おかあさんはなぜここに居る
次に意識が戻ったとき、あたりは薄暗くなっていた。どんよりとよどんだ空気に、キョウコは動揺した。隣にいる影も、はっきりとは見えないが、明らかにホーロの大きさとは違っていた。
「あれ……? え、もやしちゃん? あれ? さっきの、あれ? 時計屋さんは?」
そのときだった。隣にいる影が、
「キョウコ」
自分の名を呼んだ。キョウコはそのときはっきり、隣に並ぶ影が誰なのかを認識し、そして、一層動揺が激しくなった。思わず、彼女は手を振りほどいた。
「おかあさん……?」
振りほどいた手は自分の母のものだった。そんな馬鹿な、とキョウコは思ったが、目の前の母は構わずに話を続けた。
「きょうは塾の日だったでしょう? どうしたの?」
「塾って、やだ、もうわたし学校は……」
「何を言っているの。塾にも、高校にも、高いお金がかかっているんですからね、いい大学に行って、早くわたしを楽にしてちょうだい」
「おかあさんこそ何言ってるの、わたし、学校やめたじゃない! お金だったら働いて返すからって、言ったじゃない!」
そうだ。自分は高校で手酷いいじめにあい、中退した。記憶が一気にフラッシュバックして、キョウコは混乱した。
「学校をやめる……? 許しませんよ! 高校中退なんて、ご近所からなんて言われるか!」
「おかあさんはご近所のほうが大事なの? わたしはあの学校にいたら死んじゃう、だからやめたのに!」
「学校でそんなことがあるわけないじゃない、ここらでは一流って言われてるのよ」
キョウコは自分でも驚くくらいに、初めて、言葉をぶつけた。
「おかあさんはいつもそうだった、周りの評判ばっかり気にして。わたしが学校でどんな目にあったか、わかろうともしなかった!」
「キョウコが楽に生きていくためですからね。そのためならお金もかけるし、何でもするわよ、わたしは」
母は酔ったように言葉をつむぎだす。
そうだ、あの時も、こんなふうに言われたのだった――キョウコは思い出す。そうして彼女は、あの日どうしても聞けなかったことを、聞いた。
「……おかあさんは、わたしにお金をかけて、どうしたかったの? 思い通りに動かしたかったの?」
「子どもというのはそういうものよ。親の思い通りに生きていくのが子どもよ」
「ちがう……」
母の高揚したテンションに、キョウコは首を振った。
「違わないわ。親はね、子どもよりずっとずっとたくさんの時間を生きているの。親の言うことを聞いていれば、生きていくのに間違いはないのよ」
「ちがう! お母さんの言う道なら、失敗はしないかもしれない、でも、それって、楽しくない! 失敗しながらでも、自分の選んだ道を生きていきたい!」
「生意気を言うんじゃないのよ! 子どものくせに!」
「おかあさんは? おかあさんは楽しかったの? わたしは楽しくなかったよ!」
はっきりと。そう断言できた。心のどこかが、なぜか、あたたかくなっていた。
「わたし、自分の人生は、自分で責任をもつ。アルバイトだけど、働くの、楽しいよ。お金貯めたら、もういちど、勉強しなおそうかなって、思うの」
まさにキョウコがいまそうして、考えていることを、母にぶつけた。こんなにも本音で母と話をしたのは、彼女自身、初めてのことだった。
「キョウコ……」
「見守ってて、おかあさん。たくさん失敗すると思うけど……いま、わたし、とっても楽しいし、しあわせなんだ。がんばるから。いっぱい、がんばるから」
遠くで、時計の秒針を刻む音がした。
母はキョウコを抱きしめると、無言で微笑んだ。
「話せてよかった、おかあさん。ありがとう」
その様子を、ひとりの少女が遠くから眺めていた。
それはホーロでもキョウコでもない、別の何者かだった。彼女はすこし、悲しそうな瞳でふたりを見つめると、ふいといなくなる。
そのことに、キョウコは気がつかなかった。
かちりと時計の針が合う音がして、また、キョウコの意識は一瞬だけ遠くなった。
次にキョウコが気がついたとき、そこはもう時計屋の中だった。
「――――あれっ……」