一章「アンナ・ロマン」 3
3.
アンナは手ぶらで森を抜けだす。あまり覚えていないが、まっすぐと歩いている内に開けた道に出た。太陽に晒されてもシンの眼を忘れない。
冷たい眼差しに当てられ、逃げてしまった。
アンナの記憶にある先生とは違う。笑って子どもたちに魔法を見せる先生はどこにもいなかった。
胸の奥から湧いてくるのは、都や各地で噂されている、外道魔法使いの名。なにがなんでも近づけようとしない態度から、本当に禁忌を犯してしまったのではないかと思わせる。
アンナは森を一瞥して、とぼとぼと帰路についた。短い金髪が風に揺れる。シンと再会を果たしたからか、幼い日の記憶が、いやがおうにも想起されていく。小さな学び舎で、友だちと一緒に肩を並べて、イスタルとシンの魔法を見たこと。魔法を使えるようになった日のこと。
そして、シンに街の皆が石を投げた日のこと。
異端者扱いされたシンに魔法を教わった街は、そうする他なかった。そうでなければ町の皆は同等の罰を受けさせられたからだ。当時は、アンナも泣きわめいたものだが今では、そうせざるを得なかったのだと分かる。
街の輪郭がくっきりと見え始めたころ、前方に荷馬車を見つける。ただどうにも荷馬車の体を成しておらず、馬はおらず、荷車の車輪が半壊していた。荷物は当然散乱している。
傍の木の元に腰を下ろす行商人らしき男に、アンナは近寄る。
「どうされたんですか?」
男は顔を歪ませ、しわを増やした。
「馬に逃げられてな。荷物もこのざまだ。もともと借り物だったんだが、安いからどうも怪しかったけどよぉ。あんまりじゃねぇかこりゃ」
頭を抱える男の足は、腫れ上がっていた。馬は相当暴れたようだ。
「あの、手伝います。人呼んできますね」
「いいのかい。助かるよお嬢ちゃん。あぁ、ちょっと先に荷物拾うのを手伝ってほしいんだ。商売道具だからね、いつまでも地面にってわけにもいかない」
「わかりました」
野菜や鉄など、箱に収まっているものもあれば、薬などに使う動物の骨や小ぶりな種子もある。非力なアンナが自力で持ち上げるには困難な甲冑まであった。都や街村を渡るよくいる雑貨商の荷物だ。
アンナは気を集中させる。一つの箱の前に立ち、手をかざした。
箱がふらふらとしながらだが、浮かび上がる。男もアンナ同じように遠くから荷車の車輪を解体して、一枚の板にしてしまう。
箱はわずかに山なりで飛んで、板の上に乗る。
浮遊魔法、物体移動魔法は初歩的な魔法である。足りない手を補い、歩行する必要もないため作業の時間短縮となる。自身に作用しない点と同等の疲労に襲われる点を除けば、日常でも頻繁に使われている。
一つ二つと壊れていない箱を荷車に乗せていく。
息を切らしながら次に取り掛かった。横で座る男と共に、細々と散らばったものをまとめていく。鎧や塩の袋も乗せ切って、荷馬車以外は元通りとなった。
「ありがとうお嬢ちゃん。箱の一つに果物が入っている。一つ取って休んでくれ」
「お気遣いなく。先に、街の人と協会の人、呼んできますね。少し待っててください」
「すまんねぇ」
アンナでは傷を治療することができない。治療魔法というものは存在するが、限られた者にしか使えない。男を持ち上げて街まで運ぶことも難しいともなれば、数を増やすしかない。大人二人もいれば事足りる。
幸い、服屋の娘なだけあって顔が広い。とりあえず手当たり次第に声をかけようと、考えがまとまった。
アンナが歩き出したのと同時に地面が揺れる。地震かと思えばそうでもなく、地鳴りも聞こえてきた。膝をついて揺れに耐える。
「な、なんだぁこりゃ」
商人の声に振り向いて、アンナは愕然とした。
背後の土が盛り上がり、人形として現れたからだ。人の五倍近い体躯は、巨人と呼ぶにふさわしい。地震と地鳴りがやんだことなど気にも留めず、土の巨人を下から眺めていた。
土の巨人は緩慢な動きで荷物の乗った板を片手で掴む。もう片方の手では器を作り、商人の前に差し出した。
男もしばらく呆気に取られていたので反応に遅れる。我に返るなり、アンナを見た。
「これは、お嬢ちゃんが」
「違います。私じゃ、ないです。土の魔法ですよね、これ」
「こんなもん、都の大道芸でも見たことがねぇ……。ははっ、乗れってことでいいのかね。それじゃ遠慮なく」
男は這って手のひらの器に乗った。
「なるほど。こりゃあいい」
男の乗った巨人の手が、今度はアンナの手前まで移動する。アンナは軽く会釈してから、手の上に乗った。
歩き出しても、わずかに上下する程度で、先ほどのような地震と地鳴りもない。巨人は物静かに荷物と二人を運んでいく。
「街から誰かが見ていて、この巨人を作ってくれたのかねぇ」
男はそんなことを口にする。
人形を作り、簡単な命令を入力して使役する魔法は存在する。今、アンナの乗っている土の巨人も規模や持続時間、命令を考慮しなければ、学校で教わるような初歩的な魔法で作り出せてしまう。
極めれば人と遜色のないモノも作れると言われているが、それに及ばないにしろ、二人を乗せた巨人が手練れの魔法使いによって作られたものであることは確かだった。
「私の街には、魔法を教えるのが上手な先生も、長寿のエルフの方もいます。でもこれは、なんか違うような」
ざらざらとした土と砂の感触に、胸が落ち着く。
例えば、巨大さで言えば二人もいれば作れるほどだが動かすとなると、お互いの命令が邪魔をしてまともに動かせない。
土の巨人は誰かが一人で作っていた。そしてその誰かは偶然、街の外に目を向け、偶然望遠鏡か魔法で視覚を補強して、事故を起こした商人を見つけた、ということになる。
「そんなこと……」
はっと顔を上げ、アンナは飛び上がる。兎のように何度か跳ねて、腕に、桃にと飛び移り滑っては地面に着地した。
「お嬢ちゃん、どうしたんだい」
上から男の声が降ってくる。
「ちょっと、用事が出来ましたー! そのまま乗っていてもらって大丈夫ですー!」
アンナが声を張り上げると、男の「ありがとう」という声が返ってきた。
巨人の足は止まらない。
アンナは巨人とは反対方向に走り出した。途中、商人が事故を起こしたところにはアンナが持ってきていたはずのバッグと、サンドウィッチのケースが置かれていた。
アンナは置かれたバッグを無視して走る。その人物に追いついたのは、ちょうど森の前だった。
「先生!」
薄汚れた濃い緑のローブを来たシンは、森の方を向いたまま足を止める。
「昼飯は頂いたがケースまで貰うわけにもいかん。バッグも返したはずだが、まだ何か用があるのか」
起伏の無い言葉だったが、アンナの眼は揺らぐことなく、その背中を見つめる。
「あの土の人形、先生の魔法ですよね」
「どうにも手間取っているようだったからな。勝手にさせてもらった」
「先生――」
アンナは深く頭を下げた。
「ごめんなさい」
唐突な謝罪にはシンも振り返る。
「なんの話だ」
顔を上げたアンナと目が合った。
「私、先生のこと疑ってしまいました。昔と全然違うから、もう私の知ってる先生はいないのかなって。でも違いました。先生は、先生です。私の知ってる先生だったんですっ」
「おい待て。何か勘違いしてないか。あまり森の付近に寄ってこられても俺が困るだけなんだ。森には獣がいるし、なにより屋敷には重要な書物が山ほどある。だから手を貸した。言っている意味、分かるか?」
「はいっ。それじゃあ先生! また、出直してきますね!」
「あ? おい違うそうじゃ」
アンナはお辞儀をして、来た道を走って戻る。その顔には満面の笑みが張り付き、口元はふにゃふにゃに歪む。
森の前には、一人立ち尽くすシン。
まだ声の届くところでアンナは振り返り、叫んだ。
「また昼ご飯つくってきますからー!」
犬の尻尾のように、ぶんぶんと大きく手を振って見せた。