風雪に遺るもの
旧文明──かつてこのリウィア大陸で栄華を極めたという文明は、大厄災「凍災」によって雪と氷の下に消えた。いまや当時のことを知る者はおらず、詳しい資料もほとんど残っていない。そんな旧文明の謎を解明し、隠された過去を明らかにするのが探索者の目的のひとつだ。
◇◆◇◆
エドルキア凍原北部、小規模の森林を抜けた先に広がる真っ白な氷床の上。そこには、たくさんの凍りついた箱状の建物が墓標のように突き刺さっている。
「すぅ……ふう……」
胸いっぱいに空気を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。体内をひんやりとした空気が循環し、落ち着いたような気がした。少しでも気を抜けば、眼前に広がる真っ白な世界に飲み込まれてしまいそうだ。
サクリサクリと雪を踏みしめる音を聞きながら歩いていくと、やがて視界が開け、目の前に現れたのは大きな噴水。勢いよく噴き出した水がそのまま凍りついてしまっている。
「すごい……」
その光景はまるで、寒波が時の流れすらも凍てつかせてしまったかのようだった。
「なんだか彫像みたいで、綺麗ですね……」
そう横で呟いたのは、私のバディである【ハル・ミニヤコンカ】だ。自分と同年代の見習い探索者で、大きな竹弓を背中に背負っている。
「うん。私も初めて見るな、こういうの」
素直な感想を口にすると、ハルは小さく微笑んで、「そうですね」と言い、そのまましばらく噴水を見つめていた。
なんとなく周囲を見回してみると、噴水を中心に複数の道が放射状に伸びているのが分かった。ここはおそらく「中央広場」みたいな場所なのだろう。
突然、強い風が吹いた。通りから別の通りへ、風に乗った雪が吹き込む。
「わっ」
ハルが小さな悲鳴をあげた。被っていたフードが脱げ、鮮やかな銀髪が露になる。
「大丈夫?」
「は、はい……」
彼女は少し恥ずかしそうに頷いた。そして、そそくさとフードを被り直す。
外界に吹く風はとても冷たい。防寒具を着込んでいても、露出している顔や装備の薄い手足がひりひりと痛む。先程の風は少し落ち着いたものの、まだびゅうびゅうと耳元で唸りを上げている。
それに交じって、何かの足音が急速に近づいてきた。細やかに雪を踏みしめる音だ。少なくとも人間のものではない、もっと軽い……小動物のような。
――そうなれば、答えは1つしかない。
「構えて!!」
とっさにハルの背中を庇うようにして前に出た。腰に差していた2本の短剣を抜き放ち、音がする方向に向かって構える。
その気配はまっすぐこちらに向かってきた。霧の中から現れたソレは、一見して狼のように見えた。しかし、それは明らかに普通ではなかった。まず大きさが違う。普通の個体よりもひと回りほど大きな体格。さらに、その体表には白濁色の結晶が鱗のようにまとわりついていた。
「氷原狼……ッ!」
その名を口にすると同時に、氷原狼の鋭い爪が襲いかかってきた。それを即座に短剣で受け止める。金属同士がぶつかり合うような甲高い音が響き、重い衝撃が腕を伝った。
氷原狼は素早く飛び退り、再びこちらに狙いを定める。その目は、まるで獲物を見つけた肉食獣のように爛々と輝いていた。
深く息をつき、「落ち着け」と心の中で自分に言い聞かせる。この程度の魔獣なら何度か戦った経験はある。恐れる必要なんてない。ゆっくりと腰を落とし、短剣を構え直す。
「ハル、援護お願い!」
「は、はい!」
ハルが弓を構えるのを横目に見つつ、私は氷原狼に向かって駆け出した。
それに呼応するように雪原狼は咆哮し、一直線に飛びかかってくる。
「ふっ!」
短く息を吐き、その突進に合わせて片方の短剣を突き出した。刃と鋭い爪が音を立てて衝突し、その衝撃で氷原狼は空中でバランスを崩した。その隙を逃さずもう一方の短剣を横に振りかぶる。その刃は氷原狼の胴体を捉え、肉を抉り、鮮血が飛び散った。
地面に投げ出された氷原狼は立ち上がり、痛みに悶えるように吠えながらこちらに向き直る。しかし、間髪入れずに飛んできた矢がその頭部に命中し、氷原狼は短い悲鳴を上げて崩れ落ちた。
――長い沈黙。神経を研ぎ澄ました耳に聞こえるのは、2人分の息と風の音だけ。
「倒せ……ましたか……?」
「多分、いけたはず……」
恐る恐る血だまりに倒れ伏す氷原狼に近づき、体表を短剣でつついてみる。何度か刺激してみたが、起き上がる気配はなさそうだった。
短剣を納めると共に、安堵で大きく息を吐いた。
ここまでたった十数秒の戦闘。それでも息は大きく乱れ、手はガクガクと震え、心臓が弾けんばかりに鼓動している。
ちらとハルの方を見ると、彼女も弓を持つ手が大きく震えていた。
「ハル、大丈夫?」
「え……? あ、はい! 大丈夫です!」
彼女はそう言ってにこりと笑って見せたが、明らかに無理をしている顔だった。
「風が強くなってきたね……。どこか、落ち着ける場所があればいいけど……」
「うーん……あっ、ティルアさん、あそこに……!」
彼女が指さした方向にあったのは、まだ外壁の残っているレンガ造りの建物。外壁にぽっかりと空いた穴が、私たちを誘い込むかのように口を開けていた。
ハルの手を引き、足早に建物の中に入る。真っ暗な屋内をライトで照らしてみると、目の前に現れたのは上階に続く螺旋階段だった。
「上に何かあるのでしょうか……?」
「……行ってみよう」
先を照らしながら、狭く暗い階段を一歩一歩、慎重に上っていく。コツンコツンと、ふたつの硬い足音が辺りに響き、風の音が少しづつ遠ざかっていく。しばらくして階段が終わり、広い空間にやってきた。
「ここは……」
目の前に飛び込んできたのは、部屋の隅々まで立ち並ぶ背の高い棚の群れ。しかし半分ほどが倒れて、雪を被っている。無事な棚の中には、分厚い本がまばらに並べられていた。
ここはおそらく、図書館だったのだろう。
「すごいです……旧文明の書籍がこんなに残っているなんて……!」
ハルが嬉しそうな声を上げ、駆け足で部屋の奥へ進んでいく。私も声こそ出さないものの、目の前の光景に目を輝かせずにはいられなかった。
これまでの探索でも本や紙の束を発見したことは何度もあったけれど、ほとんどが野ざらしで、ひどく破れ、朽ち果てていたものばかりだった。今の時代、失われた旧文明に関する書籍、情報、遺物はどんな宝石よりも価値を秘めている。
試しに適当な本を一冊引き抜き、手に持ってみた。革の表紙は年季の入った風合いをしているが、保存状態は良いようで、傷んでいる様子はない。表紙には『英雄譚』という文字がおぼろげに読み取れた。
1ページ目をめくり、びっしりと詰まった文章に目を走らせる。
《これは、一人の気弱な少女が人々を導く英雄の仲間になるまでの物語である》
ざっと見た感じ、小説か紀行文の類だろうか。
《少女には夢があった。世界の果ての、その先の景色を見てみたいという夢だ。青々とした木々を超え、赤土の大地を超えたその先に、一体何が待ち受けているのか――》
(青々とした木々、赤土の大地……)
今いる世界に、そんなものは無い。いや、無いと言えば嘘になる。葉っぱに積もった雪を払ってやったり、地面を掘り返してみれば、その「色」を見ることは容易い。
しかし、私が見たいのはそういうものじゃない。かつて、その色が当たり前に見えていた時代のこと、今から何百年前のことだろうか。私たちの祖先は確かにそのリウィア大陸に生きていたはずなのだ。どうして全てが雪と氷に埋もれたのか、私は知りたい。
本を閉じ、そっと棚に戻した。持って帰りたいと思ったが、それ以上に有用な資料を見つけるのが先決だ。
「ハル……?」
ふとハルのいる方に顔を向けると、彼女は一冊の本に目を向けていた。
それに描かれていたのは、一体の魔獣らしき生物。爬虫類の体は岩礁のようにゴツゴツとした外殻に覆われ、背中から大量の鋭い突起が生えている。それはまるで、小さなトカゲが山脈を支えているようだった。
「すごい造形……旧文明にもこんな魔獣がいたの……?」
説明文と思しき部分は掠れて読めなかったが、むしろそれがその生物の異質さを際立たせていた。
さらにページが捲られると、猪のような体躯に鮮やかなオレンジ色の体毛に鋭い爪を持つ魔獣や、鋭い牙が生えた魚型の魔獣が次々と目に飛び込んでくる。
ハルは、食い入るようにそのページを見つめていた。
「ハル?」
もう一度声をかけると、彼女はハッと我に帰ったようにこちらを向いた。そして、少し慌てた様子で口を開く。
「す、すみません……つい夢中になってしまって……」
「ううん、大丈夫。そういう本が好きなの?」
「あ……いえ……」
ハルはそう言うと、視線を逸らしてしまった。
少し間を置いてから、彼女は再び口を開いた。
「……実は私、研究者になりたいんです。特に、魔獣の特徴や生態について」
「研究者に?」
ハルは小さく頷く。
「はい。私、小さい頃から魔獣が大好きで、よく図書館で図鑑を読んでいたんです。それで、こんなに不思議な魔獣たちがどうやって生まれ、生きているのか知りたくて……」
そう言って、彼女は再び魔獣が描かれたページに目を向ける。茶色い羽毛と巨大な鉤爪を持った双頭の鳥型魔獣が、鋭利な眼光でこちらを睨みつけていた。
「そのためにまずは、探索者として経験を積むのがいいと思ったんです」
「そうだったんだ……」
私は小さく頷いた。
確かにハルの言う通り、探索者は魔獣についても多くのことを学べる職業だ。その経験を積み重ねていけば、きっと彼女の夢も叶うだろう。
「でも、本当にそれでいいの? もっと安全な方法もあると思うけど……」
「いえ、これがいいんです。だって、この図鑑に載っているような魔獣と実際に出会うことができるので」
静かで落ち着いた声、しかしそう言う彼女の目は、まるで夢見る純粋な子供のそれだった。
そんな姿を見て、言葉にできない懐かしさのようなものが込み上げてくる。
「そっか……。なら、私もハルの夢、応援するよ」
「……ありがとうございます!」
彼女は嬉しそうに微笑んだ。
それからしばらく調査を続け、数十冊の本を棚から持ち出すことができた。地形図や魔法に関する学術書、日記に詩集など、気になるものは色々あった。
(ひとまず、これぐらいでいいかな……)
通信機を取り出し、ベースキャンプにチャンネルを合わせる。
「こちらティルア・ナンガ。ハル・ミニヤコンカと共に図書館らしき建造物を発見。内部にて状態の良い資料を複数確保しました」
《こちらベースキャンプ、了解した。具体的にどのような資料を確保できたか、また現在の状況について報告してくれ》
「はい。歴史や魔法に関する学術書、ここら周辺のものと思しき地形図など――」
その時、何か音が聞こえてきた。
建物全体がわずかに低い音をたててどよめき、くぐもった音の群れが外から聞こえてくる。
《……どうした?》
「いえ、何やら外から物音が……」
窓の外を見た瞬間、言葉を失った。
さっきまで私たちがいた噴水の周囲に大量の魔獣が集まっている。その姿はさっき戦った氷原狼と瓜二つ。ざっと数えても20匹前後はいる。
間違いない。彼らはさっき殺された同胞に反応して……
《ティルア・ナンガ、どうしたんだ?》
「氷原狼の群れが、噴水の近くに集まっています……!」
《群れ、か……それなら一旦ほとぼりが冷めるまで、そこで待機していてくれ。下手に刺激しなければ徐々に散っていくはずだ》
「了解です。……すみません、おそらく私が討伐した個体が群れの仲間を呼び寄せたのだと思います」
《分かった。まぁ、こういうのは探索ではよくあることだから、あんまり気にしないほうがいいぞ。とにかく、落ち着いたらまた通信してくれ》
「はい、分かりました」
通信機をしまい、ハルの方に向き直る。彼女は弓をしっかり握りしめ、不安げな表情を浮かべていた。
「ティルアさん、あれは……」
「さっき倒した氷原狼に反応してきたんだと思う。魔獣が群れを成すのは知っていたけど、まさかこんなにいるなんて……」
その時、魔獣の咆哮が空気をビリビリと震わせた。ひと際巨体の、群れのリーダーらしき氷原狼が他の個体を鼓舞するように吼えている。そして、その眼光は明らかにこちらに向いていた。
(まずい……!)
思わず手が短剣の柄にかかっていた。はやる心を落ち着かせ、ハルの手を取る。
「ハル、逃げるよ!」
「あ、はい! でも資料は……」
「後からでも回収できるはず。今はとにかく安全な場所へ――」
《《ガシャンッッッ!!》》
刹那、目の前の窓ガラスが派手な音を立てて砕け散り、巨大な影が躍り出る。
スローモーションのように目に焼き付いたのは、氷柱のように冷たく光る牙と、こちらを睨みつける橙色の瞳。一際大きな体に巨大な氷の結晶をまとうその姿は──まさしく首魁の出で立ちだった。