猫と癒しと異世界転生
老いぼれ猫キティは私の家の居候猫である。
飼っているという言葉はいささか不躾であろう。なにしろ、彼女はその気にはならないだろうし、私達はれっきとした共生関係にあった。
彼女が癒しを提供し、私は屋根と食事を交換する。
もっぱら、彼女はその癒しの効能に強く自覚的であって、食事の支度が遅れると、小さく唸り、私の職務怠慢を責め立てるのであった。約束を違えたことへの怒りの眼差しに負け、私は渋々、高価な食材でつぐなった。
そうすると、彼女は鷹揚に謝罪を受け入れ、小さく縮こまって私に身を寄せるのである。彼女が問題を蒸し返すことはない。過ぎたることはないも同然である、という野生の知を充分に弁えていた。
そんな彼女が過度に恐れ、憎む相手がいる。それは自動車だ。自動車が現れるとき、彼女は排気音に身を竦ませて、クラクションが鳴れば飛びのいた。彼女の尻尾が妙に短いことから、深い確執があるのだろうと私はみている。
無論、そのようなことを彼女自身が語ることはないだろう。
己の短所をことさらに晒すのは品がない、とこれも彼女の哲学だ。
それでも、自動車が近づけば、彼女はまず、尻尾をお尻で踏んずけるように隠すのだから、大事な秘密でもないのかもしない。
そんな折、私が深刻な病に冒されていることを知った。
もちろん、彼女に習って、そのような事実を喧伝することはなかった。遺書をしたためて、万事余裕を持って行動する。
とそう息巻いていたのだが、病を境に、彼女は私のミスを咎めなくなった。
食事の支度を忘れても、彼女はじっと私に眼差しを向けるばかりで、思うに、私の秘密もまた、彼女にはお見通しであったようだ。
日常は日増しに歪みを深め、とうとう私は寝たきりのような状態になった。
そこで、ようやく、キティの今後について悩み始めたのだが、それはどうやら余計なお世話だった。私の与える屋根と食事は、誰しもが提供できるもので、しかし、彼女の癒しは彼女独自のものに違いなかった。
つまり、彼女はどこででも生活を営めたわけである。
その事実に気づいたことで、私の悩みはなくなった。
むしろ、私の悩みがほとんど全て彼女のもとにあったといってもいいかもしれない。
かくして、私は老いぼれ猫との生活と、今世での人生との繋がりを絶った。
死者が如何にして、あの世で過ごすかについては、抽象的な説明に頼らざるおえない。ただ、私の感覚としては、ただひたすらに待っていたような気がする。
遥かなる空中で、私は地獄の沙汰を待っていた。
列は長く、人波は遥か地平にまで続き、しかし、私は特別、退屈に感じることもなく、ただ、じっと待っていた。
にゃあ、と懐かしい声に、私は後ろを振り返った。
キティが、ふてぶてしい表情で此方を見つめているではないか。
私は彼女に駆け寄ると、久方振りの再会を祝して、彼女の背中を撫でまわした。彼女は煩わそうな顔で、後ろへと注意を向けた。
「どうも?」
私は身構えた。男を新たな飼い主であると思い、少々ナイーブになった。しかし、現実は多少ズレいていた。
「生前の功績が認められましたことをお伝えします。そのため、別の世界でその辣腕を振るって欲しいのですが……」
私は平々凡々な会社勤めだ。人を救うどころか、人との関わり合いも薄い方である。頭上に疑問符を浮かべながらも、男の言葉を待った。
「その際、大切なものを一つだけ、持ちだせます」
「なるほど、確かに、私の最も大切なものはキティだ」
「いえ、あなたこそがその大切なものなんです」
キティはやれやれとばかりに、なぁーう、と鳴いた。
どうやら、彼女は現世にて、英雄的な活躍をしてきたらしい。
彼女の耳はいつの間にか欠けていた。きっと、世界でも救って来たのだろう。或いは、彼女のあるがままを功績として認められたかだ。
私は大切なものに選ばれたことが喜ばしく、どこか、納得がいかないでいた。
そんな私の顔を見て、彼女は喉を鳴らして笑いをこらえた。
「それでは、どうぞ、更なるご活躍をお祈りしています」
男は深々と礼をした後、パチリと指を鳴らした。
私とキティは瞬く間に、底へと落下していく。
めくるめく視界は、様々な色彩を自在に映し、続く先は天上にも地獄の底にも思われた。結果から言えば、そのどちらでもなかった。
見渡す限りの大地に、空は高々と雲を呑み込んでいる。
我に返ると、私の足は地に付いていた。
私の身体は健康そのもので、病の息苦しさも消えていた。
新鮮な空気に興奮する私とは真逆に、キティは悠然と毛づくろいに勤しんでいる。
癒しを求めた私の手を払いのけ、彼女はさっそく屋根と食事の催促に、唸りをあげた。