名残の花と手と
「俺のこと、嫌いになったの?」
少し黒ずんでしまったペアリングを指で撫でていると、コーヒーを置いた彼と目が合う。
「どうして?」
「最近、ずっと楽しそうじゃないから」
「……そんなことないよ」
湯気がたちのぼるカモミールティーに息を吹きかける。ゆっくり口に含んだつもりだったが、舌にのせた途端、とてつもない熱さを感じてカップから急いで口を離した。
ヒリヒリと痛む舌が、心の中にある違和感の輪郭を縁取っていく。
「隠し事はやめて。何年も一緒にいるから、隠したらすぐにわかるよ」
少し苛立ったように口調が強くなっていく彼。後ろの窓から、風に揺られて花弁を散らす大きな桜の木が見える。彼とではなく、静かな場所で1人、その姿をみたい。
そんなことを思ってしまう時点で、彼との関係性への気持ちは明白だった。
「嫌いじゃないよ。でも……なんでもない……」
「なんでもなくないよね? 言ってくれなきゃわかんないよ。最近、デートの時スカートも履いてくれなくなったし、返信も遅いし、今日も楽しそうじゃないし……俺、なんかした?」
早口で捲し立てる彼の服は、いつも古くさい。胸の中で小さな炎がボッと音を立てて着火した。
「そういうとこ」
「え?」
「私に短いスカートを履かせるくせに、自分は好きな洋服を好きなように着ているところ。自分が何かしているときは4時間以上返信しないくせに、私が返信遅いと文句を言うところ。何がしたいどこへ行きたいと伝えても、『つまんなそ』って鼻で笑うところ。ぜんぶ、ぜんぶ。もう疲れたよ」
1音1音、丁寧に。彼の耳だけでなく心にも届くように発声していく。
「好きな服着ればいいじゃん。別に俺は強要してないし」
「ズボン履いていくと『今日スカートじゃないんだ』とか、ちくちく言われたら好きな服着ようにも着られないよ」
「他のこともなんで都度言ってくれなかったわけ? 言ってくれれば俺だって直すよ」
「ほら」
「え?」
「今も、都度言わなかった私のせいにしてる。いつも私より優位な場所に立っていないと気が済まないんだよね? 自分に非があっても『だって』『でも』が1番にくるもんね」
彼の貧乏ゆすりが速くなり、コーヒーを一口含んでから大きな音を立ててカップを置いた。ガチャンと大きな音が店内に響き、店員が驚いたようにこちらを見た。
「すみません」と会釈すると、店員は困ったようにぎこちない笑みを浮かべながら会釈してキッチンへと消えていった。
「もう、別れようよ」
湯気のでなくなったコーヒーを眺めながら頭を抱える彼は、かなり苛ついているらしく先ほどよりも早いテンポで貧乏ゆすりをしている。
本当は苛ついた態度を表に出して、感情のままに捲し立てたい気持ちでいっぱいだったが、カモミールティーを両手で挟みながら、平静を装う。
話し合いをしても、最終的に私が悪かったという結果に収束されるのが目に見えていたし、こちらが譲らない限り埒が明かないことがわかっていたからすぐに店内から出たかった。
「別れるとか極論出す前に話し合うのが普通でしょ? なに1人で終わらせようとしてるの?」
「極論だと思っているのはあなただけだよ。私はさっき、理由をしっかりと伝えたよね?」
「意味わかんない。後悔しても知らないから」
「後悔はしないかな、心配してくれてありがとう」
嫌味っぽくならないように笑顔でお礼を言うと、彼はつけていたペアリングを外して机の上に投げ置いた。
「勝手にしろよ」
「うん。お金は置いておくね。お釣りはいらないから。じゃあ、今までありがとう」
1000円札を投げ置かれたペアリングの横にそっと置いて店を後にする。心臓がばくばくと音を立て、足がふわふわした。
こんなに自分の意見をはっきりと人に伝えたのは初めてかもしれない。なぜか涙が一筋頬を伝ったが、ちっとも悲しくも悔しくもない。それよりも清々しい気持ちで胸がいっぱいだった。
なんとなく遠回りしていくうちに、桜が川沿いに植えられた知らない道に出た。彼の後ろの窓から見えた桜よりも大きくて、斜陽が川の水面を輝かせていてとても綺麗だった。
風が吹くたびに舞い落ちる花びらがアスファルトと川に模様を作っていく。
「きれい」
彼と出会ったのも、桜が散り始めるこれくらいの時期だったと思う。楽しくて、愛おしくて、苦しい時間だった。
黒ずんだ指輪を外し、輪の中に太陽を捕まえる。桜の花びらが輪の中を通り過ぎた時、力一杯に指輪を川に向かって投げた。
小さな飛沫を立ててすぐに見えなくなった指輪に、やっと心に残っていた僅かなも重みがなくなった気がした。
「飲みにでも行こうかな」
桜の絨毯の上を軽やかに歩いていく。家々の向こうに沈みかけた夕陽が、川と空をオレンジ色に染めていた。
成就する恋とか、幸せいっぱいな文章を書けるようになりたいものです。