夢見る場所。眠れる竜
眼前に阻む特殊構造扉の合金は回転警告灯の明かりで明滅をし始めた。サイレンの共振は高鳴る鼓動を脅かし内心を委縮させた。先刻の殺処分を経ていながらもこの体は死を忌避している。これは少し前向きな考えであり、事実そうではないことを悟らせるのは我々の身なりにある。身ぐるみをはがされ陰茎の1つ、乳房の2つをぶら下げるに至った道程はまるきり説明をなされなかった。
いつしか凍える体を寄せ合い暖を取り合う人の垣根が出来上がっている。俺もその仲間になればよかったものの、咥えさせられたリザーブマスクが干渉し、軋み合う音を毒に思ったからそうしなかった。甘っちょろい考えだと自省する。いや。いまさら何を努力したところで無駄な徒労に報われそうに思うのだからこれは自然的な着想になりえるのだろう。俺は彼らを拒んだ。そして彼らも俺を拒む。たったそれだけの話だった。
扉の開閉始動音がニュートライズ状態に切り替わり、サイレンが止んだ。間髪入れずにスピーカー出力へ変換された。ジジジ。耳障りなノイズが木霊するや否や守衛室のつなぎが点呼を行い、各々の装具を確かめる。その所作荒っぽく、しまいには殴打を喰らうかもと歯を食いしばったが、前髪をかき上げられ印字された番号を視認したに過ぎない。我々が準備万端なのを最終確認とし、散り散りに闇の中へ消えていった。
「一々説明したところできみたちには何の理解も示せないだろう」
教官は言った。
「無論、あえてそうしている。選ばれたきみたちだからその必要もない。習うより慣れよだ。想像力の貧相なやつでも大方の検討はついているように、死の瀬戸際まで達する。ゆめゆめ吸入器を手放すな。次に蘇生する保証はない」
回転灯が比類なき速さで回りだす。発色加減は扉に付着した赤錆が白々しく照らされる辺り、緑か何かなのだろう。乱反射する液面の発生は扉の向こう側がかなりの温度差があることを示していた。結露だ。膨大な量の液体、個体、空気のなにがしを貯蔵するその扉は緩やかに回転錠を解いていく。またとない外気が鼻孔をくすぐった。というより噎せるに近かった。瞼も満足に開けないそれが始まったと同時に一同の髪が乱される。転倒する。
その人数はいかにして無防備な状態に陥らせたのか。2011年以来の濁流が押し寄せてくるつかの間に命綱と断られたリザーブが一室の奥隅に流されていった。
こいつは死んだな。既に膝元の高さまで水位を上げる環境下にあって犬泳ぎならぬヨチヨチ歩きで後退する彼女。名前や後ろ髪も今となっては用を成さない事態になったのは好都合か。俺は彼女の水死体の相貌を予想した。餓鬼のように腹ぶくれして、眼球が飛び出し異様に青ざめた死に顔を。その名前と個人を照合するに相応しい言葉がたった二桁以下の数字なのだ。とんだ生臭坊主ですらもっと言葉を飾ってくれる。訳のない聞き流されるが為に考案された念仏とやらを唱えられ告別式を執り行い、遺族の傍ら骨になるまで見届けられるはずだった。その筈がそうなる確信を抱かせない。我々の遺体とは最終的にどこへ安置される?治外法権的に招かれたこの学校施設。一度は死んだとされる肉体。名のしれぬ顔に作り替えられた我々にとってもはや悲しむ人間など皆無らしかった。
水位は鎖骨を埋めるまでに至った。扉の開閉具合は二人ほどの人間が侵入できる幅を持ち、今もこうして水溶液を漏らす。あるいは我々をその口中に引きずり下ろすための涎か。
水溶液は粘着性を持ち、皮被りの陰茎にまたとない不愉快さをもたらした。出し抜けに誰かが叫んだ。
「アタシはそん中で何をすればいいんだ!」
もっともなご意見だ。だがその声は吸入器に遮られ聞き取りづらかった。それよか聞く耳を持たずといった教官の足並が目と鼻の距離にまで到達している。
そこは監視塔の役割を担う逆台形の箱。90㎜は超えるだろう半透明の防壁に一同はもがき近づいていた。あるものは粘着質を利用してヤモリのように這おうとしたり、突っかかりの部分に爪を挟んでその重量に見合わず生爪剥がされどっぷり浸かったり。あとはここに来た当初と変わりなかった。人の垣根。団子を作り蹴落とし合い、棲み処を追いやられたドブネズミのごとき群れ。後ろ髪を引っ張って毛根を抜き取るだけに過ぎなかったネズミがまた一人と落水する。教官の目は――。
俺は初めて人の顔を見ることができた。微笑のひとつでも讃えんほどの口元の綻び。鼻は悲観的な眼差しを際立てるために高く反りたち、その目が、眼球そのものが窪んで見えなくなっているように思えた。
妙な心得を知った俺は、彼女も同じ経験をしている、と思った。
「暴れるだけ暴れてもらって構わんが、体力を温存しておくことを忠告する。扉の向こうはさながら地獄だ。溺れ死なないようにな」
こちらからは見えない位置に何かがある。身を預けるように斜めった彼女の胴体、脚、スカートの下着までをも見通せると感じた途端、彼女自身が体勢を変えたのではないと知る。我々の自重が緩やかに落下していた。この一室を占める床が傾斜して粘液含めた人間どもが扉と呼ばれた穴の中へ流し込まれようなどとは思いもしなかった。
アーチを作ったドブネズミたちが一気に落水する。残されたのは浮けるだけの行為に専念する複製の自分。皆どこか安心し腐って徹頭徹尾、ドブネズミの乱痴気騒ぎに参加していませんよとでも言いたげな研ぎ澄ませっぷり。つかの間の静寂だった。
「傾斜がななめってる。てことは扉からうんと離れてれば溺れなくて済む」
俺は口走っていた。彼らの反応はうんともせず見放すような言い草で。
「どうせ真っ逆さまに落ちるんだ意味ないだろ」
「天井の板挟みになってミンチになったらさぞ楽でしょうけどやってみたら?」
「排水溝が設けられたらの話だが別の場所に行くかもな。その時はほんとの真っ逆さまだ。アタシはせめてクッションのある場所で穏やかに死にたいけど」
異口同音に揃えられたが結局は向こう側、あるいは下方へ潜水した方が無難だという判断がなされ、深呼吸と浮力の準備をし、頃合いを見計らって潜っていく。跳ね上げられた水溶液に顔をしかめながらも現状は刻一刻と危機を孕んできた。いくら粘性が高いとはいえ生身の体が50m超の水面に激突するリスクはいかんともしがたい。傾斜が緩やかなうちに蓄えられるだけの新鮮な空気を(どのみち溺れるんだからそれこそ意味ないだろ)前借とし潜っていく。もはや顎に差し掛かる水位だった。
自重の慣性に任せて潜水する気分はこころなしか穏やかだ。
格子に填められた非常灯は白々しい閃光を水中に灯す。ぼやけて見えた。その光を手掛かりに扉の向こう側と銘打たれた水没地帯へゆっくりと潜行する。まるでスキューバダイビングのように足の甲、くるぶし、足首をくねらせ光の差し込まない方へ泳いだ。有視界はせいぜい3m程だろうか。妙な液体のせいか眼球は痺れることもない。目を見開いて航行する画一的な水泳授業と言われれば、ほとんど娯楽である。進行方向の邪魔になる雑魚を除けばの話なのだが。
俺は志半ばに溺死となった女を跳ね除け、度々蹴っ飛ばしては底部への潜行をやめなかった。同胞の体もまちまち見てはいたが、陰茎から放たれたであろう白のもやに目が覆いかぶさるのをよしとしない。若干の迂回と姿勢制御の回転を交えて、リザーブマスクの泡があらぬ方向へと浮かぼうとした途端、体が硬直する。視線はその方向を垣間見ていた。息切れの心配、また低体温症のどれでもないことを悟っていながら、自分の頭がお釈迦になってしまった事実を疑いきれなかった。
海洋恐怖症、巨大海洋生物恐怖症のどれとも縁はない。合わさりそうで合わされぬ巡り合いと鉢合わせた巨大水槽恐怖症の概念がほんの数十センチ満たぬところにあったというショック。そして水槽の中で身じろぎ1つしないつぶらな瞳を漫然と見てしまえば脳梁に釣り鐘でもかけられたかのように鈍痛が響く。
現代には生きていないはずだった。アフリカ大陸の未開拓密林地帯に羽毛を生やす始祖鳥の生き残りがいるとはオカルトで聞き及んではいたが、急激な気候変動と海面上昇の影響で陸上ほど神秘に満ちていない世界だと理解している。その対象物、すなわち白亜水棲生物の体躯が収まっていた。
トチ狂いついでに水槽の外壁に両の手をピタリと合わせてその全貌を見届けた。もはや逃げる場所などない。この水槽の仕切りがひとたびに解放されれば食い殺されること間違いないのだし、衝突を避けきれずヒレに叩かれて脳震盪を起こすのもいいだろう。ただ人間はありえもしない事実へぶち当たったときに極めて観察を継続するしか道がないように思われるのだ。
ほの暗い水槽は泡を立ち込めていつしか明灰色に置換される。生殖器官から述べて痩せこけ透けてみえる肋骨、四枚のヒレ、所々腐敗が進んだ首筋。首の皮一枚でつながってるとはこのことを指すのか。すべての部位に電極等を差し込まれ現代科学のICUに担ぎ込まれた哀れな首長竜。粘性液体の注水はこちらと同程度だった。