殺せる?
廊下中にサイレンがこだまする。図書室、教室、医務室に至るまでの空虚な細道を突風のように脅かして、最後にはここ寮部屋へたどり着く。この施設は一目瞭然、学校施設だ。教育を受けるための設備は完備され、何ならその実践的な訓練を受ける場は地下室にあるのだと、守衛室の奥へ足を踏み入れた途端断られた。
「本日のカリキュラムに訓練は組まれていない。戻れ」
窓口からやせぐれた調子のつなぎはそう言う。そして言うことが聞けないのであればいつでも制裁を加える準備ができているといわんばかりに、腰元のトンファーを軽く揺すった。
所謂、行き止まり。その相好は似ても似つかなく、合金を穿ち、厚さにして60㎝を優に超える特殊構造扉。長期にわたって熱排気の野ざらしになっていたのだろう。所々に赤錆が目立った。
「ここに居座る気はないよ。ただ、煙草を切らしちゃってさ。付近に売店でもないのかね」
つなぎは視線を移ろいもせず、胸ポケットからマルボロを取り出した。安直な質問と、安易な譲渡にこいつらの良心とは一体どこにあるのか、なかんずく理解を示せなかったがそれでいい。彼は俺のことを誰とも思っていない。誰だろうと知ったことではないのだ。ここの生徒は虜囚であり、彼らはそれを逐一に観察する業務がある。視覚外に監視カメラがあることに気が付いた。現在進行形でモニターされている自分の姿を思うと、いたずら心も芽生えてしまうので、俺は誰でもない相手、カメラに向かって辞儀をする。召し上がった煙草に馬鹿同然の喜びをもって。
さて、こんな異質な空間にも慣れてきてしまったわけだ。サイレンの鳴る数時間前から尻を埋め、一服を済ませていると、同業者の姿もちらほら見える。あいつは、番号は見えないが特有の項垂れ方をするあたり、男で間違いないらしい。やけに落ち着いた様子を研ぎ澄ませていると思えば、傍らに蠢く何かがいる。寝室は男女共用。言ってみれば無法地帯の豚箱なわけで、粗方女とのまぐわいを済ませてしまったのだろう。お盛んなことだ。いや、夜這いしたのか。シーツにうずくまりなお一層布地を手繰り寄せる芋虫は小刻みに震えていた。
レイプだったのかな。話は前後するようでサイレンが鳴り響く。みな無言に寝台から足を引きずり出して、慣れもしていないベッドメイクを行う。この行為自体は何の指示もなかった。たかだが数人が瞑想めいたルーチンを執り行うせいで次第に伝播し始めてきた。たったそれだけなのに、日本人の足並みは寸分の違いなく揃ってしまう。犯罪者と不良児童との組み合わせは意外にも合致するのやも知れなかった。
「さぁ飯!飯に行こう」
有象無象が仕切りだし、寝室の奥間を全員が後にする。俺はいつだって後手を残し、あるいは観察の立場にさえあると自分の立ち振る舞いを確立していた。後方のもっと後方に忍び寄ろうとしたとき、何の予備動作もなく腕を掴まれて前方に押し上げられる。俺のルーチンを阻むバカは誰だよ。抗議の目を送るが、その的に当たった額は12だ。今はまだ友好関係にあるらしい彼女の返答は「早く歩きなよ、後ろがつかえてる」よくもまぁ言ったもんだ。自分から居座りなおしたくせに。俺は無言の承知を示した。
――。
取り皿から自分の食いたいもの、好きな量だけをぶっこむ。配慮のかけらを感じられないそれに圧倒され抜き、結果自前の食い扶持は芋のかけら1つ。バケツ底からようやっと掬い上げられるだけの残飯的汁、それのみだった。幸いにして食は細い方だ。柄にもなくがっつけば胃の滞留物にたちまち不和を起こしてゲロする。そういうもんだと思い込んでいたはずが、ここ最近は食欲に対する執念がより勝るように感じていた。まさか。顔面の整形手術だけでなく、胃の拡張手術も人為的になした?
にしては違和感がある。食事に対する行為・選択は短期間のスパンにおいて早々変わるものでもない。三大欲求の第一はクスリによって置き換えられた。それはコデインの代謝で無心に習得した仙人的領地でもあった。飲まず食わずでもやっていける、そんな無敵感が今となっては古い記憶となって残りかす程度にすら感じない。
丸フォークで芋を転がしながらうつつと考えていた。
「無駄に食べないってことは精神力のタフネスがあることの証拠だよ」
親指で食いカスを拭き取りながら12番は言った。どうして食事の際まで俺につきっきりなのだろう。
「馬鹿言うな。俺たちは食い物競争に負けだけだ。何がタフネスだ」
「じゃあ勝ちたい?次の機会にすべてをかけて」
「こいつらに勝って何の意味がある」俺は言葉を忍ばせた。「掃きだめのクズだ」
彼女は鼻で笑った。というより声を潜めて言う俺の所作をおかしくおもったのだろう。
「まるで自分は例外だ、みたいな言い方じゃん。隣を見てみなって。同じ面が並んでる。これって自分に悪口を言ったのと同じじゃない?」
掌で差し向けられる方を見ると確かに男連中は俺の隣に坐していた。肩を並べてとまでは言うまいが、そこはかとなく似た者同士で寄り添い合い、傷をなめ合うようないたわり仕草。湿っぽさを漂わせながら孤立している。
俺もそのうちの一人だったのだろうか。否、この席は遅れるがまま、そう、あえて遅らせることによって自分の存在を誇示するためのアピールでもあったのだ。それが何か。予想を反するどころか既定路線とでもいうべく負け犬のガキがぞろぞろと。
このフォークが丸みさえ帯びていなければ、俺は真っ先に彼らの内ひとりを刺し殺していた。俺と似たようなことをするな。亡者共が。断ち切られる寸での糸にすがっている自覚はある。その姿が滑稽に思えたとしても。それを馬鹿にされようとも。俺はまだアイデンティティを失ったつもりはない。
「おーい?一人で白熱してるとこ悪いんだけど話はまだ終わってないよ」
「話って!」
「自分と瓜二つな人間に勝てるかどうかってこと、つまりは――殺せる?自分のことを」
「自分の嫌いなところはいくらでもある。だから――殺せはするんだろ。ちゃんとした理由があるんだから……」
「それは理由としてちょっと弱いよね」
「うるさい」
「火のない所に煙は立たぬ。でもないみたい。今のお前を見てるとなんかすっごい意欲が湧くんだよね!その燻ぶった感じ、マジ滑稽。アハハ」
せせら笑いながら彼女は平らげたトレーを引っ提げ、こちらの睨みには一切関与せず食堂から退出していった。俺はふと両隣の同胞に目を配って、今の拳が自分に通用するかの思案に喘いだが結局不可能に終わった。話は最後まで聞いてた。やめなよ。冷静な一言がこの場を制す。