた隣の部屋へ戻っていった。どうやら自分はこのままここで王子好みの女に仕立てられ、王室に高値で売られるらしい。そんな。まさか。エイミはあおざめた。お人形には無理だ。
「演奏会って王子が来るって噂のあれね! けど一週間でそんなことできる?! エイミは記憶もなんにもないお人形さんなのに」
まったくそのとおりだ。エイミはローラに同意する。いつの間にか、ローラたちは記憶喪失であることを知っているようだった。きっとᒍがエイミの耳をふさいだときに、彼がみんなに話したのだろう。ᒍは苦い顔をして腕組みをした。
「オペラならできるだろうね。君たちのマナーの先生は誰だった?」
大きな声のローラが黙ってしまう。オペラはそんなにすごいマナー講師なのか。自分の意志とは関係なく進んでいく話の数々。エイミの心は心配でぎゅっと縮こまり、灰色の空気の中じっとしていた。こんなことなら目を覚ますんじゃなかった、とすら思う。この間接球が入った体にどれほどの値段がつけられたのか知らないが、暗闇の中一人でいたほうがましだった。だいたい、なんで自分は人形なんだろう。雑草ならここまで人に注目されることもなかっただろう。
どこかへ逃げ出してしまおうか。そんな考えが頭をよぎったとき、ᒍがエイミ、と呼んだ。もう自分は完璧に周りからエイミだと認められている。そしてまた自分も。私はエイミだと不自然なほど自然に受け入れている。
「大丈夫、君が嫌なら無理強いしないよ。嫌なら断ってくれたらいい。とりあえず部屋を用意しないとね。これからのことは後で考えよう」
それにダンスよりも歩く練習が先だってことをオペラはわかってないね、とᒍが付け足すととローラ、ケイナ、エリザベスはそれもそうだ、と声を上げて笑う。まだ日の出前だというのに、この娼館は昼間みたいに明るい。突然始まった物語の中に放り込まれたエイミは、自分のいる世界を眺めた。
ペールトーンの柄物の絨毯の上。きれいな女性の足が3人分、並んでいる。足の形は様々だけど、整った爪には鮮やかな赤や白、ピンクのネイルカラー。欠けやはがれひとつない完璧な仕上がり。一人だけ、ケイナだけがつま先の出たフワフワの白いルームシューズだった。まるでうさぎを履いているよう。
さっきは眺めている余裕なんてなかったが、この家の中にはあちこち観葉植物の鉢が置いてあった。全体的に緑が多い印象だ。葉が大きいもの、ビーズのように丸く連なって長くぶら下がっているもの、先端が尖ったもの。どれもみずみずしくて生命感がある。
エイミがイメージする娼館といえば壁紙は真紅。カレイドスコープを覗いたときの模様をした羽根を持つ孔雀の剥製が飾ってあって、床には歯をむき出しにした凶暴なシロクマの頭がついた敷物。金属はすべてゴールドで統一されて、生ぬるい匂いが空気の中を漂っている……しかし、ここはイメージとは違い、ずいぶんと落ち着いていた。どちらかといえば家に帰ってきたような、安らぎ感すらある。ふと、絨毯に丸いライトの光が落ちているのに気がついた。視線を上げると、壁の高いところに丸窓がついている。そこから落ちてきた光だった。
「もう日の出よー。私たちはもう寝るわ。また後でね」
と、ケイナがエイミにひらひらと手を振ってくる。同じように手を振り返した。太陽は今出てきたばかりなのに、娼館の太陽は寝てしまうのか。エリザベスとローラの3人はオペラが出入りしていたドアの向こうへ消えていく。
みんな優しそうだ。とても。オペラだけはエイミをちょっと嫌なものを見るような目で見てくるけれど。
「とりあえず部屋に案内しよう。狭いけど自由に使ってくれていいから。いいよ、座っていて。そのままで」
立てるかどうか試そうと、椅子に手をついたエイミをᒍが止める。しっかりとした腕だった。エイミの腕とは色も太さも違う。身長だってそうだ。顔を上げなければᒍの顔は見えない。
彼は簡単にエイミの体を持ち上げて、隣の部屋へ向かう。そこはダイニングキッチンだった。大きなテーブルに椅子が5脚、壁ぎわやテーブルの横、あちこちに置いてある。白い釣り戸棚の中では整然と食器が並び、大きなオーブンの横のカウンターは淡いグリーンカラー。窓のすぐ下にある水回りにはやっぱり青色の柄タイル。大きなガラスの花瓶には大輪のばらが生けられていた。一本だけ茎が折れたのか、テーブルの上に重そうな頭をだらんと落としている。
「こっちは居住スペースなんだ。そこの階段から2階に上がると、さっきの3人の部屋になってる。もちろん仕事部屋とは別」
仕事部屋、と聞いて彼女たちが夜毎接客をする様子が浮かんでしまい、すぐに打ち消した。あまりにも生々しい。
リビングダイニングの端に螺旋階段とは違った、ごく普通の狭い階段がある。そこを上がると部屋が3つあり、さらにもうひとつ階段を進んでいく。なんて大きな建物だ。外からはわからなかったが、奥に長い造りになっているようだ。
ᒍは嫌な顔ひとつ見せず、エイミを抱えている。落とされたらどうしよう、なんてことも思い浮かばないほど、いつの間にか彼を信頼しきっていた。人形を探しに来た男たちに感じたような恐ろしさはない。
このひとは優しい。かたい腕も、黒く濡れた水晶のような目も。きっと心から温かいのだ。ᒍの名前を呼ぼうとしたけれど、恥ずかしさが勝って気安く呼べない。ためらい、そして迷いが三つ編みのように絡まり合って、エイミの喉をキュッと締めた。それでも勇気を振り絞って、口を何度かぱくぱくさせる。3度目でようやく声が出た。
「じ、ᒍ」
「うん?」
初めて名前を呼んでしまった。そんなエイミの緊張を知らないᒍは,なにかなと視線で答えてくれる。いたずらっぽい、少年のような目。こんな顔もするんだ。あっという間に息ができなくなってしまった。
あっ、あっ、あっ。震える心の中がハートの形がいっぱい押し寄せてきて、ぎゅうぎゅうになってしまう。思わずエイミは自分の口元を押さえた。口からハートが出てくるんじゃないかと慌てて。すぐ近くにᒍの顔があって、彼は足を止め話の続きを待っている。
どうしよう。余計に話せなくなりそうだったが、なんとか落ち着かない胸を静めた。
「あの、なんでこんなによくしてくれるの? 私、本当の本当にここにいていいの?」
話している最中になぜか眉をひそめたオペラの顔が浮かんできて、声が徐々に小さくなってしまう。あのひとはエイミを教育すると言っていたけれど、あまりよく思っていなさそうだ。人から向けられた小さな悪意とも敵意とも呼べない違和感は、エイミから自信を奪う。
「君は私の大事な友達が作った人形だから」
大事な友達。そう口にしたᒍがどこか寂しそうに見えて、エイミは彼の腕をぎゅっと掴んでしまった。けれどすぐに、ごめんなさいと手を離す。ᒍは気にしていない様子で続けた。
「さっきみんなが話していたとおり、高いお金を払ってでも君をほしい人間がいる。そういう人たちはあまり……いい人間ではないかもしれない。他人のことは言えないけどね」
「そんな……そんなことない! ᒍすごく優しいよ」
本当のことを伝えたのに、彼は暗い顔をしてまた歩き始めた。お世辞だと思われたのだろうか。そんなことはないのに。
3階の突き当りの奥、薄暗い場所に暖色系のカーテンがかかっていた。それをᒍが開ける。天井がアーチ型にくり抜かれ、せまい空間にピッタリとベッドが設置されていた。ピンクのチューリップ型のランプが天井からぶら下がり、両方の壁にはニッチ。本が数冊並んでいた。
かなり狭いけど、とは聞いていたが本当に狭い。けれど床下収納よりはマシだ。硬いベッドの上にᒍがエイミを下ろす。また彼は上からものを言うのではなく、視線を合わせてからくちびるを開いた。何を話し てくれるのだろう。エイミはワクワクして彼をじっと見つめる。
「遅かれ早かれわかることだから言うけれど。私は元軍人で、戦争でたくさんのひとを殺したんだ。だからいい人間なんかじゃない」
光ひとつない暗闇の中に、新たな暗闇を吹き込むような話し方。
突然ᒍの過去を聞かされて、エイミは何も言えなくなった。ミルクに砂糖を溶かしたような優しい声で語られたのは、どこか知らない場所で起きている、現実の話。戦争、ひとを殺した。ぽたん、ぽたんと言葉が落ちてきてミルククラウンのようにエイミの中に広がる。この優しい腕が銃を持っていたなんて信じられない。
「君がいるこの国は本当の自分の姿にしかなれない土地なんだ」
おやすみ。そう残してᒍは向かって右側のドアの中へ消えていく。静かにドアが閉まった。細長い窓から光が廊下を一直線に走り、一人残されたエイミのところまで伸びている。
ブルッカ、ドラ……何だっただろうか。そうだ。ブルッカ・ドッラ・ベリータ。暗い場所で漂っていたとき、聞いていた言葉だ。そう口にする人々の声は誰もみな明るかったのに、国の名前を呼ぶᒍの声は沈むように暗かった。
あのひとが戦地にいたなんて。本人から聞いたのに、まだ信じられなかった。右手の跡はそのときに負ったものなのだろうか。
ふと壁を見ると、そこには雫の形を模した鏡が掛けてあった。その中に映った姿にエイミは体を強張らせる。
非の打ち所がないほど整った人形の顔がそこにはあった。小さな顔の上、前髪の下には大きなアーモンド型のガラスの瞳。高くて小さな鼻に、食べごろの桃のくちびる。毛穴ひとつない、つるんとした肌の頬は均一にばら色。不自然なほど完成されている。これが動いたのだから、ゴーストと言われても仕方がない。
目を凝らして見なければ人間と間違えそうなほど精巧にできているのに、人形だとわかるのは無表情だから。エイミの中ではぐるぐるとたくさんの気持ちが魚のように回っているけれど、この顔は不気味なくらい感情の動きが見られない。笑顔を作ろうと口の端を上げたが、ぎこちなく不自然な表情だった。ゴーストと言われた意味を理解する。笑うのを諦めた。
本当の自分の姿。ᒍの言っていた言葉が透明なゼリーのように頭上から落ちてきて、体をゆるく包んだ。息苦しさを感じて横になる。足だけが鉛がついて入るみたいに重たくて自由にならない。自分の足じゃないみたいに。
本当って何なのだろう。エイミには本当の正解がない。
光、タイル、娼婦、戦争。世界のことはちゃんとわかっているのに、自分のことだけがすっかり抜け落ちて、何ひとつとしてわからない。不安がひっきりなしに足元を撫でてきた。波のように。こんなふうに、塩からい波のことも知っている。広く、青い海のことだって。
体の下、触れたブランケットをたぐり寄せて抱き締める。オペラは本当にエイミを淑女に仕立て上げるつもりだ。ᒍは嫌なら断っていいと言っていたが、オペラはそれを許さないだろう。だいたい、これだけお世話になって、何も返さないわけにもいかない。ノーと口にできない。けれどダンスのレッスンなんて受けたことがないし、もちろんマナーだって。その前に歩けないし。ちゃんと教えてもらったところで、王子に気に入られる保証は何ひとつないのだから。もし万が一、気に入られたとして、何をされるんだろう。何を要求されるのだろう。人形の体をどうにかしたいと、服を脱がされたら……? 考えてエイミはぞっとした。
ここは娼館。身を売る場所。あの3人はそれが日常。いろいろと考えているうちに、意識がチョコレートソースのようにとろけてくる。ソースが流れてベッドをコーティングしていく。そのうちエイミの体までベッドに沈んでしまった。
「エイミ。起きて。エイミ!」
肩を揺さぶられて、はっと目が覚める。いつの間にか眠ってしまっていたらしい。今は何時だろうか。顔を上げると、そこには知らない女性がいた。すとんと胸まで落ちた長い髪。眉毛がない。左の頬にふたつ並んだほくろ。気の強そうな目。リボンや宝石、世界中のかわいいものを集めて形にした声。
誰だろう。ぼんやりしていると彼女はああ、と何かに気づいたような声を上げた。
「わたし。ローラよ」
眠気ではっきりとしない頭でローラ、と名前を繰り返す。ローラといえば、星の頭を持っていたあのアイドル枠の。どうして彼女に人間の頭がついているんだろう。
「そう。今はこの姿。それはどうでもいい。お風呂。お風呂に入るから!」
「お風呂……?」
完全な人の姿をしているローラを前にエイミは言われたことをただ繰り返す。今はこの姿。ならいつ、あの星の姿になるのだろう。聞ける間も与えないくらいの勢いでローラはしゃべり続ける。
「キャンセルするなんて絶対に言わせない! あなた何年埃と一緒に床下にいたの? 今すぐにお風呂に入るべきじゃない? それにその服だって洗わなきゃ」
強い口調だった。絶対にノーとは言わせない迫力を持っている。それほど汚れているのだろうか。エイミは自分の腕を片方ずつ交互に眺めた。そこまで汚いとは思わなかったが、ためらいつつローラを見上げる。
「その、そうだけど、人形はお風呂に入って大丈夫?」
「大丈夫よ。小さい頃よく川で洗ってたけどなんともなかった。流したことはあったけど」
「えっ」
「お風呂に流したりなんかしないから安心してよ。あんたはうちの大事な商品なんだから」
そう言うや否や、ローラはエイミの腕を掴んでベッドから起こすと、膝の下にサッと手を入れ簡単に持ち上げた。
「あんた本当に軽いわね。ま、臓器がないんだから当り前か」
そのままずんずん廊下を通り、下の階へ降りていく。狭い廊下でエイミがつま先や腕を擦ったりぶつけたりしても、ローラは全く気づいていない様子だった。いつ落とされるかわからなくて、ローラの細い肩にしがみつく。Jのときと違って安定感がない。二階の奥の扉は開けっ放しになっていて、話し声とお湯の音が聞こえてきた。
「おまたせ。連れてきた」
部屋の中に入ったローラが近くにあった丸椅子にエイミを下ろす。そこはバスルームだった。金の猫脚バスタブの中にはたっぷりとお湯が張られている。ふわふわと上がる湯気。そして知らない二人の女性。ローラと同じく人間の頭を持っている。
「おはよう、エイミ。わたしが誰かわかる?」
柔らかい雰囲気の彼女が自分の顔を指差した。ひだまりをホットミルクにひたした声。ふんわりと肉のついた頬にはえくぼ。ミルクティー色の長い髪がゆるくカーブして顔を包み込んでいる。もしかして、この人間の頭を持つ二人は昨日の月と太陽のどちらかなのだろうか。すると、もう一人のまつげの長い黒髪セミロングが彼女の肩を叩いた。ᒍと同じ褐色の肌をしている。
「わかるわけないでしょー、私ケイナ。太陽よ」
「わたしはエリザベス。今はわたしたちこの顔なの。どっちかというとこっちが仕事用の顔」
肩をすくめたケイナのことを気にもとめず、エリザベスはにっこり笑いかけてきた。まるで月が笑っているようだった。
「昨日は大変だったね、こんなとこに来てー」
ケイナが手を差し出してくる。オレンジの実を手で割ったときのような眩しさと弾けるような香りがする声。昨日しっかり挨拶ができなかったことを案じていたエイミは、二人がよろしく、と言ってくれたことに安堵した。先にケイナの細い手を握る。
「よろしくー」
「よろしくね」
「ちょっと! 挨拶はいいから先に脱がせてよ!」
順番に握手をしている後ろで、腕をまくったローラが湯船の横でお湯に手を入れていた。脇にはボディソープか何かのボトルが3本、並んでいる。
「はいはい。エイミ、ごめんねー」
「お風呂入ったらすっきりするよ」
「エッ、え、え」
二人がかりで着ていた服を脱がされてしまい、あっという間にエイミは裸になった。明るい場所で足元に丸まった服を見ると、白いカフスや裾は確かに汚れていた。こんな姿をᒍに見られたのかと思うと恥ずかしさがこみ上げてくる。
つるんとした人形の体は肘や膝、太ももにも関節球があった。胴体をつなぐ お腹にはもちろん、足首にも。動かせる場所すべてにこの球体がある。すべての球体は外からは見えないように作られている。これのおかげで体を自由に動かせるのだろう。エイミが自分の体を観察しているうちに、いつの間にか三人の視線もエイミの胸に注がれていた。
「胸だけ素材が違うんだけど……」
「本当にかなり本物に近い」
体をまじまじと見つめられ、エイミは体を丸めた。きれいな女性たちに囲まれ、裸を鑑賞される羽目になるなんて。初めて見たこの体への率直な感想は、怖い。すべてが人工的な作りもの。マイヤーソンという人間が作り上げた女性の体を持つ、まさしく等身大のお人形だった。
「恥ずかしがらなくていいのよ、お姉さんが見てあげようねー」
「ケイナ! あんたがするとそれ以上のこともしそうだから絶対にだめ!」
「どうして? いけないの? かわいいのにー?」
「あたりまえでしょ、道徳的に!」
「エー」
エイミに伸びてきたケイナのチョコレート色の腕をローラがぱしん、と軽く叩く。ケイナが残念そうにこちらを見てくる。ローラが止めてくれなかったらどうなっていたことか。そこヘ、でも、とエリザベスが切り出した。
「王子に献上するんだから、そういうことも教えてあげないといけないんでしょう?」
「それはそうだけど。この子、そもそもそういうふうに作られているわけ?! お人形だよ?」
そういうふう、という言葉に舌がぴしん、と固まる。スキップや刺繍と同じ感覚で声に出されて、瞬きを何回もしてしまった。
「ほら、エイミが驚いてるわ」
「本当だー、顔には出てないけど、これはめちゃくちゃ驚いてる」
ふんわりとマシュマロのように柔らかなエリザベスの腕が、エイミの肩を守るように抱いてくる。コンコン。そこにノックの音が響く。振り返るとドアの横には手をノックの手の形にしたままのᒍがいた。
「騒がしいと思ったら。3人して」
ᒍの顔を見たエイミは頭の中が真っ白になった。うそ。なんで。このタイミングで。何も着ていないのに! と、体の中を大声でいっぱいにして、エリザベスに体を押し付けるようにして抱きついた。
「ᒍ、だめだよ入ってきたら」
「ねえ、この子まさかただの人形じゃないよね? マイヤーソンって顔に似合わずそんな趣味があったの?」
「ケイナ、ローラ」
恥ずかしすぎて顔を上げることができないエイミを見かねたのか、エリザベスが二人におっとり、けれどしっかり呼びかける。それでもふたりは止まらない。
こんな状況、まるで地獄だ。エイミはますます体を小さくしてエリザベスにしがみつく。
「王子って一体どんな趣味をお持ちなのかしらー。王族ってどんな夜を過ごすの? お上品そうで野蛮なのが好き? ᒍ知ってる?」
「全く情報がないんじゃ、やりようがないよ。なんにでもマーケティングが必須なのに」
「女性に無関心な男の心を開くのに必要なのはそのことだけじゃないよ。それにまだ何も決まってない。ここはいいから、君たちは出ていってくれるかい?」
ね。と、ᒍが優しく念を押すと、はーい、と二人は言いたい放題していた割に、すぐに出ていってしまう。エイミはエリザベスにかじりついた腕の力を弱めることができないでいた。このふわふわの、どこまでも沈み込んでいきそうな体から離れたくない。けれど、彼女が大丈夫と言うのでしぶしぶ体を起こした。3人の中で一番安心できて信用できるのは、今のところエリザベスだ。そんな彼女も2人を追うように廊下へと消えてしまう。
なんにも大丈夫じゃない。ᒍと二人きりになったエイミは腕で胸を隠すようにしてうつむいた。
「3人とも悪気はないんだ。けれどここはこういう場所だから、なんでもあけすけでね」
そうかもしれないが、ᒍに裸を見られるなんて消えてしまいたい。苦しくて大切なものを握りつぶされたよう。それでもエイミはくちびるの隙間から声を押し出した。
「みんな、優しくしてくれる」
「悪い人間じゃないことは保証するよ」
突然、ᒍが横に来て椅子に座ったままだったエイミを持ち上げた。裸の体がᒍの胸やむき出しの腕に触れる。あたたかなミルクみたいな人肌の体温。息が止まってしまうかと思った。ᒍがゆっくりとエイミをバスタブの中に下ろしていく。お湯が体を包み込む。
「熱くない?」
「うん」
お湯は熱くない。それよりも熱いのはエイミの体の奥だった。カンカンと降り注ぐ日差しに焼かれた石みたい。こんな格好を見られたくないのに、ᒍは平気な様子でエイミの頭にお湯を注ぐと、液体を手に取り頭を洗い始めた。
この展開はなんだ。いきなり発生したお風呂イベントにエイミは混乱する。同性に入れてもらうのはまだいい。けれど相手は異性だ。しかもᒍだ。大きな手が、強くも弱くもないちょうどよい加減の指先が、ごしごしと頭皮の上で動いているのがわかる。髪の毛だって人工的な素材でできているに違いないのに、ᒍは丁寧に泡で頭を洗ってくれる。
「これからどうするか決めた?」
急かすわけでも、どうしてほしいとも要求するわけでもない穏やかなᒍの問いかけ。ごしごしと髪を洗う音を聞きながら少し考えて、エイミは頭を横に振った。
「すぐには決められないよね。オペラは今日から君のレッスンを始めるって決めているみたいだけど。君の心がしたくないって言っていることはしなくていいんだよ」
ザーッ、と一気にお湯が降ってきて泡が流れていく。バスタブの中に白い泡が浮かぶ。濡れた前髪が下りてきてエイミの目を隠してしまった。
「ᒍ」
「うん」
「目が覚めたら、私、この姿で。何もわからないから心の中がずっと不安でいっぱい。だって、お人形なんだもん」
「うん」
「でも今日中には決めるから、もう少しだけここに置いてくれる……?」
「もちろん。ずっといてもいいんだよ。私ははじめからそのつもりだけど?」
えっ。エイミは思わずᒍの顔を見る。前髪の隙間から目が合うと彼は笑った。その笑顔を映したエイミのガラス玉の瞳には、きらきら、きらきらと彼のまわりに金色の星がたくさん輝いているように見えた。彼の姿が胸に焼きついていくよう。裸でいることも忘れて、彼のすべてに夢中になってしまう。
「君をひとりで外に放り出すことなんかできないからね」
ボトルのポンプを押して、手のひらに出して泡を作ると、次はエイミの首の後ろを洗い始めた。彼の手のひらで。体にᒍの熱がしっかり伝わってくる。体は固まったように動けなくなって、息をするだけで精一杯。肩、背中、腕。直接感じるᒍの手のひらの感触。ないはずの臓器がどくんどくんと音を立てる。流れてもいない血液がざぶざぶ波打つ。
「君のこと、ずっと知ってたんだ。生前、マイヤーソンから託されたから」
「私を……?」
「あのひとは1番はじめに作った君のことだけは手放したくないって、他の人形は売っても君だけは売らなかった。そのうち病気が悪化して作品を作れなくなってしまってね。薬代がなくても君だけはそばにおいていたんだ、エイミ」
「マイヤーソンさん、病気だったの」
「心臓のね」
と、ふいにᒍの手が胸に伸びてきた。胸から腹、腰をスポンジで撫でるように洗っていく。パシャパシャとお湯が跳ねる。ᒍの腕にある火傷の跡は近くで見るとますます痛々しい。
「愛好家たちの間で彼の人形が高く評価されたのは、亡くなってからでね。もっと早くパトロンでもついていたら違っただろう。マイヤーソンの家の外壁を見た? タイルがはげて古くなっていただろ? それをずっと直したいってベッドの上でも気にしてた。彼がデザインしたんだよ。昔はこのあたりで一番美しいタイルだったんだ。それなのに、コレクターたちが侵入するようになってから荒れ始めて」
「そのコレクター、私のことを探しに来てた……?」
「そう。空き家になったところへコレクターたちが。昨日はものすごい音がしたからね。うちも迷惑してたんだ。それなのに、このへんは揉め事が多いからって警察がいいわけして来ないんだよ。困ったことにね。だからオペラと慌てて見に行った」
「そっか……」
「このままだと彼が大切にしていた君があいつらに見つけられてしまうと思って、マイヤーソンから教えてもらっていた床下収納を開けた。コレクターたちもあちこち探してたみたいだけど、絨毯の下のそのまた下の床下収納までは見つけられなかったみたい」
自分の体の上をすべるように動く腕から目が離せない。彼が動くたびにパシャ、パシャと音が響く。
「君がいた場所、本当は開けるつもりなかったんだ」
ᒍは服が濡れても平気なようだった。実際に彼が着ている白シャツは肌にぴったりと張り付いている。
「いつか君を必要とする誰かが現れたときに渡してほしいと頼まれていたから」
淡々とᒍは話し続けるが、エイミはそれどころではない。後ろから横に移動してきたᒍと顔を合わせたときには、緊張しすぎて体がこわばっていた。
「……あれ? もしかして恥ずかしかった……?」
あくまでもこれは作業的なものだったのだろう。ᒍの顔にはしまった、と書いてある。エイミは泣きそうになりながらうん、うんと頷く。こっちはどうしていいのかわからないのに、相手はなんにも感じていないだなんて。けれどすぐにそれもそうだ、と納得した。彼にとって、エイミは大切な友達が作ったお人形。人形に変な気を起こすわけがない。おもちゃを洗っている感覚しかないのだ。
「本当に悪かった。あの子達の体を洗うこともあるから。いつもの調子で」
「えっ……」
あの子達、というのがローラ、ケイナ、エリザベスだというのはすぐにわかった。
うそでしょ。それを聞いてエイミは軽く失望する。あの3人にも同じことをしているのか。ここは娼館だから仕方がないのかもしれないが、それが当たり前になるほど日常化しているのは道徳的に考えものだ。それが伝わったのか、少し慌ててᒍは両手をエイミに向けた。
「だけどそういう関係は誓ってないから。あくまで経営者と従業員」
無実だ、と深い色の瞳に訴えられると、エイミは頷くしかなかった。あくまでも娼館の主人と従業員だと主張するならそれを信じるしかない。けれど、誓うとは何に誓うのか。ᒍは顔色ひとつ変えず、まっすぐでかたいエイミの足をマッサージするように洗っていく。
「私たちは家族みたいなものなんだ。みんな自分しか財産がなくてね。生きていくためにここで娼館を始めたんだよ」
「腕の跡、戦争のときに?」
「そう。火傷。女の子には気持ち悪いかな」
「ま、まさか。そんなことちっともない」
身を乗り出してバスタブのふちを握る。ひとりの女の子として形だけでも扱ってもらえたことが嬉しい。ᒍがふふ、とエイミに向かって静かに笑う。
とたんに後ろから夏がやってきた。いや、春かもしれない。とにかく背後から押し寄せるように眩しい季節が、輝く光とともにやってきた。新緑の香り交じる突風、満開の花々がおち、こぼれ、くずれ吹きすさぶいろとりどりの嵐の中、生まれてくるのは、あふれるほどの光の渦。
正にめくるめくカレイドスコープの中心。一気に世界が眩しく映る。けれどそれはエイミの内側での出来事だ。現実はただ静かにパシャパシャと過ぎていく。
「火傷、痛かった?」
「もう平気だよ」
「戦争は? 怖い?」
「怖いなんて言ってられなかったかな。勝つことしか考えてなかったから。恐ろしいことをしたんだって気づいたのは、焼け野原に立ったとき」
「勝った?」
「勝ったけど負けたよ。足、どう?」
尋ねられ、バスタブに伸びた自分の足を見下ろすと、つくしみたいな形をした指がぴくぴくと動いていた。
「動いてる!」
「歩けるようになるよ」
「ありがとう、ᒍ! ᒍの手、すごいね、魔法みたい」
感謝を言葉にすると、彼は一瞬だけ止まった。けれどすぐ笑顔を浮かべる。
「よかったね」
「うん。嬉しい。だけどきっとオペラはすぐにダンスの練習を始めるね」
「そうか。そんなにレッスンを受けたいんだな? いいじゃねぇか」
それまで部屋にいなかった、アルトの声色が響いた。言葉遣いは乱暴なのに、どこか品がある。バスルームの前には腕組みをしたオペラがいた。金色の髪はさらさらしているのに、相変わらずめんどくさそうにこちらを見てくる。
彼は私のことが嫌いなんだ、とエイミはついにわかってしまった。前髪から水滴が落ちてきて、湯船にぽちゃんと落ちる。
「ᒍ、その足早く踊れるようにしてくれよ。お人形遊びしてるわけじゃないんだ。こっちは金と生活がかかってる」
サッと背中を向けてオペラは出ていった。裸を見られたことより、全身で存在を拒否されているような感覚になって、ぴくぴくと動いていた親指もまた固まってしまう。
「ごめんね。オペラはここをどうにかしようと誰よりも必死なんだ。この建物はメアリー母さんから買ったもので、うちにはその借金もあるから」
ᒍのごめんね、にまたエイミは頷くしかなかった。借金を返したいのはここの主人であるᒍも同じに違いない。そして、亡くなった友達の家のタイルを直したいときっと思っているはず。
このひとが笑顔になるなら何でもしたいし、謝るなら全部許したい。偏った感情なのかもしれないが、まっすぐ、立ち向かうように強く思う。出会ったばかりなのにおかしな話だ。けれど、ᒍに対して偏った見方にしかできなくなったエイミが選ぶ道はひとつしかなかった。
焼け野原に立ったᒍはどんな気持ちだったのだろう。火傷の痛みは、どれほどのものだったのだろう。ひとりで泣いた? 苦しかった? 戦争に勝ったけど負けたという想いは、どうして生まれたのか。知りたい。いや、彼が嫌なら知りたくない。ᒍが幸せになることなら、ためらわずイエスと答える。それがどんなに大変なことだとわかっていても。
ᒍ、とエイミが呼びかける。棚からバスタオルを取り出したᒍが振り返った。
「私、やりたい。何かここで役に立てるなら、頑張ってみたい」
エイミの決心を聞いたᒍが目を大きく見開いた。丸いクヌギの実がふたつ並んでいるようだ。エイミをじっと見つめながら、口元に手を当てる。彼の手が離れたとき、くちびるが動いた。
「こんな話するべきじゃなかった。忘れて。もし誰かが何かを言ったとしても、君はここにいていいんだ」
えっ。今度はエイミの目がクヌギの実になる番だった。思っていたのと違う反応になんだか拍子抜けする。しかも話すべきじゃなかっただなんて。ここでの存在意義を見つけ、少しだけ受け入れられ始めたのかと思ったのに、そうじゃないとはねつけられたような衝撃さえある。
ᒍはそれでいいのだろうか。もっとも、エイミが王子様に気に入られるかどうかなんて、誰にもわからないのだから、期待も何もないのかもしれない。
「そろそろ上がろうか。君の服をメアリー母さんの店の子が持ってきてくれたんだ」
「メアリー母さん……さっきの」
「うちと同じで娼館をやってるんだよ。金の毛皮っていうこのあたりじゃ一番大きくて繁盛してる店」
「そういうお店、たくさんあるの?」
「合法的にやってるのはうちと金の毛皮、あと一軒」
「違法なところもあるんだ」
「娼館に限らず、何でもね」
椅子を片手で持ってくると、ᒍはエイミを抱きかかえてそこに座らせる。白い服が濡れて肌が透けていた。裸よりもいけない気がしてなるべくᒍを見ないようにした。彼は手際よく髪や体を拭いて、下着の前後ろを確認し、ワンピースは足から着せる。あまりにもてきぱき進めていくので、恥ずかしいと思う暇さえない。彼がこういうことに慣れているのがよくわかった。娼館を営んでいるから、という理由は理解できる。だけど、女の子の体を洗うことが日常的なのはどうなのだろう。人形のエイミには納得できない。さっきᒍに触られた場所はまだ熱を持っているようだ。気持ちを落ち着かせるため、ᒍが着せてくれた上品なアイスブルー色をしたAラインのワンピースを裾を膝の上で撫でつけた。
「ᒍは人形が動いても怖くないの?」
「怖くないよ。うちには歩く太陽と星と月がいるから」
「そっか。それもそうだね」
「怖がられてると思ってた?」
「オペラは私を見てびっくりしてた」
「あの子は怖がりなんだ。怖がりで口は悪いけど本当は」
「誰が口が悪いって?」
「やあオペラ」
「やあオペラ。オレの気配に気づいてただろ、軍事指揮官」
軍事指揮官。ᒍは本当に戦場に立っていたのだ。いつからいたのか再びオペラが戸口に立っていた。急にいなくなったり、出てきたり。まるで気まぐれな猫のようだ。改めて明るい場所で見るとᒍの口真似をする彼は中性的な容姿で、女性と言っても通用しそうなほどだった。口は悪いのにどこか品があって、全身を黒い服で包んでいる。そんなに黒が好きなのだろうか。はちみつ色の髪と白い肌が余計に際立っている。
「5000ラブ、足の調子は?」
「それがエイミのことを言っているのなら、まだわからないって答えるよ。それからそんな呼び方は良くないともね」
「まだ歩けないのかよ」
「急には無理さ」
「そもそも人形だもんな」
表情を曇らせてオペラがこちらを見てきたため、どきりとした。美形からそんなふうにきつくにらまれたら怖い。けれどエイミの不安はきっと伝わらないだろう。この顔の上にある眉はぺたりと貼り付いて、びくともしない。ふと、オペラがエイミの足のあたりに視線を移す。それから信じられない、とばかりに大きな声を出した。
「おい! おまえ膝が離れてるじゃないか。両膝を離すな。そいつらは一生離れない双子だと思え! 首の角度も悪い。そんなに下を向いてたら自信がないように見えるだろ。ああ、ああ! 口を開けっ放しにするな。みっともない、閉じろ! 舌の位置は顎の上だろーが! まったく! なにひとつとしてなってない!!」
一気にいろんなことを指摘され、その都度エイミは膝を閉じ顔を上げ、口を閉じる。顎の上が理解できずに口内を舌で探し回っていると、それがおもしろかったらしくᒍが吹き出した。
「オペラ。ほどほどに」
「演奏会まで時間がない。わかってんのか。いやでも当日までに本当に上品なお人形になってもらわなきゃ困る。貴族の娘だって王子を狙ってるっつーのに」
「それについては話したい。彼女を勝手に連れてきたのは私だよ」
「だからなんだって言うんだ。ここに来たからにはそうしてもらう。いいか、5000ラブ。オレたちには金がいる。借金もあるし、この建物のタイルも直す必要がある」
腰に手を当て、目を細めて見下ろしてくるオペラにエイミはうん、うんと頷くことしかできない。
「そのためにはどうしても金が要る。それも全部おまえにかかってるんだ。わかるだろ?」
オペラの目は本気だった。真剣にお金が必要で、絶対にやり遂げやる、という意志がその気迫からびりびりと伝わってくる。差し出された契約書に印を押すようにエイミは、うん、と慎重に頷いた。
「その……タイルを直すのは、そんなに大事なことなの?」
「ハアーー?! おまえなんッにもわかってねーな!」
「この国の人間にとってタイルはただ美しいだけじゃなくて、国の象徴でもあるんだ」
聞かなきゃよかった。キレ始めたオペラに完全に萎縮してしまい、エイミは泣きそうになる。ハアー?! なんて言われた日には一週間は立ち直れない。泣きたいのに涙はちっとも出ない。涙腺が故障してしまったみたいに。さっきまで湯気で暖かかったバスルームが部屋の隅から冷えていくようだ。身を小さくして背中を反らせたエイミの肩にᒍが手を乗せてきた。じんわりと人肌の温かさが伝わってくる。
「ベリータの人間は生まれたときからタイルに囲まれて暮らしてるんだ。だからタイルは特別なものなんだよ」
「オレみたいなよそ者からすると、観光資源でしかないけどな」
さっぱりと言ってのけるオペラに対して頷く勇気はもうなかった。少し反応しただけで怒りを買いそうだ。そこに、階下からᒍを呼ぶ声が聞こえてきた。星か月か太陽の誰かだ。続けて違う声がロゼが来てる、と付け足す。
「またかよ」
うんざりした様子でオペラが眉間にしわを寄せた。
「メアリー母さんに何か頼まれたんじゃないかな」
「どうせあんた狙いだろうけどな」
えっ。耳がオペラの声に傾く。今の発言は聞き逃せなかった。あんた狙い。ᒍを好きな子がいるのだ。その子が今、下に来ている。いったい、どんな子だろう。優しくて女の子らしくて、誰もが守りたくなるようなお花のような子かもしれない。ᒍがその子を特別大好きになってしまったら。いや、その前にこれほど素敵な人に恋人がいないわけがない。Jにはそういう相手がいるはずだ。
エイミがそわそわしていると、突然体が浮いた。抱き上げられたのだ。エイミを軽々と持ち上げてしまう腕から肩、首、顔をたどる。それはᒍだった。エイミと目が合うと、眉をきゅっと上げて笑いかけてくる。
「ごめん、驚かせたね」
「う、ううん」
「お客さんが来たんだ。多分君のものだよ」
「私……?」
薄暗く狭い廊下を抜けて、ᒍとエイミはリビングルームヘ下りる。後ろからオペラもついてきたようだ。無駄のない足音でわかる。リビングには眉毛のないローラが一人、マグカップを持って座っていた。テーブルの上には食べかけの朝食がテーブルの上に並んでいる。いや、昼食かもしれない。壁にかかっている時計は1時を指していた。板チョコが挟まれたクロワッサン、かじりかけのジャムトースト、フルーツいっぱいのシリアルボウル。端がカリカリになった目玉焼きに真っ赤なミニトマト。白いお皿の端に置かれたフォーク。
「あの子100%ᒍが好き。賭けてもいい。だけど、また面倒ごと起こさないようにね」
カップを離したローラのくちびるにはカフェラテの泡がついている。面倒ごと、口の中で呟いてᒍを見上げるが彼は気づいていない。
「好きで起こしているわけじゃないよ」
「女の子たちが勝手にね。橋の上でᒍを巡ってキャットファイト!」
にゃんにゃん! と語尾にハートをたっぷりつけて猫の真似をした。さすがアイドル。違和感がない。ᒍは肩をすくめて反応を返すとエイミを連れたまま玄関へ移動する。そこにはエリザベスとケイナ、そして背中を丸めた女の子がいた。ᒍを見つけると、その子が顔を上げる。小さな目が輝いた。きらきら、光が水の上で反射する。けれど一緒にいるエイミを見た瞬間、彼女は強く、弾けるように驚いた。初めて会ったはずなのに、会ったことがあるような反応。少しの間、エイミは彼女と見つめ合う。なんだろう。彼女はどうしたのだろう。彼女の中で何か強い感情が生まれているのは確かだった。
「ᒍ。ロゼがエイミに靴を持ってきてくれたの」
エリザベスがすでに受け取った紙袋をこれ、と軽く持ち上げた。エリザベスの声に女の子ははっとしたのか、俯いてしまう。前髪で顔が隠れてしまった。
彼女がロゼ。ふくふくとした柔らかそうな頬と、ぴたぴたのネイビーの半袖。揃いのスカートに包まれた柔らかそうな体。けれどその顔は赤く、ところどころ吹き出物ができていて、痛々しいほど荒れている。
「それ……メアリーさんがよかったら使ってほしいって」
「ありがとう。悪いね。重たかっただろう。取りに行ったのに」
「平気。こう見えて力はあるの……あ、違う。見た目通り」
力なく笑ってロゼが茶色の長い髪を耳にかけた。ᒍは彼女の自虐を笑ったりはしなかった。
「どう? こっちの生活には慣れた?」
「わたしを買いたい人はいないから。まだ仕事場には一度も出てないの。雑用メイン」
「困ったことがあったらいつでもおいで」
「そんな……ありがとう」
声色に現れたのは感謝だけじゃない。ロゼはᒍに恋をしている。その場にいる誰もがわかった。エリザベスとケイナの二人はニヤニヤしているし、エイミだって気づいてしまった。それほどロゼがᒍに向ける視線は特別だ。熱っぽくて、強い気持ちが一心に向けられている。そこでエイミは、はっとする。彼女はᒍに抱えられた自分を見て嫌な気持ちになったに違いない。だから初めて会ったとき、あんなふうにこちらを見てきたのかもしれない。なんだか申し訳なくなってきた。
「ロゼ、この子はエイミ。エイミ、ロゼ。紹介が遅れて悪かったね」
「メアリーさんから聞いてます。お人形そっくりの女の子が来たって。けど、その子……歩けないの?」
「今のところね」
「あ、あの。よろしく、ロゼ」
また挨拶するタイミングを見つけられず、二人の会話の中に無理やり割って入ってしまった。慌てた喋り方になってしまい、恥ずかしい。けれどそんなことを気にする様子もなく、ロゼはエイミを見つめ、気力のない笑顔を浮かべる。
「よろしくね、エイミ。わたし、ベリータに来たばかりで友達がいないの。仲良くしてね。じゃあ、そろそろ戻ります。用事をたくさん頼まれているの」
そうしてロゼは帰っていった。最後はᒍと視線をしっかりと合わせて。ドアが閉まる瞬間、ネイビーのスカートが隙間から見え、消えてしまった。パタン、と音がしたとたん、ケイナがしゃべりだした。
「あの子本気だよー、どうするのー? また女の子泣かせちゃうね」
「エリザ、エイミに靴を履かせてあげてくれる?」
笑うケイナの言葉に返すことなく、ᒍはそっとエイミを椅子に座らせた。ローラが言っていたキャットファイトの話といい、ᒍはそんなに女の子から好意を寄せられることが多いのか。気になって仕方がない。
「もちろんよ。見て、エイミ。着替えもいっぱいもらったわよ」
いっぱい、とエリザベスがソファーヘ視線を向ける。そこにはハンガーにかかったままの服がたくさん積んであった。おそらく新品だ。
「こんなにたくさん……いいの?」
「いいのよ。メアリー母さん、ロゼのために用意したらしいけどサイズが合わないの。エイミなら着れるだろうからって。ちゃんと請求書もある」
「あの子、外からメアリー母さんが連れてきたんだけど、本当の姿になっちゃったんだってー。ここに戸籍を置く前はかなりの美人だったらしいよ」
「母さんが発狂する声、役所から市場まで届いたって話」
「そりゃあ母さん自らスカウトしたくらいだもんねー。でもあの母さんが本当の姿を見抜けないなんて」
「おい、待て。なんだよこの額」
苛立ちを滲ませたオペラは、エリザベスの指の間に挟まれていた薄い紙をぱっと奪い、中を確認した。いつの間にそこにいたのか。眉間にギュッとしわが寄る。
「売りつけられただけじゃねーか! どうすんだよ、これ!」
「3割は引いたって聞いてるー。エイミサイズの服はうちにはないから」
「必要経費。かわいくなきゃ王子の目には留まらないわよ」
エリザベスの必要経費、という言葉に言いたいことをすべて飲み込むと、オペラは、ああっ! と発狂に近いため息を吐き出し、請求書を持ってリビングヘ戻っていった。それほど高額なのだろうか。それも自分の服に。ᒍはいいと言ったが、何がなんでも王子に気に入られないといけない。という焦りに似た気持ちが強くなっていく。ᒍはそんなエイミに気づいたらしい。
「大丈夫。お金がないわけじゃないから。オペラはやりくりに厳しいんだ」
心配しないで。と、エリザベスが受け取った紙袋の中からオレンジ色の箱を取り出した。その箱の中身は靴。小さなビーズが縫い付けてある、控えめなシルバーのバレエシューズだった。
「ちっちゃくてかわいい! わたしの足もこんなに小さかったらな」
ᒍから靴を受け取ったエリザベスが、すぐにそれを履かせてくれた。それはあつらえたように足がぴったりと収まる。柔らかくて、足を動かすとビーズが光った。思わず心が笑顔になってしまう。ケイナが手を叩いた。
「ぴったりー!」
「こんなにかわいい靴や服を用意して。母さんよっぽどロゼに期待してたのね」
「メアリー母さん、キャンベルの話をいち早く聞いてロゼが王子に見初められるよう計画してたとかー? もしかしてそういう? そういうあれ?」
「それでロゼが本当の姿になっちゃったものだから、Jに話を持ちかけてうちに便乗しようとしたってこと?」
「今のロゼとエイミならねー。エイミのほうがまだ勝算あるもんね」
メアリー母さんのお眼鏡に叶うほどの美貌で、娼館で体を売るために連れてこられたのに、本当の姿になってしまった。だけど本当の姿、というのはどういうことなのか。みんなが持っているこの外見を本当の姿、と呼ぶのなら。
「ねえ、ケイナ。あのね、私もこれが本当の姿なのかな」
「エイミは違う。役所で戸籍を登録しなきゃ本当の姿にはならないのー。そもそも戸籍なんかないでしょー。人形なんだから」
それもそうだ。ケイナはいたずらにエイミの鼻をつまんでくるが、すっと納得した。戸籍があれば、本当の名前や住んでいる場所がわかれば、エイミだってこんなにモヤモヤせずにすんだ。自分はエイミと名付けられたお人形。今はこれが本当で、それ以上も以下もない。私はここに来るまで、どこにいてどこで生まれたんだろう。また答えの出ない渦の中に引き込まれそうになる。
「あとさ、ロゼと仲良くしないほうがいいよ」
小さな声が頭に届いた頃には、ケイナはすでに立ち上がっていて、エリザベスの近くにいた。朝ごはんの続きを食べよー、と彼女の肩を押してリビングへ戻っていった。
仲良くしないほうがいい。その言葉の威力は大きく、驚いたエイミの心がその場に置いてきぼりになった。奥からケイナやエリザベスの楽しそうな声が聞こえてくる。
一体どういうことだろう。さっきのケイナはいつものケイナと様子が違った。少なくともエイミの目にはロゼは嫌な子には見えなかった。ケイナを疑うわけではないが、あまりすっきりとしない。
とりあえず、早く立てるようになろうと思い、手すりを掴む。力を入れても上半身すら浮かせることができない現実に気が遠くなる。
「焦らなくても大丈夫」
頭上から声が降ってくる。顔を上げるとJがいた。屈んでエイミを軽々と持ち上げる。視界が高くなって足元のビーズがキラキラと虹色に光った。近い場所で目が合うと、深い色の瞳に吸い込まれそうになる。
「もし立てないままでも私がいるよ。どこにでも連れて行く」
「ありがとう。でもきっと歩けるようになるよ」
ᒍが足をマッサージしてくれたから、と言いそうになってやめた。さっき体をすみずみまで洗われたことを思い出して恥ずかしくなったからだ。そんなことは知らない彼は
「うん。きっとそうなる」
と、およそ軍事指揮官には見えないゆったりとした口調で笑った。黒い前髪が揺れて額にかかる。誰にでも親切なのだから、女の子たちが夢中になるのも無理はない。それに穏やかで、笑った顔がひだまりみたい。手も大きくて、抱き上げられても安心感がある。そんな彼がエイミに良くしてくれるのは、亡くなった友人からこのエイミという遺作を託されたから。お人形を必要な子が現れたら渡してほしいと頼まれたらしいが、そんな子は現れてほしくない。エイミが王子と知り合っても、知り合う前でも優しいᒍならその相手にエイミを躊躇なくあげてしまいそう。
なんとしてでも、無謀でも、5000ラブを手に入れないといけない。それをみんなが望むなら。役割があったほうがエイミ自身、ここに居ることに抵抗がなくなる。お世話になることに対し、申し訳ない気持ちにならなくて済む。
「あの、聞いてもいい?」
「もちろん」
「みんなが言う本当の姿ってなに?」
「そのままだよ。本当の自分。簡単に言うなら、君の心が君の顔になる」
「心が顔に……?」
「戸籍を登録してこの国と契約を結ぶと、良くも悪くもすべてが外見に出てしまうんだ」
「そ、それなら。それなら、もし私のことが少しでもわかったら。たとえば、本当の名前がわかったら、私も本当の自分になれるのかな? 何もかも思い出すことができる?」
自分が誰なのか。もしかしたらエイミというのはこの人形の名前で、本当の自分の名前ではなかったとしたら。それならこの人形の中にいる自分は一体誰なのか。この意識は、いうなれば命はどこから来たのか。それとも、初めから自分はエイミという人形として生まれてきたのか。わからない、何もかもが。私は、彼女は、一体何者なのか。
黙って話を聞いているJの顔を見てハッとする。一気にまくし立てて、まるで助けてとすがっているよう。心の中でたまっていた不安が一気に吹き出してしまった。過去を取り戻そうと必死になりすぎていた自分に気がついて心苦しくなる。言葉に影を落として俯いた。
「ごめんなさい。変なこと聞いちゃった」
「変じゃない。大丈夫」
「マイヤーソンさんのお人形はみんなおしゃべりした?」
「君だけだよ。動いたり話したりしたのは」
「それならゴーストって聞かれても仕方がないね」
「ごめん。もしかして気にしてた?」
「ううん」
首を横に振ってから下を見て、またᒍを見る。
「うそ。気にしてた。だってゴーストなんてひどい」
「悪かったよ。もうすぐアニバーサリーが近いんだ」
「アニバーサリー?」
聞いたことのない言葉だ。そういえばオペラもそんなことを言っていた気がする。まだアニバーサリーじゃない、と。
「ベリータの伝統行事。亡くなった人が戻ってくると言われている日でね。でも実際お祭りみたいなものだよ。花火が上がったり、ごちそうを食べたり。仮面舞踏会もある」
「マイヤーソンさんも戻ってくる?」
「そうかもしれないね。タルトタタンを焼かないと」
「マイヤーソンはいつ亡くなったの?」
「3年前の2月」
質問ばかりしてもJは嫌な顔ひとつしない。何をしたらこの人は怒るんだろう。どんなことに腹を立てるんだろう。まったく想像がつかない。
Jがエイミを抱えて一歩踏み出そうとしたそのとき、ドアを勢いよくノックする音が聞こえた。Jの顔が玄関の方に向く。
「ローラ! ローラはいる?!」
「誰かと思えば。アレックスじゃないか。久しぶりすぎてオープンが17時だってことも忘れたのかな」
店全体に響くはっきりとした声と共に入ってきたのは、立派な身なりの男の人だった。髪もきっちりと整えてある。手にはこれからは旅行にでも出かけるみたいな茶色い革のトランクを持って。
「身請けに来た。今度こそ彼女を解放してくれ」
「それは彼女次第。それにまだ支度中だよ」
「金も用意してきた。今ここで全額払う。頼むから。もうローラをこんなところで働かせたくない!!」
熱心な様子で男がこんなところのテーブルの上にトランクを置く。ぱちん、と留め具を外すと中にはぎっしりと紙幣が詰まっていた。
「きっちり1000ラブ入ってる」
「この前の2倍じゃないか。よく働いたね。大変だっただろう」
「1年海に出ていたんだ。高額で特別な荷物を運んだりね。責任のある仕事さ。わかるだろ。あれ、その子は? 新しい子?」
「この子は……」
ᒍが口を濁す。顔は笑っているが、エイミをどのように説明をしていいのか、迷っているのがわかった。エイミ自身も困った。はじめまして、記憶のないマイヤーソンのお人形です、とは言えない。ゴーストでは済まされない。そこへローラが顔を出した。眉毛もまつげもある、きゅっと跳ね上げたアイラインも引いてある。さっきとは顔のちがうフルメイクのローラだ。
「その子難民よ。戦争のショックで記憶がないの。それに歩けないし無表情。うちで預かってるだけだからちょっかいかけないでね」
「ローラ! 会いたかったよ! 船を降りてすぐに来たんだ」
「すぐにわかった、海の匂いたっぷりなんだもん」
ローラを見るなり男は顔を輝かせた。エイミのことなど、もうどうでもいいらしい。
助かった。それよりもいつからエイミは難民になったのか。ショックで歩けなくて無表情だなんて初めて聞いた設定だ。ローラの後ろ姿と、その華奢な手を愛しそうに握る男を見つめながら呆然とする。どういうこと、とᒍを見ると、彼がエイミの耳元で小さく囁いた。そういうことにしておこう。あまりの近さにどきりとして、頷くことしかできなかった。
「今日こそイエスと言ってくれ。この前の額の2倍働いてきた」
「私のためにここまでしてくれるなんて」
「毎日南十字星を見上げながらローラのことを考えていたんだ」
「私のこと一番に推してくれていたもんね、アレックス」
「そうだ」
「私の顔が好きなのね、アレックス」
「そうだ!」
「私と過ごす時間が好き?」
「もちろん! 人生で一番好きだ!!」
「そうなんだ。じゃあ、推しを従順で清楚なあなたの妻にしたいの?」
「………ッヒーー! こんな近くに君の顔が! 近い、近すぎる! やめてくれ、正気でいられなくなる!」
ローラに目をのぞき込まれたアレックスは声をひっくり返して叫び、顔を真っ赤にしている。手だって震えていてすでに正気には見えない。
「手紙も嬉しかった。今日帰ってくるって書いてあったから、1日空けてあるの」
「いっ、いちにち!? おれだけのために?!」
恥ずかしさを抱きしめるようにゆっくりとローラが首を縦に振る。上目遣いでアレックスだけを見つめるローラにエイミも目が離せなくなってしまった。頬に並んだほくろもとても魅力的だ。
「ふたりでしかできないこと、しよ? 正気じゃいられないようなこと。ね?」
推しからの、ね? のファンサにアレックスはとうとう声すら出せなくなったらしい。うん、うんと何度も頷いている。目にはうっすらと涙が浮かんでいた。なるほどこれがアイドル。しかもプロの。ローラの豹変ぶりに拍手しそうになった。
「17時にここで待ってる。約束」
「……約束!!」
ローラが紙幣の詰まったトランクを閉め、アレックスに渡す。彼は幸せを噛み締めた様子でそれを手に帰っていった。ドアに顔を向けたままのローラを見てᒍが声をかける。
「だから今日はお客を全部断っていたんだね」
「そうよ」
「よかったの? 彼は本気だよ」
「いい。私は誰のものにもならない」
振り返ったローラはどこか冷めた口元でさっぱりと言い放つ。頬のほくろの魔法はとけて、普通のほくろに見えた。1000ラブの価値をまだしっかり理解できていないエイミにも、アレックスが相当な覚悟を持って来たのだということがわかった。身請けしたい、と言われたら大体の女性は喜んで出ていくのではないだろうか。
「だけどあの香水はいい香りだった。この辺じゃ嗅いだことない。あとでどこのものか教えてもらお」
と、すれ違いざま独り言のようにローラは頬に手を当てて嬉しそうにしていた。いい香り? そこでエイミは疑問を抱いた。
「匂い、した?」
「したじゃない。少し重いけど爽やかできつくない香り。海みたいな」
ローラが立ち止まる。したでしょ、という顔をしている。そうだ。あたりまえのことだ。ものに匂いがあるのは。ここでやっとエイミは気がついた。美しさや鮮やかさの中にひとつ、大切なものが欠けていることに。
なんてことだ。自分の手のひらで顔半分を覆う。
「なんにもわからない」
どうしてすぐ嗅覚がないことに気がつかなかったのだろう。お風呂に入ったときもボディソープやシャンプーを使ったし、テーブルに美味しそうな食べ物が並んでいたときだって匂いを感じる機会は何度もあったはずなのに。石鹸のさっぱりとした清潔な香りも知っている。いちごのみずみずしく、思わず2度かいでしまうような甘い香りも。
まるで世界の一部がなくなってしまったようだ。以前ははっきりとあったはずの物の輪郭が、たちまちぼやけていく。
誰もいなくなったダイニングキッチンでひとり、エイミは椅子に座って外の景色を眺めていた。少し高い位置に大きな窓がある。雫のような形のレースカーテンが下がっていて、窓は開けっぱなし。時折風でカーテンが揺れた。夕方の甘ったるい風がエイミまで届く。外は通り道になっていた。人通りは少ない。道を挟んだ向こう側にも何やら店らしき建物がある。壁には一直線にタイルが貼られていた。赤と青、黄色のかわいらしい組み合わせ。窓は向かい合っていても中は見えないため、どんな店なのかはよくわからない。
星と月と太陽はもうすぐ仕事が始まるから、とボディクリームや香水をつけていたが、その匂いもエイミの造りものの鼻ではわからなかった。きっとうっとりするようないい香りがするはずだ。それから空腹感がまったくないことにも気がついた。食べ物を見て美味しそうとは思っても、それを口にしたいという欲求はない。
この体は本当に人形なのだと痛いほど実感する。球体が入った関節を目の当たりにしたときとはまた違う、絶望に近い落ち込み方をしている自分がいる。あたりまえのことが、あたりまえにない。強いショックを受けていることから、自分は元々人形ではなかったのかもしれない、とぼんやり思う。それなら一体何者なのだろう。ずっとこんなことばかり考えている。
店が開いたのか、アレックスの声が聞こえてきた。時計は5時ぴったり。他にも何人か知らない男性の声と、月、星、太陽の楽しそうな声も。彼女たちはこれからは男に抱かれる。それが仕事。明るい3人を見ていると、体を売ることは悪いことだと思えなかった。Jとオペラも店のエントランスホールにいるはずだ。どうやってこの5人は出会ったのだろう。そういえばこの店の名前をまだ知らない。みんなの笑い声が響いて、ドアの向こうに顔を向けた。
歩けないエイミだけがここに取り残されている。ずっとひとりでいたはずなのに、寂しいと感じてしまう。記憶がないというのは、なんてもどかしいのだろう。
すると、窓の前で誰かが立ち止まった。ふっくらとしたシルエット。女性だ。どこかで見たことがある。あの子だ。ロゼ。
「もしかしてロゼ? どうしたの?」
家の中から少しだけ声を大きくして呼びかけると、彼女がこちらを向いた。カーテンのせいで表情ははっきりと見えない。
「……エイミ?」
「そうだよ。何かあった?」
「ここを通るとたまにᒍが顔を出してくれるから……いるかと思って」
「ᒍは今お店の方に行ってる」
「もう17時か。うちもそろそろ開く時間だから帰らなきゃ」
「メアリーさんのお店?」
「そう。空いた部屋からシーツの交換をしたりするの。あのお店は部屋数が多いから朝までひっきりなしで」
「忙しいんだね」
「そういうこと。ねえ、エイミはどこ出身?」
みんながあたりまえに知っているであろうことを尋ねられ、胸が重くなる。ローラが適当に話していたことを思い出す。戦争のショックのせいで記憶がなくて無表情。そのうえ歩けない。
「覚えてないの。何も」
「覚えてない? どういうこと?」
「記憶がなんにもないから、何もかもわからなくて」
「それって記憶喪失ってやつ?」
「きっとそう」
「そんなふうに都合のいいことってあるのね」
「えッ?」
都合がいい? エイミは耳を疑った。今、ロゼは都合がいいと言ったのか。あまりに驚いてしまって、ロゼから目が離せない。
「あなた恵まれてる。何もかも」
言われたことが理解できず、頭の中が真っ白になる。すると突然ロゼ! と外から大きな声で彼女を呼びつける女性の声がした。棘のある口調で女性は続ける。
「そんなところでなにやってんの。あんたがᒍから相手にされるわけないでしょ、早く店に戻りな! 母さんに借金返せないよ」
「ほんと身の程知らず」
「誰もロゼを指名しないから一生雑用だね」
他にも誰かいたのか、何人かの笑い声が通りに響いた。ロゼは何も言わず窓枠の中からすっと消えた。思わず椅子に手をついて立ち上がる。自分の足が動かないことを思い出したのは、床に倒れてからだった。鈍く痛む上半身を起こすと女性が3人、いや4人通り過ぎていくのが見えた。そのうちのひとりがちらりとこちらを見たけれど、そのまま行ってしまった。カーテンがひらり、揺れた。
誰もいなくなった窓の外を見つめて動けなくなる。心ない言葉の数々。おそらくロゼを悪く言っていた彼女たちは、ロゼと同じ店で働いているんだろう。日頃からあのような暴言を浴びているのか。そんな環境にいたら、恵まれていると言われても当然だ。実際エイミは恵まれている。オペラには嫌われているけれど。床に落ちた自分の足元で靴のビーズがきらりと光る。この靴は元々ロゼのためのものだったのだ。
「5000ラブ! 何やってんだ」
物音が向こうまで届いたのか、オペラがやってきて後ろからエイミの体を引っ張り起こした。
「オペラ。今、ロゼが」
「ああ。またか。窓から見てたんだろ? あのストーカー女。朝も夜も構わず家の中をのぞきこみやがって。おい、膝が離れてるぞ」
うんざりとした様子のオペラに注意され、慌てて膝をくっつける。彼はエイミを椅子に座らせてエイミの手を取って眺めた。凛としたその目はまるで絵画についた傷を探すよう。表情に見入ってしまう。言葉はとにかく乱暴なのに、動作のひとつひとつから品性を感じる。彼がこっちを向いた。視線が合うとすぐにじろり、とにらんでくる。
「気をつけろ。もし壊れたりしたら誰もおまえを直せない」
「他に人形を作る人はいないの?」
「ベリータにはいない。オレの知る限りでは」
この体は取り扱いにも気をつけないといけないらしい。マイヤーソンがまだ生きていたらよかったのに。そうしたら自分のことが何かわかったはずだ。目を伏せるとオペラが息を吐き、優しい声を出した。
「いつも笑ってるいいじいさんだった。人形に関しては変態としか言えねーけど」
きっとオペラもマイヤーソンを好きだったに違いない。そんな良い人がどんな思いでこの体を作ったのか。オペラの口調が穏やかになってきたので、エイミはおずおずと話しかけた。
「あの、私の他にも人形があったんだよね」
「ああ。でもみんな空き巣に連れて行かれた。最近だと1年前オークションにかけられてたのが最後って話」
「オークション……」
「それも違法オークションだ。盗まれたものが集められる」
「そんなところがあるんだ」
「人間の欲の深さを覗き込むような場所だろうな。おまえも気をつけろよ5000ラブ。ここに生きたマイヤーソンの人形があるって知られたら、変態人形マニアのやつら、店を燃やすかもしれない」
「店を、燃やす?!」
「そこまでしてでも、おまえを手に入れたい人間がこの世にいるってことだ。金の毛皮のばあさんも言ってただろーが」
確かにそう言っていた。それだけマイヤーソンは優れた人形作家なのだろう。確かにこの体はぱっと見てすぐに人形に見えない。関節となっている球体はほとんど外からわからないような造りになっている。
意外にもオペラと普通に会話することができてエイミはほっとした。否定したり、怒鳴ったりするだけかと思ったがそうでもないらしい。
「人形作家マイヤーソンといえば生きている人形を作り出す幻の手、と言われるほどだ。ま、死んでからの話だけどな」
「そんなにすごい人だったんだ」
「その人形はもう売ってない、作られてない。誰もマイヤーソンの技術を受け継いでいない。だとしたら作品にどれくらいの価値がある? オレにもわからない」
オペラはテーブルの上に置いたままになっていたペンを持ち上げ、その後ダスターでテーブルを拭き始めた。品がある手の動きを追いながらエイミは考える。マイヤーソンが同じように作った人形たちは今どこでどうしているのだろう。オークションにかけられて、競り落とした人物の棚の中でおとなしく座っているのだろうか。
「あと、暇ならこれを読め」
どこから出してきたのか、ところどころしみで汚れくたびれた角の折れたノートをオペラが差し出してきた。マナーブック。オペラ作、と表紙に記してある。手書きで。まさかこれを書いたのは。
「マナーの指南書だ。全部暗記しろ。さすがに字は読めるだろ」
「……読める。オペラ作って。これ、オペラが書いたの?」
「世に出回っている中身の薄っぺらいマナーブックじゃ本物のレディには近づけない。これは門外不出だ。貸し出したりしないこと。いいな」
「わかった」
受け取ったとき、それが3冊あることに気づいた。表紙の下の方に1、と書いてある。ページをめくると細かい字が並んでいた。それもおそろしく達筆。なんて長編だ。読めたとしても頭に入れて実践までできるだろうか。エイミは戦々恐々としてオペラを見上げた。
「明日1冊目の内容をテストをするからそのつもりで」
「えッ」
「座ってるだけなんだからできるだろーが。読むだけだ」
ニヤリと笑い、オペラはまたお店の方へ戻っていった。ピンと伸びた雰囲気のある背中は美しい悪魔のように見える。もっとにっこり笑ったらいいのに。そしたら天使のようになれるのに。と、エイミは残念に思いながら、パラパラとノートをめくった。すべてのページにぎっしり詰め込まれた文字。気が重くなる。これを明日までなんて無理だ。しかしこれをクリアしなければ、玉の輿を狙い、王子のまわりをうろつく女の子たちと同じ土俵に立てない。それどころか、人形だというハンデだってある。きっと人間ではないことは黙っていたほうがいい。ローラもアレックスにはエイミを難民だと話していた。人形マニアもこの体を探していると聞くし、人間のふりをするのが得策だろう。それにはこの指や膝、肘などについた関節球を完璧に隠す必要がある。気を取り直し、第一章、淑女とは。の項目を読み進める。
凛として、気品を保ち、唯一無二の風格を持って強くあるべし。
それってどんな人だろう。バラのように1輪で咲き誇り、まだ誰も見つけたことのない宝石のように光り輝いている。近くに見本となる人がいてくれたらもっと淑女に近づける気がする。けれど、自分はこの人を知っている気がした。凛として気品がある、唯一無二の風格を持った人。
オペラだ。エイミはノートから顔を上げる。これを書いた本人だ。オペラは男性だが、彼の動きを真似したら淑女に近づけるかもしれない。
よし。伸びをしながら背を椅子の背もたれに預ける。すると、椅子が動いた。脚にキャスターがついていたのだ。これなら自分一人で移動できる。テーブルの縁を掴み、前へ進む。難なく動けた。これはいい。テーブルから勢いをつけて壁を伝い、およそレディはしないであろう動きで扉まで進む。やっとの思いでドアノブを開けた。ガチャリ。照明で照らされたエントランスホールには星と月と太陽はすでにおらず、Jとオペラ、それともうひとり男性が立っていた。3人の視線を一斉に集めてしまい、エイミは固まった。注目されるのは苦手だ。
「この子は新しい子? やけに若いな。いくつ? 名前は?」
語尾にすべてはてなマークをつけて質問攻めにしてくる。男性はアレックスやᒍよりも年上に見えた。生真面目そうな面持ちでどこかの制服のような青い衣服を身につけている。キャスター付きの椅子に乗って現れたエイミの顔を青い帽子の下からじっと見つめてきた。嘘を許さない光が目の奥に宿っている。
「預かっているんです。戦災孤児で」
ᒍはすでに難民という設定を忘れたらしく、エイミを戦災孤児にしてしまった。そのどちらでもない人形はさらに困った。嘘に合わせなくてはいけない。エイミが焦っていると、ᒍの後ろからオペラが口の形だけでしゃべるなと伝えてきた。
「こんな子が戦災孤児だなんて。気の毒に。引き取りたいくらいだ。うちなら教育も受けさせてやれる」
「ありがたいお申し出ですが、とにかく繊細な子でして」
「それはそうだ。君、きっと大変な思いをしてきたんだろう? 生まれは?」
「すみません。ショックでまだ話せない状態なんです」
「そうか……」
代わりに答えたᒍの返事を受け、男は憐れむように見つめてきた。エイミはくちびるをぎゅっとしばる。言葉を発して、嘘がばれてしまわないように。
「いずれはここで働かせるのか?」
「その予定はありません」
「そうだな。それがいい。職を見つけてやることだ。何かできることがあれば連絡をくれ」
ぽん、とエイミの肩を叩くと青い制服の男はすぐに出ていった。ぱたんとドアが閉まってから少したったあと。
「………おいィィ! 5000ラブ! どういうつもりだ!! こんなときに出てきやがって!! しかも椅子で!!」
オペラがあまりにも大きな声で叫んだので、エイミは驚きすぎて椅子からおっこちそうになった。さすがにこの言葉遣いは淑女にふさわしくない。。
「オペラ。上まで聞こえるよ」
「ᒍ、おまえもおまえだ。戦災孤児?! 難民って話だっただろ! 一度決めた設定を変えるな!」
「そうだったっけ」
「そうだ!」
「いろんな情報を拡散させたほうが有利なんだよ」
「……ここはもう戦場じゃない」
おそらく冗談で言ったᒍの言葉にオペラがぐっと息を飲み込んだのがわかった。そのままエイミの横を通り過ぎ、リビングダイニングに入っていく。張り詰めたようなぴりりとした空気を感じ、戸惑っているとᒍがエイミの座っていた椅子の背もたれに触れた。
「今のは警察官。この前マイヤーソンのところに入った空き巣の件でうちに寄ってくれたんだ。彼は真面目だから」
「ᒍが私を見つけてくれた日?」
「そう。何か知っている?」
あの日。あの日は誰かが入ってきた。複数人の足音が上から聞こえ、エイミは暗闇の中でじっとしていた。見つかりたくないと思ったのだ。それから彼らはどんな話をしていただろう。ぬるい水の中に手を突っ込むようにして記憶を探す。空気の泡の中でざぶざぶ、ぶくぶくと音を立てる。
「男の人の声がした。二人。何かを話していて。あれは、あれは……俺のための人形だって」
「そう言っていたの?」
「うん」
君を探していたんだ。とは言わなかったがᒍがそう思っているのがわかった。確かに彼らは人形のためなら店も燃やしそうな勢いだった。彼らはマイヤーソンの人形を探している。きっと今も。ぞっとして産毛のない腕を擦った。
「大丈夫だよ。それより椅子で移動しようなんてよく思いついたね」
「さっきオペラが座らせてくれたの」
「なるほど。テストをするって言ってたけど」
「うん。オペラが書いたマナーブックを渡されて」
「あれはすごいね。覚えたらどこに行っても恥ずかしくないレディになれる」
「オペラはどうしてマナーに詳しいの?」
「本当はプリンセスだったりして」
「プリンセス」
ᒍの冗談にエイミは笑った。心の中で。お人形は無表情なので笑うことができない。オペラは男性なのにプリンセスと言われても違和感がないのがよけいにおもしろかった。本人がいたら怒鳴りつけるように否定するだろうが。きれいな言葉さえ使ったら、オペラは完璧にプリンセスだ。
ᒍが椅子を押してエイミをエントランスホールに置いてあるテーブルのそばまで連れて行った。そこには大輪の花束が置いてあった。ピンクのリボンが巻いてある。どれも美しく咲き誇り、我先にと華やかさを訴えかけて競っているよう。
「この前も少し話したけど私達は身寄りがなくて。ここは戦争ですべてをなくした人間の集まりなんだ。捕虜だったり、家族をなくしたり。当時のベリータは難民の受け入れをしていたから。今はもう規制されていてすぐには受け入れてもらえないんだけど」
だからローラもエイミを難民だと言ったのか。戦争がみんなの生活や人生の中に影を色濃く落としていることが、ᒍの噛み締めたような顔つきからも伺えた。戦火を経験しているのだ。この黒い瞳は残酷さも無慈悲さもすべて見てきたのだろう。
「終戦のすぐあとにオペラと出会ってね。私がいた軍の制服を着ていたよ。知っているのはそれだけ。オペラは過去のことをあまり話したがらない。私も知らないよ」
オペラもきっと何か大変な経験をしてきたのだ。オペラだけじゃない。ローラもケイナもエリザベスも。昔のことを聞くのはやめたほうが良さそうだ。わざわざ思い出させて、人の心の傷口をえぐるようなまねはしたくない。
「さてここで問題です。レディが外出する際の必須アイテムとは」
「えっ、突然? まだルールブック全部読んでないよ」
「じゃあ調べておいて。序盤に書いてあるから」
「わかった」
「けど、ノートに書いていないエイミが必要なものがひとつある」
「えっ、なんだろう、待って。そうだな、えっと……難民で戦災孤児っていう設定を忘れない!」
「はずれ」
「違うの」
なんだろう。日傘とか。首を傾けて考えているとᒍが笑った。
「正解は私。ひとりで出かけてはいけないよ」
エイミが座っていた椅子をぐるりと回転させると、ᒍはまたダイニングキッチンの方に向かってエイミを押していく。顔には絶対に出ていないだろうけれど、嬉しくて仕方がなかった。頼っていいと言われたようで。前を向いたまま恥ずかしさと嬉しさを半分ずつ噛みしめる。
彼は本当に優しい。もし戦争で苦しい思いをしてきたなら、これからはその何倍も幸せになってほしい。もし自分がしてきたことを許せないなら、黙って隣にいたい。こんなに親切な人に見つけてもらえてよかった。絶対に恩返しをしよう。そう心に決めて、エイミは膝と膝をしっかりと合わせ、足を閉じた。




