出立
次の日。
僕は夜明けとともに家を出ることにした。
手荷物はない。
この上なく身軽だ。
自由気ままに過ごしているうちに、3ヶ月もお世話になっていたらしい祠の中にある我が家。
玄関から見える光景は、初めて足を踏み入れたときから何も変わっていない。
ただ、今は愛着があった。
少し寂しい気もした。
けれど、僕は思い切って外に出た。
これ以上ここにいたら、ずっと住んでいたくなってしまうかもしれない。
それはそれで寂しい話だ。
人がいなくて、孤独を感じて。
世界中を旅して、またいつかだ。
またいつか思い出の地として再びここを訪れよう。
外に出ると、祠の前に小さな籠が落ちていた。
これか、レンティア様が言ってたのは。
なになに。
中を見る。
紙に包まれたサンドイッチが1つ。
硬貨が入った小さめの袋。
それと折りたたまれた手紙が入っていた。
手紙には最も近い街までの道のりが描かれている。
「……ん?」
なんか、街まで100km近くあるらしいんだけど。
見間違いかと思ったが、何度見ても変わりはない。
その上、レンティア様は文面で『すぐ着くと思うからパパッと行ってくれ』と事も無げな様子。
うーん……。
どうなんだ、これは?
それに出立のサポートまでしてもらっているから非常に言いにくいけれど、100kmを軽食1つでって。
……いや、そうか。
もしかすると日々の運動で把握している今の身体能力でなら。
あまり考えても意味はない。
アイテムボックスと念じると、手元にあった籠がふっと消えた。
よし。
家の物とは違い、これは収納できるみたいだ。
あとは好きなときに取り出したいと思えば、再び手元に現れる。
いくつかの検証の結果、別の時空に収納している間は物体の時間が止まり、劣化しないことがわかっている。
改めて、便利なスキルだ。
一応容量制限があるとはいえ、膨大な量を収納できるし。
僕は最後に巨木を見上げ、祠に手を合わせた。
そして手紙に書いてある方向に向かって、朝露で濡れた草を踏みしめ歩き出した。
白い花が群生する一角を抜け、森に入る。
周囲には大きな木々ばかり。
祠の傍にあった巨木に比べると小さいが、ここにある1本1本が日本で生活している頃はなかなかお目にかかれなかったレベルの大きさだ。
神聖な雰囲気の森を進む。
高い木々の隙間から差した木漏れ日。
澄んだ空気。
不安定な足場に慣れると、僕は軽く走り出した。
少しずつスピードを上げていく。
段々とそれは速くなり、そしてやがて……。
風を切り、森の中をばく進する。
車輪のように回転する脚。
自分でも非現実的な足の速さだと思う。
ゴォオオオッと耳元で風が過ぎる音がした。
たしかに。
この速さだったら100kmくらいそんなにかからないかも。
今までは祠の周りを軽く走るくらいだったもんな。
短距離をダッシュするのとは違い、ぐんぐんと進むランニングが楽しくなってきた。
周りの木が普通サイズに近づいていく。
少しずつ明るくなってきた森の中。
すると突然、
「──うわっ」
視界が開けた。
木々が途切れ、目の前には大地の裂け目のような風景が広がっていた。
寸での所で僕は足を止め、急停止する。
あ、危なかった……。
目と鼻の先は断崖絶壁だ。
見下ろすと、崖の底まで高層ビルが丸々収まっても足りないほどの距離があった。
崖下にも森が広がっている。
裂け目の対岸は数百メートルくらい離れていそうだ。
しかしその間に、20m間隔ほどで点々とそびえ立った岩柱がある。
この場所、もしかして?
いや……でも、1時間くらいしか走ってないはずなんだけどなあ。
アイテムボックスから手紙を取り出し、街までの道のりを再確認する。
やっぱり。
描いてあるとおりの景色だもんな。
……じゃあ、ここが?
祠から4、50kmの位置にある大地溝。
神族の許可なしでは人類が立ち入ることのできない神域と、その外を隔てる場所で間違いないらしい。
今もまだ、太陽は昇りきっていない。
ということはだ。
僕は4、50kmをそんな短時間で走ったと?
たしかに考えられないくらい足は速かったし、息切れもしてないくらいだけど。
女神様の使徒の体って、一体どうなってるんだ……。
予定以上の順調ぶり。
もうここまで来たら、一気に街を目指そう。
この身体能力でなら、最初はどういうことだと思っていたレンティア様おすすめの大地溝の越え方も問題なくできそうだし。
まあ、結構怖いけど。
手紙をアイテムボックスに片付ける。
そして僕は一度後ろに下がり、息を整えた。
すぅーはぁー。
よーし。
いくぞっ。
全速力で駆け抜け、タイミング良くジャンプ。
重力に反するように、ぶわぁっと空中に投げ出される体。
不思議なくらい長い浮遊感のあと、着地したのは20mほど先にそびえ立っていた岩柱の上。
バランスを崩さず上手く着地して、そのままの勢いで次の岩柱へと跳んでいく。
楽しくて、思わず叫んでしまった。
跳躍を繰り返し対岸に到着すると、先ほどまでいた神域の外に出たと実感することができた。
まず、空気が違う。
神聖さみたいなのがなくなっている気がする。
それにこっちは雑多な気配を感じるな。
最後に神域の方を見て、また走り出す。
全力疾走で行こう。
この調子だと獣道を抜けるといっても、正午くらいには街へ辿り着けそうだ。
30分ほど走ると、遠くの小高い場所に街道が見えた。
いよいよ異世界の街、人々とのファーストコンタクトか。
高鳴る胸に急かされながら街道を目指そうとする。
と、そこで。
視界の端に何かが入った。
目を向けてみると街道の左手の空に大きな鳥――ではなく、小さめのドラゴンのような生物が飛んでいるのが見えた。
空中を旋回しながら、地上の何かを襲っている。
あれは……。
馬車、それに人だ。