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第1話

ヴァルモン公爵家のガラス張りの温室には、沈丁花の香りが立ち込めていた。甘い香りが、息をするたびに喉の奥にまとわりつく。

迎えに来た侍女が先導し、従僕が扉を開ける。凍るような寒さだった廊下から、入った温室の中はぬるい。部屋の入り口でコートを侍女にあずけ、ドレスを整えられた。白く曇ったガラスを通った、柔らかい陽光の差し込む温室の奥へと歩みを進める。

開けたところには、すでに義母がソファでくつろいでいる。そばには義母に仕えるメイドたちと護衛騎士たちが控えている。

呼び出されて、急いで来たものの、義母上が先に到着されていた。

「義母上、遅れて申し訳ございません。」

リュシアは美しく頭を垂れる。練習した角度を誤ると、後で教師へ連絡がいく。

「・・・・・・よろしくてよ。」

義母との関係は悪くない。ただ、親しいわけではないというだけだ。

義母上への謝罪を終え、頭を上げるときに、扉に控えていた従僕が再度扉を開いた。その音がガラスを軋ませるような音として反響する。この温室は音が響く。

「ロズナン侯爵令息様がお見えになられました。」

執事が告げる。大きな声ではないが、中までくっきりと聞こえた。


「公爵夫人、本日はお招きにあずかり恐れ入ります。不行き届きのないよう努めますので、何卒よろしくお願い申し上げます。」

侯爵令息は、その長身を無駄のない動きで義母上に傾けた。濃茶の髪が揺れ、あげられた瞳には夫人だけが映っている。彼の礼をする角度も、間も、声の高さも、すべてが整っている。でも、彼が学院で婚約者と仲睦まじく過ごす姿を目にしていた。なんとも近づきがたい。


「ご丁寧に。」

義母上の微笑みは、いつも完璧だ。


そこからは夫人の講義を聞くかのような茶会が始まる。

メイドがティーポットを押さえる時の小さな音でさえこちらの耳に届く。

夫人との茶会の話題はいつも同じである。季節や慈善、礼拝、王妃様の好みである。そこに侯爵令息が加わったとしても、何も変化はなかった。


侯爵令息と私の婚約は、昨年の終わりに急遽決まった。彼には仲睦まじい婚約者がいたが、その方は王太子の側室として入内することになった。王家の都合で崩れた縁の、後始末として私との縁が結ばれた・・・・・・社交界はそう言うだろう。

 

「来月の王妃様のお茶会には、あなた方も招待されているけど、どうなさる?」

義母上が、紅茶の表面を見つめながら聞く。問いかけの形をとっているけれど、期待される答えを待っているだけだ。

「はい、侯爵家にも話は届いております。差し支えなければ、当日のご装いはロズナン家よりお整えし、衣装をお届け申し上げたく存じますが、いかがいたしましょう。」

侯爵令息は言葉を選びながら、義母の期待する答えをなぞるようにふるまう。彼は上手い。

「……ご丁寧なこと。リュシアも、さぞ心強いでしょうね。」

義母の声は柔らかく、慈母のようだ。義母上が実子たちを見ているときの本当の笑みと変わらない。

「……恐れ入ります。……わたくしには、過ぎたことです。」

「まあ、そんなふうに言わないで。あなたはただ、務めを果たせばいいのよ。」


リュシアは紅茶を見つめた。

ふと視線を上げると、目が合った。

同時にほんの少しだけ口角が上がる。

それは一瞬で、次の瞬間には二人は視線を落とし、表情を整えなおした。


紅茶の香りを消すほどにけぶる、沈丁花の香りが、呼吸をも押し込めるようだった。


「奥様、そろそろお時間でございます。」

時計を見ていた侍従が声をかけてきた。終わりの合図だ。

「そう、では今日はここまでですわね。」

夫人が席を立つのに合わせて、二人は立ち上がる。

「公爵夫人、本日はありがとうございました。リュシア嬢も、本日はお目にかかれて光栄でした。恐れ入りますが、衣装の件で令嬢と打ち合わせをしたいと存じますが。」

「それでしたら、リュシアの衣装をすべて手掛けている侍女の方が適任だわ。リュシアも信頼している侍女ですからご安心ください。」

「ご高配、ありがとう存じます。リュシア嬢、」

「玄関までお送りいたしますわ。・・・・・・そうそう、リュシア、あなたはお父様のお部屋のお花をそろえて差し上げてくださらない?」

「はい、かしこまりました。」

義母上の本音はわかっている。侯爵令息と私が親しくなること、ひいては私の幸せを望んでいないのだ。

目を伏せながら、深く礼を取ると、すぐに背を向けた。


温室の更に奥へと入っていく。父上の好きな百合が、年間を通して特別区画で栽培されている。そこで一本手折ってそれに季節の花や美しい葉を合わせて活けるのだ。

ガラスの向こうに薪小屋があり、少年のような小さな影が見えた。ジュリアン、名前がのどまで上がってきて止まる。

次の瞬間にはメイドが視線の先に歩み出て見えなくなった。


7歳の頃に、母はいなくなった。私は魔道具で父上の実子と判定されたが、弟はそうではなかった。

気が付いてはいけない。言葉にすることは赦されない。あの子を守れなくなってしまうだろう。


「これでいいわ。運んでちょうだい。」

「はい、お嬢様。」

父の花を選び終えると、護衛騎士に花瓶を持たせて父上の執務室の隣のサロンへと行く。扉前の従僕と侍女が言葉を交わし、従僕が中へと入り出てくると入室が許可されたらしい。侍女が丁寧に扉を開けてくれた。


部屋には誰もいなかった。執務室へ続く扉は閉じられたままだ。私は白百合を整え、クリスマスローズとユーカリの葉を添える。

「これを片付けて頂戴。」

切り落とした葉や茎を小さくまとめると、侍女は持ってきていたかごにそれを入れた。

「部屋へ戻ります。」


侍女がかごを持ち、もう一人が私の衣装を整える。その導きに従って扉へ向かうと、先ほどの従僕が絶妙なタイミングで扉を開けた。3人で出ると後ろで扉が閉められるのが聞こえた。


廊下は寒い。部屋へと向かう。家族の居室は東側に集められているが、私には西の翼に立派な居室が与えられている。侍女は3名つけられている。15歳で学院へ入るまでは家庭教師もつけられ、公爵令嬢として十分に扱われている。


廊下から外を見ると、寒い中、義弟たちが遊んでいるのが見えた。10歳のロベルトと8歳のテオドールは義母がこの屋敷に来てから生んだ子供たちだ。


部屋に戻ると、花かごをもった侍女ヒルダは片付けへ行き、もう一人のビアンカが衣装を整えてくれた。部屋着に着替えるとビアンカは礼をして部屋を出て行った。それと入れ替わりに、マーサが入ってきてお茶を入れてくれる。


「しばらく一人で過ごすわ。」

「さようでございますか。では、何かございましたらすぐにお呼びください。隣の部屋に控えております。」


一人になるとほっと一息はいた。


ロズナン侯爵令息とは、学院で同級である。授業の関係で、言葉を交わしたこともあるが、親切な人という以外は、婚約者を大切になさる方という印象が強かった。伯爵令嬢の大層お美しいヘレン様と二人並ぶとなんとも華やかだった。幼いころからの婚約者同士だと聞いていたので、その仲睦まじさは折り紙付きだった。


1年生の半ば頃から、いつの間にかヘレン様は1才上級の王太子殿下に侍る様子が見られるようになった。そして、王太子様が卒業されると、側室として入内された。現在はご懐妊中だと聞いている。王太子妃さまがまだお一人もご出産なさっていないのにと、貴族たちは口さがなく噂している。


令息は一体、どんな風に思われているのだろうかと思う。ヘレン様もそうだし、私についても。今回の政略結婚についてはご納得いただいている様子だとは思ったけど。


指がティースプーンに触れたのか、カチャリという音をたててふと我に返った。紅茶を一口含む。熱くなくてちょうどいい温度になっていた。


「ジュリアン・・・・・・」

可愛かった。一瞬だが、ちゃんと見えたのだ。元気そうだった。今年、13歳になるはずだ。


生まれたときは、壊れそうなほどに小さくて柔らかくて。たくさん抱きしめて、愛していると伝えて、キスをした。父はほとんど不在だったけど、母と弟と本当に仲の良い親子で幸せだった。弟は庭師に預けられたと乳母のクララが言っていた。


クララは私を膝にのせて抱きしめてから、目を見つめて言った。

「公爵様はジュリアン様を目障りに感じられています。絶対に話題にしてはいけません。どこにいるかも知っていることは知られてはいけません。それが、ジュリアン様を守る唯一の方法です。いいですね。」


クララはいつの間にか来なくなり、それについても誰も説明には来なかった。7歳のリュシアには聞く勇気がなかった。クララが去る直前まで繰り返し言っていたように、何も聞かず、何も言わず、与えられる境遇に感謝することにした。


考えても、答えは出ない。私は命じられたまま、動くしかない。今は、侯爵令息と仲の良いふりをしつつ、幸せになることは望まれていないのだ。公爵の望みのままにふるまわねば、弟に危害が加えられるのではないかといつも不安になる。カップの底に沈んだ茶葉を見つめながらそう思った。


「お嬢様。」

隣の部屋からマーサの声が聞こえた。


「どうぞ。」

「失礼いたします。侯爵家より採寸をと使いの方がお見えになっております。いかがなさいますか。」

「いくわ。」


衣裳部屋へ行くと、仕立て屋と私の衣装担当の侍女グレイスがいた。彼女にかかると、地味で目立たず、体のすべてを覆いつくすドレスが出来上がる。まぁ、品位があると言えばそうなので、嫌ではないが、他の令嬢が身に着けている流行のかわいらしいふわふわした衣装を着てみたいとも思ったこともある。


侯爵令息様からの言伝やカードの類は無いようだった。

でも、ドレスを作ってくれるというのは婚約者への正しい扱いである。婚約者として扱ってくれるようなので安心した。私たちの間に愛などなくても結婚は時期が来たら成立するのだ。


侯爵令息様の瞳の色に合わせた、淡いブルーで衣装が整えられるということなので、アクセサリーは小さなダイヤや真珠でそろえることになり、宝飾品を確認してから仕立て屋は帰っていった。


「お嬢様、そろそろお食事の時間ですが。」

「ビアンカ、わかったわ、用意させて。」

「はい。」


マーサと部屋に戻り、晩餐のための着替えをした。

「準備が整ったとのことでございます。」

「行くわ。」


ビアンカの先導で、隣室へと行く。そこには、いつものように一人分の立派な晩餐が準備されていた。

前菜をつまむと、次に暖かいスープが出てくる。そして、魚料理、果物を食べてから小さな焼き菓子と紅茶をいただく。


学校に通い始めてから、私の待遇は公爵令嬢として十分だと知った。

ただ、家族の誰にも愛されていないということくらいは、子供でも分かるものである。

親切な侍女や家庭教師に囲まれて育ったので、不幸ではないと思う。クララが言っていた通り、感謝すべきなのだろう。


紅茶を飲み切ると、使用人たちが静かに動き出す。私もそのリズムに合わせてちゃんと食事を終わりにする。


ビアンカが先導して部屋に戻ると、ヒルダとマーサが湯の支度をしてくれていた。

お風呂に入るとさっぱりする。ヒルダに手伝われて入浴を済ませると、ビアンカが寝間着を着つけてくれる。部屋に戻ると暖炉の薪を調整してくれていたマーサがこちらを振り向いた。


「鼻が黒くなっているわよ。」

「まぁ、もうしわけございません。」

「お茶は自分で入れるわ。マーサは一度おさがりなさい。」


炭かごを片付けてからマーサは恥ずかしそうに部屋を出ていった。

お茶を自分で入れて、ソファに腰を掛ける。


明日は学院へ行く日だ。

家で家族に会うことはないが、学院では会う。義母は父と愛人関係を長年続けており、再婚したときにはじめて知ったが、3か月年上の同級の義姉のシャロンと義妹のオデットがいた。


寝る前に、ベッドに座り、手を合わせて祈る。

女神エイル様、今日もともにいてくださりありがとうございます。あの子のいる場所にも、あなたの静けさがありますように。そのまましばらく静けさに身をゆだねる。


そういえば、クララはよく言っていた。言葉に出せない願いほど、女神様はよくお聞きになるんだと。

私は何を願っているのだろう。


ベッドの横のベルを鳴らすとマーサが入ってきた。

「寝るわ。」


マーサはカーテンを引いたり、明かりを落としたりと寝所の支度をして、最後に暖炉をもう一度覗いた。

「ごゆっくりお休みくださいませ、失礼いたします。」

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