二章「魔法学校」 1
1.
朝の教会では祈りが捧げられ、家畜の世話の手伝いを終えた子どもたちが駆け回る。大通りが賑わいを見せるよりも早く、行商人は出立の荷支度をする。
足を止めた子どもを手で払う。
行商人の着いた街の名はハスミの街という。白いレンガの家が立ち並び、出入り口付近には教会がそびえ立つ。都から離れた地方の街にはよくある光景だ。
出入り口に差し掛かると、芳醇な香りが鼻をくすぐる。パン屋も仕込みの時間だ。行商人は舌なめずりをして、持っていた干し肉をかじる。手綱を握り、新調した馬に荷車を引かせ、気分良く鼻歌まで唄う。
土の巨人の土産話と、その土の入った瓶はいくらほどで売れるのだろうと夢を見ながら、荷車の揺れに身体を預けた。
土の巨人の主は、本棚から一冊の本を取り出す。丁寧に加工された獣の皮で閉じられたその本を、ざっとめくっていった。
手近な椅子を引き寄せて、音を立てて座る。指触りの良い羊皮紙には、黒いインクで文字がつづられている。
森にかけた魔術の項で指を止めた。
反芻するように、シンは一文を口に出して読む。
「西にある人を惑わす迷宮に習い、迷いの森を精製。幻獣ウロボロスを模し、持続的な発動は可。循環の術式に沿い、侵入者の呼吸に含まれる魔法の種に反応するよう、一本一本の木に変異の魔法を施す。土には血を混ぜ、同じように魔法の種に呼応させ、緩やかな坂へと変えて、一断層下の森の中に閉じ込める」
森の遥か上空には魔法陣が描かれ、近づくものを森へと突き落とす。
もはや城塞のようなもので、森は二段構造、上空には重力魔術と見知らぬ来訪者への備えは徹底していた。
「侵入者の認識は術者の判断に従う。術者消失後は未実験。森は術者の意思を持ち、侵入者を阻むことは予想され、ある意味で言えば迷いの森は完成する。人を惑わす迷宮も術者は数百年前にこの世を去っている……」
以降は、二層目の森とそれらの術式について書きなぐられていた。
本を閉じ、乱暴に本棚へ投げた。本が元あった場所に収まるのを見てから、まぶたを閉じ、深く背をもたれる。
読んだ限りでは、術者であるイスタルの知る者、認めた者以外は森に立ち入れないようになっている。ならば、面識はあるが認可されていないはずのアンナはなぜ入れたのか。
(俺の知らないところで? まさか、あのイスタルだぞ。ありえん)
町でイスタルが魔法を教えていた子どもたちは多い。中にはイスタルが褒めるほど優れた子もいたが、アンナはそうではなかった。
魔法への熱情は粘り強く、老若男女問わずモルモットにするイスタルが、長い付き合いのある者以外に興味を示すことなど一度たりともありはしない。
イスタルがりんごを喉に詰まらせた後も、何度か不審な輩が森に立ち入ったが、会えなく退散していった。二層目で骨になった輩もいる。
森は今も機能しており、ルーギスが同伴していた為という線も先日消え、イスタルが魔法を教えていた子どもならば全員、という可能性すら浮上してくる。
由々しき事態である。イスタルの魔本を欲する者は多く、高値で取引されることはおろか、イスタルを篤く信仰する集団の手に渡れば、何が起きるか分かったものではない。非力な子どもたちが介するとなれば、さらに危惧するべきだ。
イスタルは昔からシンにあらゆる試練を与えてきた。例えば第六感を鍛えるエルフの修行をさせたり、例えば賊の殲滅戦の先駆けを務めさせたりと、生死を彷徨うことなど茶飯事であった。そこにイスタルの本意があろうがなかろうが、これもまた試練とも取れる。
頭痛がした。他人を巻き込むとなると、途端に気が滅入る。
ランプの明かりを消した。
どうにも考え過ぎな節もある。
宵闇に身体を預け、深く息を吐いた。
浅い眠りから目覚めて、屋敷の戸を叩く音に腰の重みが増す。このまま無視しようかとも思ったが、勝手に屋敷に上がられても癪であった。
玄関まで行き、少し力を込めて、軋む戸を開けた。
うす暗い森の中とは不釣合いな艶やかな金髪の少女、アンナが身だしなみを整えて待っていた。
「帰りたまえ」
「な、なんでですか!?」
淡々と告げたが、それを描き消すかのように大きな声が返ってくる。
思わず片耳を押さえた。
「先日、話をしただろう。なにより君のためにならないと」
「ためになるかどうかは、私が決めて、私が見出すことですっ」
「ごもっともな意見だ」
「お昼も作ってきました」
「それは、ありがたくいただこう」
「ではおじゃまします」
「待て待て。勝手に上がろうとするな。なんなんだ君は。一体全体、どうすれば帰ってくれるんだ?」
「い、嫌です。帰りませんっ。先生といっしょに居たいんです! 先生から魔法教えてもらいたいんです!」
「俺はそうは思わない」
「ううー! 先生がいじめるー!」
「もう泣き寝入りは効かないぞ。あとその先生というのは辞めたまえ。寒気がする」
シンは脇をすり抜けようとするアンナの襟をつかんで、鼠でもつまみ出すかのように、森の方へと引きずる。
「なんでですか。先生、昔はたくさん魔法教えてくれてたじゃないですか。なのに、なんでそんな風になっちゃったんですか」
腰辺りから聞こえてくる声に、喉まで出かかった言葉を止めた。五年も前のことだ。感傷に浸れるほど覚えてはいない。今となっては、イスタルから与えられた試練の一つにすぎなかったのだ。
「イスタルさんを蘇らせようとして、でもそれはいけないことで、先生はたくさんの罰を受けて、だから魔法を教えてくれないんですか」
構わず、森の目の前にまで連れてきて、放り投げた。小さな悲鳴を上げて、尻もちを付くアンナに向けて、魔法を使う。
万が一、森を抜けてきた侵入者を撃退する魔法は、いくつか用意してある。その一つが、来た道を辿って森の外へと追い出す風。
「精霊の玩具、汝のあるべき場所へと戻れ。今昔の紐は結ばれた」
手をかざし、呪文を唱える。
「先生? ちょっとまってください、お願いしますもっとお話しさせて」
「口は閉じておけ。舌を噛む」
呪文や詠唱で、見えない精霊を介して行使する魔法は、精霊術と呼ばれ、阻止されにくく、なにより手軽で強力なものが多い。
「逢魔の風」
アンナの体が浮いたかと思えば、勢いよく、森の中に吸い込まれていった。
風は一本の道を作り、森の外へ伸びる。
飛ばせられる距離に限度はあるが、森の中を数時間彷徨っていたとしても、外へ出すくらいなら容易であった。
騒がしくなくなり、細い息を吐く。
それから、人に魔法を使うことも、見せることも久しくしていなかったことに気づく。
「…………。」
アンナの飛んで行った方を見ていたが、踵を返して屋敷に戻った。
また別の毛皮の本を開いて、腹がすくころには日も沈み、屋敷の真上に月が昇る。
ランプの明かりを頼りに、本の文字を追っていた。コップに注いだ水を何度も口に含み、ぐっと飲みこんで、また本に戻る。
屋敷の戸を叩く音がした。最初、風の音かとも思ったが、鳴りやまないので席を立つ。
ランプを片手に扉を開ければ、アンナが立っていた。明かりに照らされた姿は、ぼろぼろだ。髪は乱れ、衣服には木の葉や細い枝が付いている。
アンナは一歩下がって土を払い落して、頭を下げた。
「弟子でなくても構いません。シン先生、私を傍においてください。先生から魔法を学びたいんです。どうか、お願いいたします」
息が上がっていて、身体がふらついているが、頭は下げたまま。
そんなアンナを見ないように、シンは目を瞑る。先日の行商人に手を貸す姿が、瞼の裏に浮かんだ。
「あの魔法は、何度か発動するもので、簡易的な魔術でもある。指定した物体を特定の場所に飛ばす、これを精霊の気が済むまで繰り返す。そのざまを見るに、君は随分と精霊に嫌われているらしい」
「あはは……」
「明日また、出直してきなさい。やれるだけのことはやろう」
「それって……? あ、あの、先生!」
アンナが顔を上げる前に、シンは扉を閉じた。扉の向こうではしゃぐ声を背に、定位置へと戻る。
椅子に腰かけたとき、視界の端に発光体を捉えた。正体は薄水色に発光する蝶で、行くあてもなく揺らめいていた。
本棚の陰に隠れると、入れ替わるように今度は人が現れる。
「ルーギスか。いつから見ていた?」
本棚の陰から出てきたルーギスは、口元を押さえて笑いをこらえていた。
「全部か」
「全部ではないよ。いやぁ、ひどいことをするなぁと思ってね。あんなに慕ってくれている子を、あんなに何度も何度も吹き飛ばさなくても。挙句、根負けしているし」
「やかましい、ぶつぞ。いいから要件を言え要件を」
「はいはい。まぁ都で聞いた話なんだが、どうにもイスタルの信者どもが妙な動きを見せているらしい」
ランプに照らされたルーギスの顔が険しくなった。
シンの眉間にも皺が寄る。
魔女の魔法に惹かれて、信仰対象として持ち上げる者たちは少なくない。イスタルの傍若無人な振る舞いを名目に暴徒と化す者、禁術に手を染める者と、イスタルの生前にも悪目立ちしていた。
「具体的には?」
「都の図書館から禁書が一冊、盗まれていた。黄泉渡りの術が記された本がね」
「俺の書いたものが? 馬鹿なやつもいたもんだ」
「そうは言うがね。困ったことに、シンが第一容疑者になっているんだ」
「なぜ? 俺が引きこもってることは都の学会連中も知ってるはずだろう。どうなってる」
「これ見よがしに、館内に犬の骨が落ちていたんだ。だから死霊術師の仕業だとかなんとかで、一番縁深いシンが疑われていてね」
「おかしいだろうが。自分の書いたものを自分で盗むやつがどこにいる」
「そこはほら。取り戻したいからとか、理由はいくらでも。それに都の図書館は聖職者しか入れないし、建前上、前科者に容疑をかけたほうがね」
「あぁもういい。とにかく、馬鹿な信者に気を付ければいいんだな。尤も、もう森の中でくたばってるかもしれんがな」
「そうあることを願ってるよ」
ルーギスはシンの隣に立ち、窓から外を眺める。
森の出口付近にはもう誰もいない。
「ところで、話を戻すのだけれど。どうして、アンナちゃんを認めたの?」
「お前が連れてきたんじゃないか」
「そうなんだけどね。シンが街を出て行ったとき、もう誰にも魔法を教えることはないんだろうなって思っていたから」
「……頑固で正直なやつは、嫌いじゃない。そいつが俺に、イスタルに関わろうとするのなら、せめてその実直さで自壊しないよう、教えるだけだ。イスタルに関わるってことは、面倒ごとに巻き込まれるってことだからな」
「ははっ。違いない」
ルーギスは外を向いたまま、また口元を押さえた。