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女王陛下来たる

 匠が家に帰ると、玄関にレイラが出て来た。匠は夢を見ている気がした。自分の家に、育ての親と産みの親が一緒にいる。ついこの間まで、会いたくない気持ちが、会ってみたいに変わったばかりとは思えない急展開だ。


「匠、素晴らしいパフォーマンスだったね」

「有難う。銀賞で残念だったけど。今日は、うちに泊まっていくんでしょ?」

レイラが頷く。

「さっきまで匠の小さい時の写真を見せてもらっていた。あとで匠の写真を何枚かもらう約束をした」

レイラは先ほど、洋子から匠の写真を見せられた後、菊の部屋でも写真をいくつか見せてもらっていた。若い頃の菊の写真もあれば、透の子供の時の写真や、綺麗にカードのように作られている、見知らぬ女性の写真もあった。


「匠〜、玄関で立ち話していないで、早くご飯食べよう、みんな待っているよ。 今日はお寿司をとったし、透ちゃんが、匠の好きな生春巻き作ってくれてるよ」

洋子がいつもの様に呼んでいる。その後に、いつもは聞こえてくる筈のないアントンの声が聞こえる。

「あの春巻きは透が作ったのか?」

レイラもそれを聞き、

「是非、食べなくちゃね。アントンは透に胃袋を掴まれてしまった様だし」

「透ちゃんは料理が上手なんだよ。生春巻きは簡単だけどね」

匠は帰宅して家の中に入るのに、いつもの家が自分の家ではない様な気がしてしまった。まるで見たことのない大輪の美しい花々が、家のあちこちに活けられているような華やかな感じがした。


 匠がダイニングに入ると、和人がアントンと一緒に、マルコヴィッチ相手にミラクルドライビールを勧めている。リビングの方では、レイラの横に洋子と菊が座って居り、ローテーブルの上に匠の小さい頃のアルバムが広げてある。透はキッチンにいる様だ。和やかな雰囲気を見て、匠はほっとした。

 賑やかな夕食も終わり、洋子がレイラに声をかける。

「お客さんだから、先にお風呂どうぞ。」

一緒に行って、使い方を説明する。パジャマは洋子の物を貸す様だ。アントンは遠慮しているらしく言った。

「我々は最後でイイデス」


 匠がふと気がついた。透とレイラは常に離れて座っている。レイラがリビングの方にいれば、透はキッチンの方、レイラがダイニングの方にいれば、透はリビングと、一緒にいない。レイラの後、菊がお風呂から出た後、洋子は透に声をかけた。

「透ちゃん、次に入れば?」

匠がすかさず、答えた。

「俺も一緒に入る。背中流すよ」

レイラとアントンが驚き、心なしか青ざめた顔で透と匠を見ている。

「一緒にお風呂に入るって……」

透が言添える。

「日本では、親子が一緒にお風呂に入るのは普通の事なんだよ。匠と私は親子ではないけれど。同性なら普通のことだよ。異性であっても10歳くらいまでは、親子で一緒にお風呂に入っている家もたくさんある。温泉に行けば、私も匠と義兄さんと一緒に入る。湯船に一緒に浸かる文化は、日本独特かもしれないね。友人同士で温泉に行くこともあるよ」

「知らなかった……。日本に住んでいても、日本人と一緒に住まなければ分からない事があるんだね。匠は、その、洋子さんと今でも一緒にお風呂に入っているのかな?」

レイラは、もし洋子が今も入っていると答えたら、覚悟を決めて一緒に入らなければならない、と思ったらしい。

「安心して下さい。入っていませんよ。小学校2年生くらいまでは一緒に入っていたけれど」

洋子が笑いながら答えたので、レイラはほっとした。レイラは自分の子供と一緒にお風呂に入った事など無かったのだ。そういう事は全て乳母がやっていた。


 いくら親子とはいえ、こんな綺麗な人と一緒に、と考えただけで、匠は顔が真っ赤になった。

「欧米なら、異性の子供と一緒にお風呂なんて言ったら、性的虐待です。同性であっても、シャワーで体を洗ってあげるのは幼い頃だけ……」

二人は驚いた様子で、マルコヴィッチにも訳して聞かせている。

「アントンも一緒に入るか?」

透が尋ねると、アントンが驚いて赤くなり、声が裏返った。

「エェッ! わ、私?!」

レイラがすぐさま、きっとアントンを睨んだ。アントンは青くなって、答えた。

「遠慮しておく……」

透と一緒にお風呂に入ったりしたら、レイラがどんな難題を言いつけてくるかわからない、とアントンは危惧した。結局、アントンは遅くなりそうだった為、マルコヴィッチと一緒にお風呂に入ることになったのだが。


 一方、お風呂場。築地家には、3人くらいは一緒に使える洗い場と、同じく3人くらいは一緒に浸かれる湯船がある。

「なんで、滅多に会えないのに、二人とも離れて座ってんの?」

匠が疑問に思っていた事を口にした。

「レイラは、今日は匠の母として、うちに来ている。レイラが、匠の家族の事を直接知る機会はあまりない。だから、積極的に家族と話をしているレイラを見て、匠にはそう思うんだろうね。私はそんなレイラの邪魔をしたくないんだ」

「みんなのレイラに対する印象が変わったみたいだよね。とても、透ちゃんを救出しに来た人と同じ人とは思えないよ」

「そうだな。あの勢いでうちに来たら、みんな引いてしまうし、怖くて近寄れないな」

透は笑いながら答えた。匠は、それだけじゃなくて、と思ったが口にしない。

「ちゃんと匠のことを考えて、行動しているんだよ。それはそうと、寝る前に、レイラにきちんと挨拶をした方がいい」

「わかった。さっき、レイラとアントンが驚いていたけど、文化が違うって、面白いね」

「そうだね。そうやって面白がっていられれば、どこでも暮らしていかれるよ。そろそろ出た方がいいぞ。あまり茹で蛸みたいに真っ赤になって出て行くと、虐待を疑われてしまうからね」


 匠は透に言われた通り、寝る前にレイラの所へ行って、挨拶をした。

「今日はわざわざ来てくれて、有難う。おやすみなさい」

レイラは匠のおでこにキスをした。

「おやすみなさい」

匠は驚いて硬直している所を家族に笑われてしまい、自分の部屋へ階段を一段飛ばしで駆け上がって行った。

「これも習慣が違うのかな?」

レイラが不思議そうに問う。

「日本では、おやすみなさい、しか言わないかな」

洋子が吹き出しながら、答える。

「匠はイギリスに住んでいた事があるけれど、私たちと一緒だったから、カルチャーギャップは家の外だけ。家の中は日本と同じだったから」

「それは日本に住んでいた私も同じかな」

透は洋子とレイラが話しているのを横目に、

「おやすみ」

と言って、階段を上って行った。洋子とレイラの声が揃った。

「おやすみ」

しばらく、階段を見上げていたレイラに、

「弟を助けてくれて、有難う」

洋子が頭を下げた。レイラは頭を振った。

「元はと言えば私に関わったせいで起こった事だから、助けに行くのは当たり前です」

「正直言って、匠を連れて行って欲しくない気持ちが、まだあるけれど」

「それも当然だと思います。ここまで立派に育ててくれたのですから。いきなり、私の様な者が親ですと、突然現れて、戸惑う気持ちはわかります」

「でも、匠もいずれは、そちらに行かなくてはならない。それはわかっているから……。それはそうと、母は、もう自分の部屋に行って休んでいるし、私は気にしないから」

洋子が意味ありげに、レイラを見た。

「何をですか?」

レイラは首を傾げる。

「あなたが弟の部屋へ行っても、気にしないから」

レイラの頬が赤くなった。洋子はそれを見て微笑んだ。レイラは想像していた人物とは良い意味で、だいぶ違った。

「洋子さん、まだ透から返事をもらっていません。ですから行きません。でも、おやすみの挨拶をしに行って来ますね」

そう言って、ゆっくり階段を上って行った。女の洋子から見ても、階段を上がっていくレイラの後ろ姿は、うっとりする程美しかった。洋子はハッとして、レイラの後ろ姿に声をかける。

「弟の部屋は突き当たりの右だから」

護衛として後を追わなくてはと、付いていこうとするマルコヴィッチをアントンが引き止める。

「邪魔をしてはいけない」


 レイラが透の部屋のドアをノックする。躊躇いがちなノックに、透が出てきた。

「どうかした?」

「洋子さんから、透の部屋へ入る許可が下りた」

透が一瞬、困った顔をする。

「でも、返事はもらっていないから……今はおやすみの挨拶をしに来た」

先ほどの匠とレイラのやりとりを思い出し、レイラが届くように、透は少しかがんだ。レイラが額にキスした。

「私もお返しするのかな?」

レイラが頷く。透はそっとレイラの額に唇を当てた。

「高校時代の悪戯な誰かさんの挨拶のお返しを」

透はそう言うと、さっとレイラの唇に触れるか触れないかのキスをしたかと思うと、ドアの向こうへ引っ込んだ。

「レイラ、おやすみ、良い夢を」

レイラはドアのパタンと閉まる音で、ハッとした。いつもレイラからばかりで、透の方からは初めてだった。レイラがふわふわした足取りで、洋子におやすみを言おうと下りたが、洋子はもう自室へ引き上げた後だった。レイラはゲストルームにと割り当てられた二階の部屋へ入って行った。それを見たアントンは、やはり、すぐに二階へ上がらなくて良かったと思った。最近、レイラ様は幸せそうだと、自分の事の様に嬉しく思った。このまま順調にいけば、あとは二人の間に後継者が生まれるのを待つだけであり、そうなればサファノバも安泰であると。


 翌朝。

 レイラ一行は透に送られて、帰国の途についた。匠はレイラに11月の軽音コンテストにも来てくれる様、念押ししてから登校した。匠はその日一日、何をやっていても上の空だった。レイラが自宅で一緒に過ごした事で、自分がレイラの後継者だという事実が、だんだん現実的なものになって来た。自分以外に家族を失ってしまったレイラに、ついていてあげたい気持ちと、今の生活が失われる怖さとの間を、気持ちの振り子が行ったり来たりしていた。


 透はレイラに、羽田に向かう間に、日本の企業と石油や天然ガスの売買をする気があるか聞いた。レイラが何度も日本とサファノバを行ったり来たりしていては、不自然に思われるかもしれなかった。貿易を始めると言う名目があれば来日する事は、おかしくはない。透は、つてを辿って、石油元売り大手や、商社、天然ガスを扱う所を紹介すると、伝えた。うまくいけば、レイラが日本に来る良い隠蓑になるし、サファノバは日本と貿易もできる為、一石二鳥のはずだ。レイラも賛成し、次回自分がくる時に、事務官を連れて来る約束をした。


 欧州連合に加盟したばかりで、まだ不安定な今、自分の様に匠が誘拐されてからでは遅い、と透は危機感を持っていた。今回の誘拐犯は、あまりやる気のない誘拐犯だったが、これがもし大国がやった事であれば、無傷では済まなかったに違いない。透は何か起こる前に、打てるだけの手は打っておきたかった。匠が殺されてしまうなど考えたくもないし、万が一、匠に何かあったら、レイラには肉親がいなくなってしまう。

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