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偽り言葉日記  作者: 瀬那鶫
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 「才能」と「孤独」について考えてみた。


 私にとって「才能」は、自分には存在しないもので、自分の中を奥深くまで掘ったところで大したものは出てこないから、意味がないと思っていた。それは、与えられるものであって、自分でどうこうしたからといって手に入るものではなくて、だからといって、もしそれが手の中にあるのならきちんと磨いたり、整えたりしないとそれを持っていない人よりもずっと悲しい人生を送ることになると、そう思っていた。

 世の中には、誰から見ても才能が認められる人たちがいて、もちろんそれを批判することを仕事にしている人もいて、才能があるといわれている人たちが万能ではないということをアピールしているのだけれど、才能というのは多くの場合多方面に与えられるのではなくて、どこか偏ったところに与えられた結果、何かを失うんだと思うんだ。

 それが、長い間私が持ていた考え方で、「才能」という言葉を境に、あちら側とこちら側「できる人」と「できない人」、「持っている人」と「持っていない人」というように「ああ、私はそちら側の人間じゃないから無理だ」という言い訳に長年使っていたんだけれど、そういうことではないんだろうなと最近は思う。

 最近、とても好きになったアーティストがいるという話は前も書いたと思うけれど、そのアーティストが、創作すること、何かを産み出すという作業は、自分の中、奥深くに入っていくという行為で、そのことを「地獄のふたが開いて、その奥に入っていくような……」というような表現をしていたのが、とても印象に残った。そしてその人が、若い頃には、そうして自分の中にゴールを求めて突き進んでいくことを「淋しい」と表現していた。「きっとその先には誰もいないと思う。理解者が減っていくレースのようなもの」といっていた。

 何かを産み出すにあたって、自分の考えを掘り起こそうと思ったら、自分と話すしかないわけで、自分と直接話すことができるのは自分しかいないわけだから、他人の手を借りることはあっても、結局答えは自分で見つけるなり、出すなり、なんなり。他者から得られるものではないから、とても孤独なものなのだろうなと思った。

 だから、人は孤独に耐えられなくなったとき、身体はまだこの世にとどまることができてもそうしないのだろう。


 「孤独」の対義語は何?

 おそらく、幼い頃の私は「仕合せに囲まれている」というようなイメージを持っていて、自分のことを愛してくれる家族がいて、本当に大切に思ってくれる少数の友達とその人たちを大事にできる心があれば、それが幸せなことで、孤独とは遠いところにいるのだと思っていた。

 様々な偶然が折り重なってある今の世界は、私に牙をむくことも多いけれど、寄り添い、助けてくれることの方が多く、私を見守ってくれていると感じていた。

 でも、それなら私は、不自由のない暮らしを送ってきたはずなのに、「孤独」を感じたことがないのかいわれるとそんなことはなかった。

 本当の「孤独」がなんなのか、きっと私はまだ知らないけれど、淋しいなと思ったことはたくさんある。

 私も家族も忙しくて、お互いの誕生日を忘れてしまった時。

 ひとりでご飯を食べている時。

 病気で寝ている時。

 修学旅行の夜。

 相手の話が理解できなかった時、自分の話が相手に伝わっていないなと思った時。

 数えきれないくらい、「あ、冷たい。とても居心地が悪い。温もりが欲しい」と思った瞬間がある。

 私の両親は、いつも家で働いていて、日中に家を離れるのは学校に行っている私だけだったから、必ず「いってらっしゃい」と「おかえりなさい」を言ってもらえるとても幸せな家で育ったと思う。

 でも、ずっと家で働いているということはオンとオフがだんだんぼやけていって、いつも仕事をしているし、いつも仕事をしていないというような感じで、近くにいるのに「遊ぼう」といっていい時とそうでない時というのが、わかってもそれに従いたくない年頃や、遊んでほしいわけではないけれど、その日の出来事を話したいと思う年頃にはどうしていいのかわからなくなって、「今日は、どんなことがあったの?」と食事の席で聞かれても「別に。」としか言えなくて後悔したり、よくわからない怒りを覚えたり、それを隠そうとして自分の気持ちがぐちゃぐちゃになってしまったような気がしたり。

 意外と子供の頃ってよくわからないことで悩んでいる。

 よくわからないことを一生懸命考える時間もたくさんあったし、それが大切なことだと思えていたのに、それはどこに行ってしまったのだろう。

 ここ数年の自分の考え方として、「臭い物には蓋をしよう」というのが、強くなってきたと思う。

 それは、「自分の考えや他人の感情に蓋をしよう」というのと同義だ。

 考えない、感じない、ということは、一見とても楽なことで、目先の小さな問題をたくさん避けることができるし、大きな問題が起こらないから、大きな波に襲われずに平穏な日々を送ることができる。

 でもそれは、「仕合せ」を遠ざけているような気がして「孤独」を感じたんだ。

 それで、急に自分と向き合おうとか、他人に関わろうとしたところで、見たくないものばかり見えるからとても疲れるし、それはとても無意味なことに思えてくるから、なかなか続かない。

 「あぁ、もうこんな思いはしたくない。知りたくない」そう思っていろいろなことに憶病になってしまうのが「孤独」なのかな、と最近思う。

 「『孤独の対義語は?』と聞いて答えてくれる人が少ないなか、最近、『無知、じゃない?』って答えてくれた人がいてヨウ。そうかもね」と最近すっかり私を虜にしているアーティストが、18歳くらいの頃にHPに書き込んでいるのを見つけた。

 私は、18の時、本当に何も考えずに生きていたのに、こんなことを考えながら生きている人もいたんだなと、なんだか情けない気持ちになりながら、ますますその人のことが好きなった訳だ。


 何も知らないのがいいことなのか、それが幸せなのかはわからないけれど、「孤独」の対義語が「幸せ」ではないのだったら、何も知らないということ、又はいろいろなことを知っているということが「不幸」にはならないのかもしれない。

 「孤独」と「不幸」がイコールではないように。

 そう私は思う。

 「孤独」は、きっといろいろなことをわかるようになったということで、同時に他人と共有できないものを増やしていくということで、それが人を「孤独」だと感じさせるのだろうし、他人の中にないものを探して、自分らしさを伝えようとすればするほど、その沼にはまっていくのだろうと思うのだけれど、私も、物書きの端くれとしては、その沼に嵌ることを楽しみたいと思う。

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