元最強騎士、旅立ちの予感
「どうぞ……」
コトン。
モニカが、コーヒーの入ったカップを、サキガケの前に出す。
サキガケはいつものように黒い頭巾で顔を覆ってはおらず、今にも泣き出しそうな顔で、ギュッと自身の穿いている袴の裾を握りしめたまま、俯いていた。
「か、かたじけない……」
サキガケはやがて顔を上げて礼を言うと、出されたコーヒーに口をつけた。
「うぇぇ……にっがぁ……」
あまりの苦さに、顔をしかめながら体をのけぞらせるサキガケ。
「なに……なんでござる、これ? いじめられるの? 拙者? もう帰れって?」
「え? サキガケさん、コーヒー、知らないの?」
「ニン。こおしい……? いや、知ってるでござるよ」
「そうなの? じゃあ、千都のとは味が違うのかな……」
「あの、雨の日の次に、道がくぼんでる所に溜まってるアレでござろう?」
「いや、泥水じゃないよ! コーヒーだよ、コーヒー! なんで人に泥水出すのさ!」
「だからいじめられてるのかと……でも、え? これ泥水のホットじゃないのでござる?」
「いや、泥水のホットって何。……サクランボは知ってる?」
「好物でござる」
「それに近い見た目の赤い実の……」
「果汁にござる?」
「ううん。その実から種を取り出して、焙煎させて、潰して、それを抽出したものだよ」
「た、種だけを……?」
「うん」
「なんでそんなことするん……?」
「おいしいからじゃない?」
「飲めたもんじゃないでござるが……」
「牛乳とか入れたらまろやかにはなるけど……でも、香りはいいでしょ?」
すんすんすん。
サキガケはまるで猫のように、カップに鼻を近づけて匂いを嗅いだ。
「おお、たしかに。香りは……ふむ、なるほど。これがうわさに聞く香水というやつでござるな?」
「いや、コーヒーって言ってんじゃん……」
「お砂糖、いりますか……?」
砂糖の入った小瓶を持って、ブリギットが現れる。
「あ、なぁるほど。砂糖を入れて飲むのでござるか! かたじけない!」
サキガケはブリギットから小瓶を受け取ると、中に入っていた砂糖をすべてカップの中へ入れた。
ゴリゴリ……ジャリジャリ……ゴリ……ジャリジャリ……。
ティースプーンを一周させるごとに、まるで石臼で蕎麦の実を引くような音が、店内に響き渡る。
それを見ていたモニカとブリギットは、口角を引き攣らせてドン引きしている。
やがて満足したのか、サキガケは持っていたティースプーンを受け皿に置くと、ゆっくりとコーヒーに口をつけた。
「うぇぇ……あンまぁ……」
あまりの甘さに、顔をしかめながら体をのけぞらせるサキガケ。
「さ、さて、お約束っぽいネタをやったところで……」
収拾がつかなくなると感じたのか、モニカが場の空気を変えるように手を叩く。
「あなたが、その……サキガケさんなんだよね?」
「ニン」
「……ごめん。それは肯定してるって事でいいの?」
「あ、申し訳ない。これは……その、拙者のクセみたいなものでござる。普通にスルーしてもらって構わないでござる」
「ああ、うん。ま、いいんだけど。それで、あなたがサキガケさんなんだよね?」
「ニン」
「殴るよ?」
「ご、ごめん。……拙者の名は魁。ここより東に位置する国、千都より観こ……使命を帯びてきた、魔物殺しにござる」
「うん、話はガレイトさんから聞いてるよ。熊肉、ありがとうね」
「いえ、元々拙者には食いきれん量でござったし、そもそも熊肉好きじゃないし」
「ああ、そうなんだ」
「だから、気にしないでほしいでござる。拙者も、無事熊の頭骨を頂いたわけでござるし。……それで、がれいと殿は? あと、ぐらとにぃも……」
「グラトニーちゃんは、なんか顔を合わせるのが面倒くさいってさ」
「め、めんどうくさい……して、がれいと殿は……」
「ガレイトさんは、さっきからずっとトイレにこもってるよ」
「ずっと、トイレに……?」
「ああ、うん。間違えて、熊肉を運んでた手を舐めちゃったんだって」
「ドジっ子?! いや、あの毒を舐めるのって、結構危ない気が……」
「へーきへーき、ガレイトさん、しょっちゅうお腹壊してるから、慣れてると思う」
「いや、それはそれで、なんか違うと思うでござるが……」
「それで? サキガケさんはどうしてここへ?」
「ああ、そうでござったな。……もにか殿、がれいと殿から、次回の波浪輪悪定例会の開催国を聞いたでござる?」
「ああ、うん。たしかヴィルヘルムだったよね? それがどうかしたの?」
「……じつは、その、がれいと殿についてきてほしいんでござる」
「ついてきてほしい……? どういうこと?」
「というのも拙者、極度の方向音痴かつあがり症で……じつはここ、ぐらんてぃへ来るにも一苦労で、ぶっちゃけ家を出てから二ヶ月ほどかかったのでござる」
「に、二ヶ月……!? たしかグランティから千都って、早くて日帰りで行ける距離だよね? 泳いで来たの?」
「きちんと定期便に乗ってきたでござるよ」
「それでも一日もかからないんじゃない? なんで二か月も……」
「船に乗るまで十日。船の中で迷子になって三日。船から降りて、港を出るまで三日……あとは、港からここまでくるのに色々あって、かなりの時間を要したでござる」
「……そんな調子で、よくここまで来れたね」
「もおせ殿という親切な方に、手を引いて連れてきてもらったのでござる」
「子どもか。……じゃあ、もしかして、ずっと山でうろうろしてたのは……」
「ホテルがどこにあるか、わからんかったでござる」
「……な、なるほどね。たしかにここからヴィルヘルムまでかなりの距離はあるから……着くのは来年くらいになりそう」
「そうなってしまうと、定例会も何もなくなってしまうでござる」
「うん、だいたい事情はわかったけど、あがり症っていうのは?」
「それが……拙者、じつはかなりの田舎者でござって……びるへるむのような大国へ行くと想像しただけで……その、ちびってしまうのでござる」
「いや、ちびるって……もうちょっとなんか、表現がさ……」
「いや、マジで」
「あ~……それは相当だね」
「だから、びるへるむ出身のがれいと殿に案内を頼みたいのでござるが……」
「……へ? なんて?」
虚を突かれたように、モニカが訊き返す。
「いや、だから、びるへるむ出身のがれいと殿に──」
サキガケが言い終えるよりも先に、店の奥から、腹を抱えたガレイトが出てくる。
すでに顔はドドメ色になっており、時折くぐもったような声を上げている。
そんなガレイトはサキガケを見るなり、よろよろとした足取りで、彼女に近づいて行った。
「ああ……っく、こんばんは、サキガケさん。ぅ……どうかしましたか?」
にっこりと微笑むガレイトだったが、その頬も痩けていた。
「いや、拙者よりもがれいと殿がどうかしてると思うでござる。……大丈夫でござるか?」
「は、はい。問題ありま……っく……!?」
「ありまっく?」
サキガケは姿勢を正すと、ゆっくりとガレイトに向かって頭を下げた。
「サキガケさん?」
「じつは、がれいと殿、拙者をびるへるむに連れてってほしいでござる!」
「……えっと、なぜ、俺を……?」
「がれいと殿は、かの大国びるへるむの元騎士団長でござろう? そんな方が案内してくれれば、拙者も安心でござるし」
ガレイトがモニカを見ると、モニカはよくわからないといった様子で、肩をすくめた。
「がれいと殿?」
「い、いえ、それよりも、なぜ俺が……その、ヴィルヘルムの人間だと?」
「え? だって、波浪輪悪ではすでに、がれいと殿の顔写真と名前が出回ってるから……」
「出回ってるの? 波浪輪悪で?」
「ニン。でも、たぶん冒険者は知らないでござる。職員内だけでの情報共有……って、ごめん。これ、言ったらダメなんでござった。忘れてほしいでござる」
ぺろぺろ。
サキガケは「えへへ」と笑って片目を閉じると、茶目っ気満載の顔で舌を覗かせた。
それを意に介さない様子で、ガレイト、モニカ、ブリギットの三人が互いに顔を見合わせる。
「……ということは、波浪輪悪という組織は俺の素性を知っていたうえで、俺を元傭兵の料理人として、ギルドに登録していたということですか?」
「え、え~っと……だから、忘れてほしいと……」
背筋をピンと伸ばし、しどろもどろになりながら、視線を左右に、激しく動かすサキガケ。
しかし、やがて観念したのか、申し訳なさそうに下を向いて、口を開いた。
「そ、そうでござる……。波浪輪悪の職員は、基本的に皆、がれいと殿の素性を知っているでござる……」
それを聞いて黙り込むガレイト。
その隣で話を聞いていたモニカが、遠慮がちに口を開く。
「本名を名乗ると色々と不便があるから、偽名を使ってる……のは知ってるんだけど、もしかしてそれって、個人的な秘密じゃなくて、国家レベルの機密だったりするの?」
「いえ」
「いや、ちがうんかい」
「じつは、モーセさんからも一度、この話をされたことがあるのですが、その時は、この情報は極秘裏に取り扱われている、と聞かされて安心していたのですが……」
「ガレイトさん、モーセとそんなことが……?」
「はい。……ただ、サキガケさんまでこの情報を知っているとなると、これはもう極秘とは言いづらい……」
「だよね……」
「……あれ? 拙者今、貶されてる?」
「そうなってくると問題になるのが、ヴィルヘルムが波浪輪悪内で俺の情報が共有されている事を、容認しているということなのです」
「ええっと……、どういうこと?」
「詳しくは話せませんが、波浪輪悪とも巨大な組織となれば、ヴィルヘルムも必ず一人や二人、こちらの諜報員をもぐり込ませているはずなのです」
「ええ!?」
サキガケが驚きの声をあげる。
「さらに、最近まで情報を制限していたので……俺の情報が共有されているとなると──」
「ヴィルヘルム側に、あえてそれを見逃している人間がいる……てこと?」
「おそらくは。……サキガケさんは何か、ご存じないですか?」
「いや、全然。そもそも極東支部は権力で言えば下の下でござるし……拙者はびるへるむのがれいと殿が、いまは料理を頑張っている。くらいしか……」
ガレイトが顎に手をあてて、考え込む。
「あ、あの、それで、そのぅ……」
遠慮がちにサキガケが手を挙げる。
「なんでしょうか?」
「さっきがれいと殿が言っておられた諜報員を潜り込ませるとかは……やっぱり、秘密にしておいたほうが……?」
「お願いします。そのほうが俺にとっても、サキガケさんにとってもいいでしょうから」
「……余計なことを聞いてしまったでござる」
それを見ていたモニカが、ため息交じりに口を開いた。
「ね、ちょうどいいし、帰ったらいいじゃない。気になるならさ」
「え?」
ガレイトが驚いたようにモニカを見る。
「しかし、モニカさん……」
「大丈夫。ガレイトさんがいない間は、あたしとグラトニーちゃんがこの店を守るからさ。実際、ガレイトさんが来るまで二人でやってきたわけだし。……ガレイトさんは、サキガケさんをヴィルヘルムに送り届けたあと、そのことについて詳しく調べてみたらいいさ」
「で、ですが、近ごろは物騒ですし、また何が起こるか……ん? あたしとグラトニーちゃん?」
ぽん、とモニカがブリギットの腰を叩く。
「そ。いい機会だから、ついでにこの子も連れてってよ」
「……ええええええええええええええええええええ!?」
夜のオステリカ・オスタリカ・フランチェスカに、ガレイトとブリギットの声が響く。




