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魅力度ゼロ

掲載日:2025/10/22

「あんた、今のところ魅力度ゼロじゃ。このまま何もせんかったら、魅力ゼロのまま棺桶(かんおけ)に入ることになるだけやね。さあ、どうするね、今ならまだ60%は負けてやるよ。そいつを手に入れれば、そんなお前さんだって、華がついて一人前くらいには見えるさ。なに? きっとなにか裏があるにちがいねえってか? ふふん、あんさん、顔に似合わず人を疑う癖があるようだね。ふん。こんなジジイが詐欺の真似事なんかしてなんてと思ってるんじゃなかろうね? まあ、いいやがね。さあ、買いなさい。これを。」


 差し出した手には一つの眼鏡があった。


「いや…眼鏡は間に合ってます。それに私、かなり目、悪いので、合わないと思います。」


「つけてみな」


 ジジイは茶色の丸い眼鏡を私の手に無理やり持たせた。しぶしぶ自分の眼鏡を取って、それをつけてみる。視界は鮮明に見えた。でも、見えすぎて疲れるわけじゃない。言ってみれば、ちょうど良い感じ。むしろ、めっちゃ良いじゃんレベルだった。


「さあ、鏡みてみ。」


 ジジイはステンドグラスっぽい猫の絵が描かれた手鏡をくれた。こんな趣味あるんだ。鏡越しの自分。まあまあ似合ってるか……。


「よしよし。それをいつもつけてろ。」


「いつもって……。寝てるときとか、顔を洗うときとかははずして良いんですよね?」


「当たり前だ。普通の眼鏡なんだから。」


「普通の? だったらこんな高いのおかしいですよね?」


「眼鏡自体はシンプルだが、かけると、その効果は絶大なんじゃ。お前さんの魅力度がぐんと上がるから。」


「私の眼鏡とフォルム似てるし、てか、おんなじじゃないですか。」


「ふん、素人はこれだからダメだねー。まあ、ここは賢人の言うことを聞いときなさいよ。」


「ふ~ん……」


「まっ、これはわしの名刺じゃ、持っておきなさいよ。」



 私はその日から、もらった眼鏡をかけて生活することにした。


第一日目。とくに変化無し。ほんとに効くのかな……。でもなんとなく期待もある。


第二日目。とくに変化無し。そんなに早く効果でないか……。


第三日目。変化無し。やっぱり詐欺だったんじゃないか。


第四日目。絶対詐欺だ。警察に通報するべきか……。


第五日目。あのジジイ、みすぼらしい格好してたな。ホームレスかな。生活苦で、仕方なく詐偽やったのかな……。


第六日目。やっぱり、警察に話してみようかな。


 私はついに六日目の朝、決心をして近所の交番に行った。

「こんにちはー。すみません、どなたかいませんか~?」


 返答ない。無人交番って大丈夫? いぶかりながら、私はなおも、声をだし続けた。


「すみませーん! 私、詐偽にあったみたいなんですー!」


 しーん……。


 こりゃ、だめだな……。仕方ない、遠いけど市街の警察署に行ってみるかな。そう思った時、奥の部屋のドアが開いて警察官が一人出てきた。


「やれやれ。誰かと思えば、お前さんかえ。人を詐欺師呼ばわりして、なんと無礼な。わしは詐偽などしておらん。お前さんのためを思って、あの特別な眼鏡をやったんだ。それも、60%引きの超特別価格でな。」


 目の前にいたのは、あのジジイだ。しかも警察官の制服を着ているではないか……!


「あんた……、なんでここに…!?」


「失敬な。わしは長年の警察官じゃぞ。あまり無礼を働くと、公務執行妨害でお前さんを逮捕せにゃならんな。それでもいいのかな?」


「……。」


 私はよたよたしながら交番を後にした。


 なんだよ、これ……。


 私は暗くてじめじめした、ハイツの1階奥の部屋まで帰ってきて、ベッドに身を投げ出すと、

「あーーあーー!きつすぎーーー!」と叫んだ。


 すぐに、壁がだんだん叩かれた。隣の人は夜勤で眠いのだろう……。


 私は悔しくて悔しくて、お昼は塩ラーメンを食べに少し遠出して、人気の店へ行った。しかし、ちょうどお昼時で、店の外に長い行列ができていた。あと2時間待ちらしい。私は諦めることにした。そういえば、この近くにおいしいパン屋があった。そこへ行ってみよう。行ってみたが、ちょうど売り切れ。


 帰りの道で、車の事故かなんかで交通渋滞にあい、だいぶ遅くに家に着いた。


 疲れた……しんど……。


 きっと、もう何をしても私は駄目なんだ。次から次へと嫌なことが起こる……。こんな眼鏡なんかなんの意味もない。捨ててしまおう。


 明日がごみの日であることに気づいて、眼鏡をゴミ箱に投げ入れた。そして、眠った――。



 次の日、私は明るい部屋で目を覚ました。太陽がさんさんと窓から差し込んでいる。カーテンがゆらゆらと優しい風になびいて、爽やかな空気が部屋いっぱいに入ってきた。


「おはよう。起きた? 朝食できたよ。顔を洗っておいで。一緒に食べよう。」


 テーブルには美味しそうな目玉焼きとウインナー、コーンポタージュと、味噌汁、おしゃれな小鉢に盛り付けられたサラダがあった。


「……?」


 目の前でにっこり笑う、このイケメンの人は誰……? いつ入ったのかな……? というか、不法侵入じゃない? 警察に通報したほうがいい?


 私は警察のことを考えると、つい、あのジジイの顔が浮かんでしまう。


 ああ、いやだ。


「どうしたの? ご飯冷めちゃうよ。」


「……ああ、ごめん、今すぐ洗ってくる」


 顔を洗いながら、これからの対応を考えていた。何度もごしごし顔を洗っていると、奥から

「ねえ、まあだ?」と、顔をだしてきた。洗面所の窓から入った光は、彼の顔を美しく(いろど)った。


 鼻筋の通った形のいい鼻。パチリとした潤いに満ちた目。無造作だけど真っ黒で緩やかなカーブの長めの髪。細身の長身。私を見下ろすその大きな瞳に前髪が少しかかる。それをかきあげるしぐさ……。


 私はだらしなく、ぼおっと見つめてしまっていた。


「……なに? どうした? おでこに泡ついてるよ。」


 彼は顔を近づけてきた。


「美容には洗顔が一番大事なんだから、よーく泡を落として。ほら、僕が落としてあげるから。目をつむって下向いて。」


 言われるがままに、私は彼に顔を洗われていた。


「ぷふぁーー!」


「ハハハ。そんなに息を止めなくてもいいのに。僕、優しかったでしょ?」


 うなずく私。彼はふわふわでいい匂いのする洗い立てのタオルをくれた。


「さっ、一緒にご飯食べよう。」


 食事は最高においしかった。私が作ってきた今までの料理、なんだったんだろうと思った。


「なみちゃん、おいしそうに食べるね。作ったかいがあったよ。」


「……あの、あなたは、誰ですか?」


 私は食後の緑茶をごくりと飲み干して言った。


「僕? もう分かってるのかと思ってたよ。」


「……? 知らない」


「そうか。僕は成瀬匠刃(なるせしょうや)。まだ分からない?」


「成瀬匠刃?……わからない。」


「そうか、そうか。……じゃあ、今日から僕の恋人になってくれる?」


「……へっ?!」


 彼は人懐っこそうな顔をして笑う。


「悪くないんじゃない? 僕がご飯とか作るからさ。家のこと、なんでもやるよ。」


「でも、それで、あなたにはなんのメリットがあるの?」


「メリット? 僕は君の恋人であるということかな。でも、そもそも、恋愛に損得なんてあるのかな?」


「あるよ。私なんかと付き合ったって、……なんの意味もない…よ。地味だし、頭悪いし……なんなら、私めちゃくちゃに不運な女なんだから。」


「不運?」


「そう。私がやること全て、裏目にでてね、負のスパイラルに陥っちゃうの。」


「今までずっとそんな風に思っていたんだね。」


「……う、うん」


「かわいそうに。こっちへきてごらん。抱き締めてあげよう。」


「……えっ?いいよ、別に。気にしてないから。」


 彼の方から近づいて、私を抱き締めた。それは大きくて温かくて、心を包み込むような安心感があった。


「…あ、ありがとう。」


「もう、いいの?」


「うん…。」


「そうか、じゃあ今日はどこにいく? 天気もいいことだし、海にでも行く?」


「……海? だって、今日月曜日……仕事! 今何時だっけ? 」


「10時半」


「ええっ!! 完全に遅刻じゃん!! どうしよう。とにかく、連絡して、早く行かなきゃ!」


「そんな必要はないよ。今日は、『なみちゃんの特別休暇』だから。お仕事はもともとない日だよ。」


「え? なんだって? そんなはずはないよ。」


 私は急いで職場に電話した。


濱崎(はまさき)さん? どうしたの? 今日、有給とってるよね? 『なみちゃん特別休暇』。なにか、至急の話し?」


「……いえ、大丈夫です。すみません。」


「ううん。それなら。はーい。」


『なみちゃん特別休暇』って言ってたし。


「ね、言ったでしょ?」


「これって……あなたが職場に電話したの?」


「なんのこと? 電話なんか、なにもしてないよ。それと、僕のこと匠矢って呼んでほしいな。そのほうが、ずっと恋人って感じがするじゃん。」


「……わかった。」


 私は納得していなかった。なぜ彼が私の家に来て、職場に有休なんか取るようにさせたのか。


「匠矢…さん。……ちょっと、私、外へ出てくる。」


「なに? 散歩? 僕も行くよ。」


「ううん。ちょっとだけ一人になりたいの。」


「……そうか。わかった。」


 外はいつもより、キラキラしてみえた。木も花も建物も、歩く人達も生き生きしてみえた。いつもなら、歩く人たちはぷすぷす怒りを抱えて歩いているように思えた。すれ違いざまに、「ばか野郎」と捨て台詞を吐く人もいたし、歩きスマホの人とぶつかりそうになって「ちぇっ」と舌打ちされたりもした。


 建物だって、バスだって、自転車だって、いつも私を嫌っているようだった。バス停にたどり着いた所で出発してしまったり、自転車はよくパンクして、長い通勤距離を押しながら帰ることも頻繁だった。建物だって……なんか、私をからかってるし、それに…木だって…そう、ひどい花粉症で毎年辛いし。


 公園のベンチに腰掛けた。滑り台や砂場で遊ぶ子供たちの姿があった。犬を連れて散歩させている人もいる。太陽の反射光を浴びて、車が星のように(きら)めいて行き過ぎる。日常がこんなに綺麗に見えたのは初めてだった。お腹もちょうど良い感じの満足感で、体さえもが心地よいと感じているように思えた。


「お帰り。大丈夫?」


 彼は少し心配そうな顔をして玄関まで来た。


「うん。外、とても気持ちよかった。」


「よかった。やっと笑顔になったね。なみちゃん、笑うともっとかわいくなるんだね。そうだ、これからドライブにでも行かない?」


「ドライブ?」


 彼は私に、準備だけしてここで待っててと言った。デート用の服なんてない。


 服が入っているボックスを開ける。

……???


 いつもの地味な服がなくなっていたのだ。普段、黒やグレーのような色の服しか着ないのだが、ピンクや黄色のファンシーな服がたくさんあった。ひらひら、ふわふわのおしゃれでかわいいものから、ボーイッシュのかっこいい感じの服まであった。これも、彼がやったのかな……。でもこれらをどう組み合わせたら良いものだろうか。悩みに悩んだ挙げ句、ふわりとした水色のトップスにデニムを合わせた。これならいいか。


「なみちゃん? 準備できた? 」


 彼はわたしの格好を見ると、

「うん、うん。やっぱり、かわいいね。」とうなずいた。


「こんなかわいい服、匠矢がもってきたの?」


「そうだよ。でも、大切なのは服じゃないよ。なみちゃんがかわいいんだってことだよ。」


「……私、かわいくなんかないよ」


 彼は私を後ろから抱き締めた。


「そんなこといっちゃ駄目だよ。自分のことをそんな風にいっちゃ……。僕も悲しくなるよ。」


「……ごめん、わたしの癖なの。」


 彼は顔を近づけて笑った。彼の前髪がさらっとわたしの鼻に触る。


「じゃあこうしよう。少なくとも僕の前では、自分のことを悪く言わないって。ねっ? できるでしょ?」


「……うん。」


 彼は私の手を優しくつかんで、言った。

「行こう。」と。


 

 ハイツの前には一台のSUVが停まっていた。


「あれ、匠矢の車?」

「そうだよ。」


 彼は助手席のドアを開けてくれた。


「シートベルトしたね。じゃあ素敵なところにレッツゴー!」


 車は街を過ぎ、高速に乗ってすいすいと走っていた。

「窓、少し開けてもいい?」と彼。

「うん」と私。


 窓から気持ちのよい風が顔を優しく()でて過ぎ去っていった。遠くの家や山がよく見えた。


 ちょっと喉乾いたな……。なんか持ってくるんだった。


 そう思った時、彼が

「喉乾かない? そのバッグ開けてみて。水筒があるよ。」と言った。


 青色のバッグを開けると、水筒が2つあった。


「ありがとう。……匠矢も飲む?」

「うん、今は危ないから、高速降りたら飲むよ。」


 冷たい麦茶。なんて準備がいいのだろう。


 車は高速を降りた。道を進んでいくと、かすかに潮の香りがした。


「海が近くなってきたね。」

 彼はぽつりと言った。



 目の前が開けた。まっすぐに伸びた水平線。ピカピカ輝く海が広がっていた。


 ザザーン。ザザーン。


 ゆっくり引いては返す波。穏やかな海だった。車を停めて砂浜を歩く。


「裸足になろう。気持ちいいよ。」


 彼は颯爽(さっそう)と裸足になった。(すそ)をまくり上げて、私の名前を呼んだ。裸足で踏みしめた砂の感覚は心地好かった。さらさらとして、温かかった。彼は子どものように私を後ろから抱えた。


「わあ!」

 少し高い海の波が来ていた。


「ハハハ。下ばかり見ないで、遠くの方を見てごらん。」


「どれくらい遠く?」


「あの地平線の向こう側まで遠く。」


 私たちはしばらく、"地平線の向こう側" を眺めた。正直、私にはそれがどこなのか分からなかったけど、彼が見つめる同じ方を見つめていた。


「お腹空いたね。そろそろご飯食べよう。ここでちょっと待っててね。」


 私は彼の手作りのお弁当を食べた。潮の香りがお握りの塩加減にどことなくマッチしていて、とてもおいしかった。お握りの中身は、鮭に、たらこに、昆布、ツナマヨネーズだった。


 帰り道、私は夢うつつになりながら彼の肩に何度もぶつかった。


「寝てていいよ」


 目が覚めたのは次の日だった。車で寝てからの記憶が全くない。ただ、心地よい気持ちだけが残っていた。匠矢はいなかった。


 全て夢だったのかな……?

 今日は火曜日。仕事!!


 とっさに時計を見た。8時半だった。大丈夫。よし、そろそろ起きて準備しよう。

 

 カーテンを開けてトイレに行った。


「おはよ。よく眠れた?」


 彼がいた。台所で朝ごはんを作っていた。


「どこか行ってたの?」と聞くと、彼は、

「うん、ちょっと安全確認にね。」と答えた。


「安全確認?」

「そう。なみちゃんが幸せになれるように安全確認しに行ってた。」

「ふふふ。なにそれ。」



 夢じゃなくてよかった。私は温かい味噌汁をすすりながら、しみじみと思った。


「お仕事行ってらっしゃい。」



 彼に見送られて私は職場へ向かった。外は今日もきらきらと輝いている。バス停には、一つ前のバスが停まっていた。少し早いけど、たまには良いかなと思って私は乗った。いつもは座れないが、今日1本早いためか、席はがら空きだった。


「おはようございます。」

「おはようございます。今日は早いんですね。」


 後輩の立川(たちかわ)君がPCの電源を次々に入れながら言った。


 その後の仕事はすこぶる順調だった。いつも私が扱うとエラーを起こす機械も今日は言うことを聞いてくれたし、ミスもなかった。


「今日の濱崎さん、なんか違うね。」


 化粧室で声をかけてきたのは、私が少し苦手に感じていた先輩の風宮(かざみや)さんだった。私がよく失敗をするので、いつもそのカバーに入ってくれている人だ。「悪いことをした、もっとちゃんとしなきゃ」と思わせてくれる人でもあり、よく私を怒る人でもある。


「あー……そうですか?」

「うん、なんか良いことあった?」


 彼女は私の顔に何か答えを探すかのようにしてじっと見た。


「……ははは。なんにもないですよ。あぁ、たぶん今日はまだミスしてないからかも…」


「ミス? 濱崎さん、ミスなんてしてないよ。」


「だって、いつも、なんかかんかで、風宮さんに迷惑ばかりかけています。」


「ん? なんのはなし? 濱崎さんは、仕事はいつも丁寧だし早いよね。立川さんだって言ってたよ。濱崎さんは教え方は分かりやすくて親切だって、感謝しているみたいよ。」


「……そうなんですか?」

「うん……どうして? みんな思ってるよ。」

「……ありがとうございます。」


 そんな風に思ってくれていたなんて……。ぽっと心のなかに温かいともしびがついた。



 お昼時に私はいつものように、屋上へと向かった。テラスになったベンチがいくつかあり、木々が植わっていて落ち着く場所なのだ。


 彼が作ってくれたお弁当。タコさんウインナーが笑顔で私を迎えてくれる。ふわふわの卵焼きが私を優しく包み込んでくれる。昨日の海の香りがしそうな海苔をごはんと一緒に口の中へ。目の前に大きな海原が広がり、隣には彼が……! なんて想像していると、声が近くで聞こえた。


「先輩、ほんと、おいしそうに食べますよね。幸せそうっていうか。」


 いつの間にか隣で、立川君がコンビニ弁当を食べていた。彼は私より5つ年下だ。某有名大学卒業のエリート君がなんで、こんな普通の会社に入ったものかと、私は彼がきた当初から思っていた。会社にも失礼だから絶対に言えないけど。


 私が入社したての頃と比べたら、今の職場のメンバーはだいぶ変わってしまった。先輩の風宮さんたち初期メンバー数人に、新しい課長や技師さんが加わったし、他の部署からの移動などもあった。これからも人は変わっていくだろう。


「濱崎さん、今日はお弁当なんですね。しかも、めっちゃおいしそうじゃないですか。料理うまいんですね。」


 そう、私はいつもコンビニ弁当だったのだ。でも、なんで立川君が知ってるんだ……?


「いやいや……これはその、」

「?」

「ううん。時間があったからね、作ってみただけ。」

「そうなんですね。でも、いいですよね。」

「えっ?」

「やっぱ手作り弁当って、健康にいいですよね。僕はあんまり作らないんで、いっつもコンビニに頼ってばっかなんですよね。料理少しは上手くなりたいなぁなんて。」


 立川君は、てへっとした顔をして分かりやすく頭をかいた。


 かわいい後輩だ。


「……じゃあ、今度立川さんにもお弁当作ってあげますか?」


 私がどうしてこんなことまで言えたのか、今なら分かる。彼が作ったお弁当の美味しさを立川君にも味わってほしかったからだ。でも、匠矢にはなんて言おうか。同僚の分も作ってといったら、嫌な顔をするかもしれない。



「へえ~、いいよ。僕が作ったのでよければ」


 匠矢はあっさりそう言った。


「ほんと~? うれしい。匠矢のお弁当、すっごくおいしかったんだから。だからその子にも匠矢の美味しい料理を食べてほしくなっちゃってさ。」


「そうなんだね。うれしい。なみちゃんがおいしいって言ってくれて。」


「ほんとのことだもん。匠矢、お店開けるよ。有名レストランになっちゃうかもね。」


 彼は少し顔を背けた。横顔が一瞬寂しそうに見えたが、またもとの笑顔になって、

「そう言ってくれてありがとう。あのね、僕はなみちゃんが笑顔でいてくれることがなによりの僕の望みなんだ。」と言った。


「私の笑顔?」

「そう。そのためならなんでもするからね。」


 彼は弁当箱を洗いながら言った。


 いつの間にか、2つ分のお弁当を持って仕事に行くのが当たり前になった。



「ありがとうございます。いつもすみません。……あっそうそう、濱崎さん。こんど、僕に料理を教えてくれませんか?」


「本気だったの?」


「ええ、もちろんです。このままお弁当毎日作ってもらうのも、申し訳ないんで。」


「ええ? 全然申し訳なくないよ。」


 そう言って、私の胸はちくちく傷んだ。


 なんでだろう。私なんか悪いことしたかな…?


「ああー、私人前で料理したことないし、緊張しちゃうたちだからさ。ちょっと無理かも……。」


「えー、僕なんかに緊張しなくていいんですよ。それに少しだけでいいんですから。」


 だめだ。自分で作った弁当じゃないことがばれてしまう。これは大いなる恥だ。


「ほんと、ごめん。」

「分かりましたよ。お弁当、ご馳走さまです。おいしかったです。でも、次は作らなくて大丈夫です。」


「なぜ?」

「濱崎さんに甘えたくないんで。僕も料理なんとかやってみます。初心者でもできる料理のアプリもあるそうなので、それ使ってやってみます。」


「……そうか、頑張って。」


 私は午後の仕事があまり身に入らなかった。けれど、仕事自体はスムーズに終わった。


「ただいま……?」

 帰ると部屋は真っ暗だった。どうしたのかな…?胸がざわざわした。なにも悪いことしてないよ…。


 その時、一気にぱあっと明るくなって、花吹雪だのなんなのが一斉に舞い散った。


「おかえり~! なみちゃん!」

 匠矢は満面の笑みで私を迎えた。

「どうしたの?これ……」


 部屋は飾り付けられていた。折り紙で作った飾り付けはまるで、子どもの誕生日会のようだった。


「今日は、なみちゃんが就職して5年目の記念日だよね~。おめでとう。頑張ったね!」


 彼は優しく私を抱き締めた。彼から甘く優しい匂いがした。


「ありがとう。うれしいよ。」


「今日はね、いつもより豪華なディナーにしたよ。」


 病み付きになりそうなほどおいしいチキン。手作りのピザはバジル香るマルゲリータで、とろとろしたチーズがピザからはみ出した。


「ほんと、おいしい!」

「よかった~。そうだ、同僚の子のお弁当、もう作らなくて本当にいいの? 僕は全然構わないよ。」


 水を飲んだ彼は言った。


「うん、今まで作ってくれてありがとう。でも、大丈夫なんだって。その子も自分で料理したくなったみたい。匠矢のお陰だよ。ごめん、私はまだ料理全然だめだめなんだけど……。」


「ううん。なみちゃんはだめだめなんかじゃないよ。ほら、約束。忘れたの? 僕の前では自分のことを悪く言わないって。」


「あっ、そうだった…ごめん。」


「謝らないで。……なみちゃんは自分の良さに全然気が付いていないんだ。優しくて、他の人の気持ちをいつも考えている、今相手にどんな言葉が必要かとか、いや、言葉なんていらないんだ。君は回りの人を明るくさせる能力があるんだよ。そして、誰も、君を放っておけない。なにか、君に関わっていたいと望ませる何かをもっているんだ。」


 彼はいつもとは違うような表情だった。


「君はとても魅力的だ。」


「違うの……。私は嘘つきで自己中で、迷惑で、魅力度ゼロ人間……!」


 彼の温かくて大きな手が私の口を覆った。涙も鼻水も一緒くたに口の回りに垂れているに違いない。彼の綺麗で長い指先に私の汚いものがついてしまっているに違いない……!


 私はもがいた。けれど、彼の方が強かった。背中から彼の体温を感じるうちに、私は脱力して、ゆっくりと落ち着きを取り戻していった。



 一方の立川君はというと、今までは匠矢のお弁当のお陰で一緒にお昼を食べてくれたのに、最近は全くそっけなくなってしまった。


 私は昼休憩に入るとすぐ、立川君を探していた。彼は会社の外の公園で一人ぽつんといるのを、窓から見つけた。


「立川さん、最近はここでお昼食べているんですね。私も一緒にいいですか?」


「いやです。」


 彼はちびっこのようなことをいった。

「どうして?」

「……弁当、全然上手くできなくて…。見た目が最悪です。」


「見ためより、味じゃない? 味は大丈夫じゃない?」


 私はなんとか彼を慰めようとした。

「大丈夫じゃないです。味もなんか変っていうか……。」


「塩加減とか、調味料、間違えちゃったとか? 私だってよくやっちゃうよ。がっかりしないでよ。料理はこつこつとやることが上達の道なんだからさ。」


 私……なに言ってるんだろ。作れもしないくせに。匠矢のお弁当を自分が作ったかのような顔をして。いい気になって。口の中がざらざらした。そして、とっさに言ってしまった。


「そうだ、こんど、立川君に料理教えてあげるよ。」


「えっ……!? 本当ですか……?!」


「う、うん…。自信ないけど、少しならね。」


「ありがとうございます!!」


 立川君はこともあろうに立ち上がると、私を抱き締めた。


「ちょっと……!」


「あっ……ごめんなさいっ!! うれしくなってつい…。嫌な気持ちにさせましたね。ごめんなさい!」


 砂地に膝までつけて謝る始末。他の人がこれを見たら、パワハラかなにかだと思われるだろう。


「ちょっと、やめてよ。ここ、公園だよ。人みてるよ。」


「ああ、そうか。すみません。」


 立川君は、すっくと立って砂を落とすと、私に「今から弁当買って来ていいですか?」と聞いた。



 私は帰りのバスの中で、どうしようかと頭を悩ませていた。私は本当にばかだ。でも、もう予定も立ててしまった。これは立川君に潔く白状してしまうか。あるいは、匠矢に料理を教わってなんとかやるか。う~ん、後者はだめそう…か。



「え~、いいんじゃない? なみちゃんは、その子のために教えてあげたいって思うんだよね?」


「うん。でも、私なんかほら、」


 彼はそこで、その先を言わないでという顔をするので、私はぐっと(こら)える。


「やってみないと分からないことだってあるんじゃない? 僕は賛成だよ。その子に教えられるように健康的で簡単な料理をなみちゃんに教えてあげるよ。」


「本当に? 私にできる?」

「もちろんだ。」


 彼は優しく私に教えてくれた。おいしい米のとぎかたから、料理別の野菜の切り方や、基本の調味料の合わせ方から、入れる順番まで、私に合わせて丁寧に教えてくれた。そのかいもあり、なんとか立川君に教える日までには形になった。


「うん。おいしい。上手くできたね。」

「ほんと?」


「うん。これで、その子も喜ぶね。ああ、なみちゃんが笑顔になってくれてよかった。ずっと、眉間に(しわ)をよせてお鍋グツグツいわせてたから、途中、ぷって笑いそうになった。」


「えー? 私、そんな顔してた?」

「ハハハ。してた。思い出すだけでおかしい。」


 私もだ。彼が笑う顔が一番好き。


「ありがとう、匠矢。」


 私の方から彼に抱き付いた。今まで彼が私を励まし慰めてくれたくらいに心を込めて。彼の締まった体を両腕一杯に感じながら――。



 立川君に教える日がきた。日曜日、私は匠矢の送り迎えを断り、一人地下鉄に乗っていた。


 私は別にやましいことなんかないはずだという切羽詰まった思いが心の中でリフレインする。なにを焦ってるの?今になって……?



 立川君は駅の改札口で待っていた。

「濱崎さん、お疲れ様です。」

「お疲れ様です。」

「じゃあ、行きましょうか。」


 私たちは駅前の立体駐車場まで歩いた。

「SUV……」

 私は消え入りそうな声でぼそっと言った。


「はい、そうです。この車買うのに結構かかりましたね。ずっと自分の車がほしかったんですから。買うならSUVがいいなと。で、SUVがどうしたんですか?」

「ううん。」


 匠矢の車とおんなじだったからだ。車種も色も。私は無意識に後部座席の方へ乗ろうとした。


「先輩、すみません。後ろの席、荷物あって乗れないと思います。助手席お願いします。」

「ああ…、そうか、ごめん。」


 立川君にはいくつかの簡単で、かつおいしい料理を教えてあげた。彼は器用だし、物覚えは早い。仕事でもそうだ。


 私は何回か立川君の家へ通って、匠矢が考案したレシピを伝えた。実のところ私も、作れる料理の幅がだいぶ広がったし、少し上手くもなった。だから、心の痛みは前より感じなくはなった。


「そうそう。うまい! 包丁の使い方もだいぶ上手になったね。もう、一人立ちできるね。」


「ほんとですか~? いやぁ、これも全て濱崎さんのお陰ですよ。ありがとうございます! いつか、僕が濱崎さんに弁当作れる日が来るように頑張ります。……てか、そんなの必要ないですよね。ハハハ。」


「そんなことないよ! 私も食べてみたいよ、立川君のお弁当!」

と、そこまで言って私ははっとした。立川君の顔はいつもの後輩の顔じゃなかったからだ。


「濱崎さん、僕前からずっと思っていたことがあるんです。……言っていいですか?」


 いいや、言わせてはいけない。私には大切な恋人がいるんだから。


「ああ、ごめん、私そろそろ行くね。帰りに少し用事があって。じゃあ、また仕事で。」

「……はい。また。」


 彼の目から逃れたかった。一目散に。なんでこうなるんだ。というか、そうなるの、前から分かっていたんじゃないか。だから、心が痛くなったんじゃないか。私は早く匠矢に会いたくなった。そして、走った。息が詰まりそうになりながら――。



「お帰り。どうしたの。そんなにぜーぜーしちゃって。」


 匠矢は温かいコーヒーを入れてくれた。


「最近、寒くなってきたね。炬燵(こたつ)いれたよ。ふかふかの絨毯(じゅうたん)も敷いたし。風邪引かないようにしなくちゃ。だから、なみちゃんもあんまり無理しちゃだめだよ。」


「うん、ありがとう。私は大丈夫。」

「ほんとに大丈夫? なんか疲れてるみたい。」


 彼はテーブルの上の私の手を優しく包み込んだ。


「同僚の子、料理が上手くなったんだね。よかったね。」


 私は匠矢の顔をまともに見れなかった。いや、どうかしているんだ、私は。何もないはずなのに。


「そう、ほんとよかった。今日はね、もう、一人立ちできるねって話してたんだ~。」


「へぇ~、そんなに上手くなったんだ。なみちゃん、嬉しい?」


「へっ?」


「立川君だっけ? 彼はもう、一人でお弁当をつくれるようになったんだよね。嬉しい?」


 ???


 私はいつ、立川君の話をしたのだろうか? おや、していない。しかも、女子だと話してあったはずだ。なのに、なぜ……?


「ああ、うん……。そうだね…、うれしいよ。かわいい後輩がさ、料理作れるようになったんだし。毎日コンビニ弁当じゃねぇ? 健康的な食事の方がいいもんね。ハハハ。」


 私は確実にひきつり笑いをしていたに違いない。


「そうか。そうだよね。そりゃあ、うれしくなるのは当然だ。」


「ハハハ。そうだよ。」


「なにより、なみちゃんが嬉しいのがなによりだからね。」


 匠矢は一瞬間、寂しそうな目をしたように思えた。でも、それは気のせいだ。……たぶん。



「濱崎さん、お疲れ様です。こんど、お礼に、」

「お疲れ様です。ごめん、ちょっと急いでるから。」


 立川君は、なにかと私に声をかけようとしてきた。私は彼の姿に(おび)えた。



「どうした? 濱崎さん。立川さんとなにかあった?」


 化粧室でまた、風宮さんが声をかけてきた。今はだめなんだよなぁと私は心ではそう言ったが、結局彼女に相談をしていた。


「ふーん。それで、濱崎さんはどうしたいの?」

「私…? 私は今まで通り匠君と仲良くしていたいです。」

「ふーん。そうか。立川さんは最後になにか言おうとしていたんだよね?」

「ええ」


「それは、本当にあなたが想像していた言葉なのかな?」


「えっ?」


 それは考えてみなかった。なんという恥知らずで独りよがりな考えだったのか…!?


「ははは…そうですよ!そうですよ! もう、わたし、もう全然恋愛経験ゼロだし、なんなら、キモがられるタイプだったんで、そういうとこ、(うと)くて!」


「いや、そういう意味じゃなくてさ。どうして最後まで聞いてあげなかったのかっていう話よ。」


「だって、そんなことしたら……」


「濱崎さんの悪いところはさ、相手はいつもこうだって、あっさり切り捨ててしまうところなんじゃないかな? 色眼鏡で人を見てない? 自分の目で見えるものだけが全てじゃないと私は思うな。本当は、もっと素敵な事が周りで起こってるかもしれないじゃない。ね? もう少し自分に自信を持ってよ。


 だって、あなた魅力度あるし。」


「えっ……?」


「ねっ? まあ、どうするかは濱崎さんが決めな。素敵な彼によろしく。」


 風宮さんはコーヒーを手に颯爽と仕事に戻っていってしまった。


 つい、人の恋愛に首突っ込んじゃったな……。


 風宮はずっと昔に経験した甘酸っぱい記憶を思い出していた。


 濱崎、頑張れよ。どっちに転んでも、私はいつもあなたの見方だからね。



 ……。

 私はしばらく呆然としながら、休憩室にいた。今、だいぶ大きなパンチを食らわされた。

 動けない……。ううっ……。


 匠矢はそれを気にしてか、なにも言わず私のそばにただ、いてくれた。



「濱崎さん、今日、仕事終わりに僕に少し付き合ってくれますか?」


 立川君はたくさんのファイルを手にしたまま言った。

「うん。」


 バラバラと大げさなほど激しく床へ散らばった。


「あーあーあー。」

「すみません!」

「ふふふ。派手にやったね。」

「すみません。ありがとうございます。」



***

 マフラーが必要な季節になった。吐く息も白い。


「濱崎さん、僕が前に言いたかった事を言ってもいいですか?」


 おしゃれなレストランの一角で、私は立川君を目の前にディナーを食べている。フルコース。高級レストランでの食事は生まれて初めてだ。お酒が飲めない私に、彼は果実のスパークリングを頼んでくれていた。

 

 私に関する色んな話を、彼の家で話したっけ。料理を教えながら。笑って。ふざけ合いながら。



「濱崎さん、僕は前からずっと思ってました。僕の教育係になってくれてからずっと。」

「うん。」


 私は不思議と落ち着いていられた。なぜかは、まだわからない。


「濱崎さんのことが好きです。結婚を前提に付き合ってくれませんか? 」


「うん。」

「えっ?」


「立川君の気持ち、よく分かった。ありがとう。うれしいよ。」


「……!?」


「でも、ごめんなさい。私には大事な人がいるの。とっても大切な人が。」


「……」


「私、立川君の気持ちを傷つけちゃったね……。本当にごめんなさい。」


「……僕に少しの希望を持たせてはくれませんか?」


 彼は息声はかすれ、息も絶え絶えになった。



 その時だった。匠矢の声が聞こえたのは。


「なみちゃん、君はそれで本当にうれしいの?」と。


 たとえ、僕がいなくなっても、幸せでいられる?立川君がいれば、なみちゃんは笑っていられるんじゃない?


!!!


「匠矢!?」

「濱崎さん……?」


「ごめんなさい。私帰らなきゃ。」

「濱崎さん…!」


 私は駆け出した。夜の人混みの中を群衆の流れと逆行するかのように――。



「匠矢!?」

 部屋は真っ暗だった。


「匠矢? 匠矢!? いたずらしないで出てきてよ。笑えないよ。」


 どんどんどんどんと音がする隣との壁。


 私はわなわなとその場にくずおれた。そして、隣がいくら叩こうが構わず私は大泣きした。



 ついに、匠矢は私の元には帰って来なかった。風宮さんや立川君には、失恋したとだけ伝えた。私の心は、ぽっかりと穴が開いたようだった。私には匠矢しかいない。いなくなった今、私にはなんの喜びもない。



 私は一人車に乗って、初めて行ったあの海岸に来ていた。


「匠矢……。私、あなたがいなくて、悲しいよ、苦しいよ。全然笑顔じゃないよ、だから出てきてよ。」


 白波立てる海へと叫んだ。けれど、私の声はすぐに大きな波に取り込まれてしまう。彼の優しい眼差しを思い出す……。


「なみちゃんは魅力的な人だ。」

「もっと自信をもった方がいいよ。」


 匠矢や風宮さんの言葉が耳の奥でこだまする。私は、すっくと立ち上がった。泣き尽くすまで泣き尽くしたら、少しすっきりした。


 私は一人じゃない。心の中には匠矢がいるし、風宮さんだっている。なにかと私の事を大切に思ってくれる人たちがいるんだ。そう思うと少し力が出る気がした。



***

 あれからしばらくした。私はある日、偶然にも気づいてしまった。


 眼鏡のことを。


 今まで一度も眼鏡のことを気にしたことはなかった。詐欺師のジジイにもらう前から着けていた眼鏡がなくなっていることを。


 そしてあの日、自分でゴミ箱に捨てたことを。そしてこの眼鏡こそ、ジジイからもらったものであったことを。


 そうか……。この眼鏡のお陰で、私は……。と、今までのことを振り返った。


 決して良いことばかりじゃないし、むしろ、不運だと思えることも確かにあったけれど、それ以上に幸せなこともあった。


 私はふと、あの時住んでいたハイツ近くの交番に行ってみる気になった。



「こんにちは。」

「どうされました?」


 若い警官が出てきた。


「いえ。すみません。大丈夫です。」


 私は慌ててそこを出た。さすがにジジイはいないか。あの時すでに年だったし。この時の私はまだ気が付いていない。


「なみちゃん、 そろそろ行くよ!」

「うん。」


***

 私は今、少なくとも魅力的度ゼロではない。それは他人との比較ではないし、自分のダメさ加減の基準で言うのでもない。


 私は生活の中で、小さな幸運に気が付けるようになったから。そう、気が付けるようにしてくれたから――。


 私は温かい家庭への帰路へつく。そして、この小さくて大切な灯火をこの体に包んで――。


 娘が持ってきてくれた古びた名刺一つ。


 それが私の全て――。



【The End】

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