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『愛することの意味』

作者: 小川敦人

『愛することの意味』


画面が暗転した後も、その女性の表情が瞼の裏に焼き付いて離れない。穏やかでありながら、どこか寂しげな微笑み。スイスの白い病室で、彼女は人生最後の決断を下した。その瞬間を映した映像は、観る者の心に深い衝撃と共に、根源的な問いを投げかける。


私たちは果たして、自分の死を選ぶ権利を持っているのだろうか。


## 選択の重み


スイスという国が持つ独特の制度について考えてみる。1940年代から存在するこの「自殺幇助」の合法化は、単純な死への権利ではない。そこには厳格な手続きと、何重もの確認作業がある。医師の診断、精神状態の評価、複数回の面談、そして最終的な本人の意思確認。それでもなお、毎年数百人がこの制度を利用する。


映像の中の女性も、きっと長い時間をかけてこの決断に至ったのだろう。病気の苦痛、将来への絶望、家族への負担、そして何より、自分らしく生きることへの諦め。様々な要因が複雑に絡み合い、最終的に「もう十分だ」という結論に達したのかもしれない。


しかし、彼女の最期の願いは叶わなかった。昔の恋人の立ち会いを望んでいたというその事実が、私の心に深く刺さる。人は結局、一人では死ねない存在なのだ。誰かに見守られ、誰かに理解されながら、この世を去りたいと願う。それは人間の根本的な欲求であり、愛への渇望の表れでもある。


## 生の意味を問う


では、生きるとは何なのか。哲学者ハイデガーは「存在と時間」の中で、人間の存在を「死への存在」として捉えた。私たちは死を意識することによって、初めて真の意味での生を獲得する。死があるからこそ、今この瞬間の価値が浮かび上がる。


しかし、現代社会では死は隠蔽され、忌避される。病院という密室で、家族にさえ看取られることなく、多くの人が孤独に死んでいく。そうした現実の中で、スイスの制度は一つの光明を提供しているのかもしれない。少なくとも、自分の死に対してある程度の主体性を保つことができる。


映像の女性が求めた「昔の恋人の立ち会い」という願いは、単なる感傷ではない。それは、自分の人生において最も大切だった関係性への最後の確認であり、愛した記憶と共に死にたいという、極めて人間的な欲求の表れだ。彼女にとって、その人こそが自分の生の証人だったのかもしれない。


## 苦悩する私たち


もし私がその立場に置かれたら、どうするだろうか。この問いに向き合うとき、答えは簡単には出てこない。


痛みに耐えられなくなったとき、尊厳を保てなくなったとき、愛する人に迷惑をかけ続けるとき。そうした状況で、なおも「生きる」ことを選択できるだろうか。一方で、まだ見ぬ明日への可能性、家族との時間、小さな喜びの瞬間。それらを手放す決断ができるだろうか。


カミュは「シジフォスの神話」で、人生の不条理に直面しながらも生き続けることの意味を説いた。山頂から転がり落ちる岩を、永遠に押し上げ続けるシジフォス。その反復的で無意味に見える行為の中にこそ、人間の尊厳があると彼は言う。絶望的な状況であっても、それに立ち向かう意志そのものが、私たちを人間たらしめる。


しかし、シジフォスには少なくとも岩を押す力があった。では、その力さえも失ったとき、私たちに残されるものは何だろうか。


## 愛と別れの哲学


映像の女性が最期に求めた「立ち会い」への願いは、愛の本質を物語っている。愛とは、相手の存在を肯定し、共に時を過ごすことだ。そして最も深い愛は、相手の選択を尊重することでもある。


昔の恋人が立ち会えなかった理由は分からない。距離の問題かもしれないし、新しい生活への配慮かもしれない。あるいは、その重すぎる別れに耐えられなかったのかもしれない。しかし、彼女の心の中で、その人は確実に存在していた。記憶の中で、思い出の中で、愛した日々の中で。


レヴィナスは他者との関係において、「顔」の概念を提示した。他者の顔は、私に無限の責任を課す。しかし同時に、その顔は私を人間として成立させる根源でもある。彼女が求めた「立ち会い」は、最後の瞬間まで他者との関係性の中で存在したいという、深い人間性の表れだったのではないだろうか。


## 制度の向こう側


スイスの安楽死制度は、確かに個人の自律性を尊重する先進的な取り組みだ。しかし、それは単なる法的・医学的な枠組みを超えて、私たちに根本的な問いを投げかける。


死ぬ権利があるなら、生きる権利はどうなるのか。自己決定権の名の下に、社会は個人を孤立させていないか。家族や周囲の人間は、その選択にどう向き合えばよいのか。


映像の女性の静かな最期は、これらの問いに対する一つの答えでもあり、同時に新たな疑問の始まりでもある。彼女の選択を善悪で判断することはできない。それは彼女の人生そのものであり、私たちが立ち入ることのできない聖域だ。


## 愛は死を超えるのか


私は今、"愛"で救われている。この言葉を素直に受け入れることができる。しかし、その愛は一方的で切ない"愛"だ。報われることのない想い、届くことのない気持ち。それでも、この愛が私に生きる希望を与えてくれている。切なさの中にも、確かな温かさがある。愛することそれ自体に、生きる意味を見出すことができる。


唐突だが、宇宙に目を向けてみよう。天文学によれば、あと50億年後には地球そのものが太陽に飲み込まれるという。太陽は赤色巨星となり、膨張して地球軌道まで到達する。その時、私たちの星は完全に消滅する。つまり、永遠などはないのだ。


この宇宙的な時間軸から見れば、私たちの悩みも、愛も、苦しみも、すべてが一瞬の出来事に過ぎない。50億年後にはすべてが燃え尽きてしまうのだから。


だからこそ、今を生きるのだ。


映像の中で静かに最期を迎えた彼女も、きっと愛を知っていた。だからこそ昔の恋人の立ち会いを求めたのだろう。彼女にとっても愛は大切なものだったはずだ。しかし彼女は死を選んだ。愛があっても、その愛でさえも癒すことのできない苦痛や絶望があったということなのだろうか。


私は彼女の心境を思うとき、簡単に彼女の行動に何かを言うことはできない。愛の力を信じる私であっても、彼女が抱えていた重荷の深さを完全に理解することは不可能だ。


それでも、あえて今の私は言いたい。"愛"がすべてだと。


生きる希望をどうしても探すことが重要だと思う。50億年後はすべてが燃え尽きるのだから、今この瞬間の愛に、希望に、意味がある。一方的で切ない愛であっても、それが私を生かしているなら、それで十分だ。宇宙の終わりを前にしても、人間は愛することをやめない。その愚かしくも美しい営みこそが、私たちの存在理由なのかもしれない。


ジョン・レノンが歌っている。「All You Need Is Love」。愛こそがすべてだと。その歌声は時代を超えて響き続け、多くの人の心に希望の光を灯している。私もその一人だ。50億年という途方もない未来を前にしても、愛があれば今日を生きることができる。


スイスの山々に囲まれた小さな部屋で、一人の女性が下した究極の選択。それは私たちに、愛することの大切さと同時に、愛することの難しさを教えてくれる。宇宙の時間軸から見れば一瞬の出来事かもしれないが、その一瞬に込められた人間の思いは、決して軽いものではない。


答えのない問いを抱えながら、私は今日も愛することを選ぶ。一方的で切ない愛であっても、それが生きる希望となるなら。彼女の記憶と、ジョン・レノンの歌声と、50億年後の宇宙の終わりと共に。愛がすべてだと信じながら。

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