夏の海に滴る雫
もう9月ですが……
目の前には、コバルトブルーの海がどこまでも広がっている。海面に太陽の光が反射して白くキラキラと光っていて、それが眩しくて目を細めた。ずっと見ていると、目の奥がズキっと痛くなる。
夏の海が、一年の中で一番綺麗に見える気がする。特に、今日みたいに雲ひとつない綺麗な青空の日だと。海の深い青と、空のなめらかな青が、絶妙にマッチしていて美しさが増す。それに夏の空気が合わさって、ああ、夏なのだなあ、と改めて感じられる。
顔を下に向けると、足元のずっと下の方で、壁にぶつかった波が無数の白い雫となって散っていくのがよく見えた。
「あっちぃ……」
そう声を発したのは、私の隣で棒付きのアイスキャンディーを食べている同じ高校の男の子。二人並んで塀の上に座って、アイスを食べている。彼がアイスを咥えたまま、Yシャツの襟元をパタパタさせた。その時にチラチラと見える鎖骨が汗で光っていて、なんだかドキドキしてしまう。それを誤魔化すように私は脚をバタつかせて、持っているソーダ味のアイスを一口かじった。
「まだまだ夏は始まったばっかりだよ。これからもっと暑くなるよ」
「あんまり暴れるな、落ちたらどうするんだ」
私たちが腰掛けている塀は、崖の上に作られている。誤って崖から人が落ちないように作られたらしいけれど、こうやって私たちが簡単に座れちゃうくらいの高さだから、あまり意味がないと思う。
「落ちたらあなたが助けてくれるでしょ」
「めんどくさい」
「ひどーい、見捨てるのね」
私が頬をぷくっと膨らませると、彼は目を細めて笑った。その笑顔を見てドキッとする。ただでさえ暑いのに、全身の熱が一気に顔に集まったみたいにもっと熱くなって、首筋をピリピリと電気が流れる感覚がした。
この笑顔だ。私はこの笑顔が好きなんだ。
「ははは、顔真っ赤」
「そっ、それは暑いからよ!夏なんだから。ずっと太陽の光に照らされてるんだもん」
そう言い訳して、慌てて顔を正面に戻した。右手を太陽に向けてかざしてみる。手のひらがじわじわとあたたかくなってきた。
溶けたアイスが一滴、棒を伝って指まで垂れてきたので、慌ててアイスの底の部分を咥えた。指についたアイスを舐めとると、アイスの甘さと汗のしょっぱさが混ざって変な味がした。
「うっ……キーンとする……」
隣から苦しそうな声が聞こえた。見ると、こめかみをぎゅっと抑えていて、手にしているアイスのかじったところが大きな扇形の弧のように凹んでいた。
「一気に食べ過ぎなのよ」
「棒から滑り落ちそうだったから……いっつー……ちょっと温めてよ」
「ん?は、え!?」
突然私の手首を掴んで、彼のこめかみに無理やり手を添えさせられる。こめかみは汗で濡れて冷えていたけれど、彼の手は熱かった。瞬きをするたびに手のひらをくすぐるまつ毛がくすぐったい。
なぜそんなに艶っぽい目で見つめてくるの?夏のうだる暑さのせいでボーッとしているだけ?それとも……
期待、しちゃうじゃない。
彼の熱っぽい目に引き込まれて私は固まっていたが、すぐにハッとして無駄に大声を出して、手を勢いよく引っ込めた。
「うわあああっ!あ、あ、頭がキーンとしたらっ!逆に冷やすのがいいんだすよ!?」
最後に噛んでしまって焦った。いや、もしかしたら気づかれていないかもしれない。そう思ったが、隣に座るこの男は、唇を噛んで肩を小刻みに揺らしていた。完全に、アウトだ。
「……冷やすのがいいんだすか、ふふっ」
「バカにしないでよ、もう、バカー!」
「バカって言う方がバカですー」
そんな小学生みたいな言い合いをしていたが、私の頭の中にはまださっきの彼の目がずっと残っていて、心臓が今さらドキドキしてきた。
また指にアイスが垂れてきたので、急いで舐めとった。
「手がベタベタになっちゃう」
「食べるのが下手くそなんだよ」
「暑いんだからすぐ溶けちゃうのよ!私悪くないもん」
こんなことになるなら、やっぱりコンビニで買ったときに店員さんにお手ふきくださいって言うんだった。一瞬もらおうかなって思ったけれど、言葉を発するのが面倒で結局言わなかったのだ。あーあ、過去の自分を恨むわー。
「ちょっといい?」
「え?」
どうしたの、と聞くよりも早く、彼は私のアイスを持っている方の手を掴んでぐいっと引っ張って、自分の口元に引き寄せた。私のアイスが食べられてしまうのかと思ったが、彼が口を近づけたのは、私の手。
それが分かった瞬間、脊髄反射で反対の手で彼の顔面を掴んでいた。
「ちょちょちょ、待って待って待って!ちょっともよくない!なっ、何してるのよ!?」
耳元で叫んでしまったので、ぎゅっと目を細くして睨まれた。言葉を発していなくても、うるさいと言われているのがよく分かった。
「……綺麗にしようと」
「いやいやいや、どういうこと!?そんなことしなくて大丈夫だからっ!それに、もう私がな、なめ、て……」
声に出して言うとさらに恥ずかしさが増して、尻すぼみになってしまった。
「顔、真っ赤だけど」
「うるさいおバカーッ!」
まったく、誰のせいだと思ってるのよこの男は!
頬に手を当てて必死に体温を下げようと思ったが、手が温かいためちっとも意味がない。アイスを一口かじって体の内側から冷やすことにした。
「うっ……」
頭に鋭い痛みがじわじわと広がったため、こめかみを手のひらの付け根で押さえた。一口が大きすぎたようだ。
そんな私を見て、隣の男が顔を覗き込んできた。彼の顔には笑みが広がっていて、少しムッとした。
「キーンとするの?」
「う、ん……」
「お揃いじゃん」
ムカつくような、嬉しいような……
なんとも言えない気持ちになったが、すぐにハッとした。
いやいや、何よ嬉しいって!
私は頭に浮かんだことを消すように、頭をブンブンと激しく横に振った。
「何それ、それで冷やしてるつもり?」
「あ、そ、そう、冷やしてるの……」
アイスによる頭痛を治すために頭を振っていると思われてしまったが、逆にそれを利用することにした。
突然頬を彼の両手で挟まれて、頭を振っていた時の勢いが止まらず、そのまま前に倒れそうになってしまった。
「あっぶない!もうっ、本当に落ちるところだったじゃない!」
私は彼を睨みつけるが、その真剣な目に何も言えなくなってしまった。
なに……なんなのよ……
今日の彼はなんだかおかしい。いつもと違う目で見つめてきたり、たくさん触れてくる。少し……怖い。
居心地が悪くて、私は目をあちこちに泳がせる。
「……なんで、照れてるの?」
「……え、」
彼の、私の顔を包む手に、少しだけ力が入ったのを感じた。
「そんなに顔を真っ赤にさせてさ。期待、するけど?」
「な、に……」
「期待して、いいよね?」
かすれた声でそう言われて、顔だけでなく全身が熱くなった気がした。やっと落ち着いてきた心臓も、またドキドキし始めた。そっと自分の胸に手を添える。
今日だけで何回ドキドキすれば気が済むのか。もう心臓がもたない。
彼はいったい、何を考えているの……?
彼の顔が近づいてきた気がして、なんだか急に怖くなってしまい、私は笑って誤魔化した。
「暑さのせいじゃないかな!なんだかすっごくボーッとするような……あっ、飲み物買いに行こうよ!」
やっぱりアイスじゃあ、全然水分補給できないし、と言いながらまた一口アイスをかじる。今度は、小さめにかじるように意識して。
彼の顔を見ていられなくなって、目の前の海に顔を向けた。青い海がキラキラとしていて、眩しい。ずっとずっと、変わらずにこうしてきらめいているのが、今はなんとなく安心できた。
顔を下に向けると、壁にぶつかる白い波。壁に引き込まれるようにぶつかって、儚く散ってゆく細かい粒から目を離せずにいた。
目の端で、彼の口が少し動いたのが見えた。しかし、声が一切聞こえなかったので、また彼に顔を向けた。
「口パクした? なんて言ったの?」
「……うそばっかり」
「えっ、」
予想していなかった言葉に、私は反応できなかった。
勇気を出して、もう一度聞いてみる。
「な、何言ってるの?」
「だから、嘘つくなよ」
少し低くなった声に、私は何も言えなくなった。まっすぐ私の目を見つめてくる彼の視線から逃れたくて顔を背けたら、顎を掴まれて強制的に視線を戻された。顔が近くて、鼓動がどんどん早くなる。
「暑さのせい?違うでしょ。暑さのせいになんかしないで。顔が火照るのも、鼓動が速くなるのも、みんな、俺のせいなんでしょ」
切なそうな目で見つめられながらそう言われて、私の心臓が過去最高に速く、激しく、脈打ち始めた。内側から激しく叩きつける心臓に身体がついていけなくて、初めての感覚で、息が上手くできなかった。
何も考えられずにいる私の頭に響く、崖にぶつかってはじけた波の音が、私たちの関係が変わる合図のように思えた。
もはや手にしていたことを忘れていたアイスから、雫が一滴、海に向かってまっすぐ落ちていく。はじけた波に、この一滴が吸い込まれるように消えていく。海とひとつになったその雫に、誰も気がつくことはなかった。