一章「リリィ・アルタ」 3
3.
前任の教師が残していった書類や指導案に目を通す。まだ数えるほどしか繰り返していないがその授業が目に浮かんだ。優秀な人材であったことは相対して、そして決闘をしてよく理解していた。
バン・クロス――シンは手にしていた教材を机に放る。閑散とした部屋でかつては前任も、生徒たちのために勉学に励んでいたわけだ。そんなまともな道を辿って教師になった者の代役など、浮世から離れていた怠け者に務まるはずもない。
椅子を軋ませ、窓の外を見やる。快晴も快晴。鳥も気持ち良さそうに羽を広げていた。
「……辞めるか」
そうと決まれば早いに越したことはない。以前より一筆したためておいた退職願が机の引き出しの中にある。
義手の指を取っ手に掛ける。義手の扱いにも慣れたもので、小指の先まで思い通りに動かせられるようにはなった。世界樹の杖が持ち主だと認めている間は文字通り手を貸してくれることだろう。重いものを持つのもわけない。
さて校長はどこにいるかと考えながら引けば、封筒が流れるようにして顔を出し、隅で止まる。茶封筒に入れた覚えはなかった。
不審に思いながら手に取り、中から出てきた三つ折りの紙を恐る恐る開いた。
――ダメです。校長より。
中央に小さくそう書かれていた。ダメらしい。
紙を放り投げる。既に付いていた折り目とは無関係に折り曲がっていき、鳥を模ると二度ほど羽ばたいて部屋の隅のゴミ箱に突っ込んでいった。
舌打ちをして、それから天井を仰ぐ。急いで都から教員を派遣させる方法に頭を働かせるが、次の授業の準備でもしていた方が有意義であることも承知の上。それでもなんとかして一秒でも早く、居心地の良い自宅へ戻りたい。一人では広すぎる空間に、座り慣れた椅子、古本の指触り、人にも会わない、贅沢な暮らしであった。
根を詰めているためか思考が顕著だ。席を立ち、気分転換に茶でも沸かす。
頂き物の茶葉の香りが漂ってきたころ、戸を叩く音がした。
「どうぞ」と返事をすれば、すぐに戸は開けられ、入ってきたのは生徒二人。
アンナとリリィだ。学校では二人一緒にいるところをよく見かける。けれど二人、というよりリリィが研究室を訪ねることはそうない。
それどころか一度、前任が引き起こした事件で礼を言われたきりで、廊下ですれ違っても脱兎のごとく去っていく。
教会で顔を合わせて以来、どうにも嫌われているようだった。
「失礼します。ちょっとお話しに来ましたー」
「し、失礼します」
「なにしにきた。授業内容の質問なら紙に書いておいていけ。後日答える」
対応すれば、リリィの足だけがすっと半歩下がる。
「いやアンナに言ったつもりだ。キミはゆっくりしていきなさい。丁度、茶も入れたところだ」
「わーい。いただきます」
「……それでなんの用事だ」
二人を備え付けのソファーに座らせる。
シンも椅子に戻り、遠巻きにポットとコップを浮かす。宙で茶を注いでソファー前の小さなテーブルに置いた。自分の分も手に取り、柑橘系の果物の香りに誘われ一口。
普段、品のいい茶など飲まないものだから味の良さまでは分からないが、のど越しと後味から値の張る物だと検討はつく。元々ルーギス自身も貰い物だと言って残していった品であり、曰く貴族間での流行物のようだ。人望の厚さが伺える。
本来豪邸に住んでいてもおかしくない人物ではある。いつまでも魔女の忘れ形見に構うなとルーギスに言ってやらなければならない。
ソファーの方からも感嘆の息が漏れる。
「いつも渋いお茶ばかりなのに、どうしたんですかこの紅茶」
「ルーギスがな。いくつか種類もあったから持って帰ってもいいぞ。シスターもよければどうぞ」
「あっいえ、おおお構いなく」
「質素倹約の教えというやつか。神職というものに疎くてな。無作法ですまない」
「うちはそんなに厳しいところではないのですが、えぇ、ほんとお構いなくっ」
「先生なんかリリィに優しくないですか? それとも私にだけ厳しいんですか? それならそれで嬉しいんですけど。はい」
コップに口を付けながら、じっと見つめるアンナ。
基本的に単純だが、シンでもたまにその言動が掴めない時がある。
「なんだその自己完結は……神職を丁重にもてなすのは別段不思議ではないだろう」
「私も先生に優しくされたい。思えば風で吹っ飛ばされたり頭を鷲掴みにされたり。結構扱いひどくありませんか」
「もっと大人しくしていたらな。というかお前たちこれから授業じゃないのか。話なら放課後でも時間は作ってやれるが」
急を要するようには見えず、提案してみるものの、リリィの方はコップを手にしたまま俯き足元から目を離さない。
「アンナ」
シンに名前を呼ばれ、アンナはそっと立ち上がった。
「じゃあ外で待ってるね」
リリィの肩をやさしく摩ってから、部屋を後にした。
研究室には二人だけ。シンは窓を開けて充満する茶の香りを外へと逃がした。涼しい風で薄まりいい塩梅となる。
そのまま壁に背を預け、部屋に顔を向ければリリィと目が合う。遠くから影の中でもよく分かる蒼い瞳はまるでガラス細工。微動だにしない姿勢も人形のよう。
銀の髪も東の地方では珍しい。修道女は修行も兼ねて各地を転々としている者もいる。
その整った顔立ちには慈愛と厳格さが見え隠れする。
「前任の、スフィアのことをキミはどう思っているか、聞いてもいいかね?」
気兼ねしてシンの方から語り掛けた。
きょとんとしてからリリィは慌てて背筋を正す。
「スフィア先生は、その、いい先生だったと思います。先生の研究室に生徒たちが相談事をしに行っていたのを、よく目にしました」
「なるべくしてなったというところか。惜しい。あれほどの才能を持った男が、いや惜しいものだ」
「才能があっても街の人やアンナを傷つけようとした過ちは償うべきです」
「真面目な男だ。いつか必ず謝罪しにくるだろう。さて、肩の力は抜けたかね」
「あっ……は、はい。ごめんなさい、私昔から大きい男の人が苦手で……」
「そうなのか。あぁそうか。あの時はすまなかった」
「ああ違うんです。そんな気は無くてむしろ対応できず申し訳なくて、あぁすいません、お話ですよね」
修道女がわたわたとしている様は見ていて退屈しないが、ようやくということで腕を組んで耳を傾ける。
「バン先生はアンナの師匠で間違いないんですよね」
「そのはずだが」
「え? 違うんですか?」
「……いやそうだ。それが何か?」
リリィは胸に手を当て深呼吸を繰り返す。出てきた声はそれでも小鳥の囀りのようだ。
「シン・ライトニングと先生は、どんな関係なんですか」
氷の精霊術でも唱えたかのようにその場の空気が固まる。リリィは手を震わしながらシンから目を離さず、シンもまた体を硬直させたまま青い瞳の奥を覗く。
アンナの傍にいるリリィだからこそ気付いたのか。それとも他の修道女から聞いたのか。どちらにせよ、はいそうですと正直に答えるわけにもいかない。
「どうと言われても。なぜ関係があると思った? アンナになにか聞いたのか」
はぐらかすように答えても、その瞳はまっすぐシンを捉える。
「聞いては無いです。ただ、アンナがシン・ライトニングを慕っているみたいでしたので、同じ尊敬の対象である先生のことが気になりました。話しにくいなら大丈夫です。すいません、変なこと、聞いてしまって」
「知り合いと言ったらキミは納得するかね。危ないから友達に近付かないでほしい、とそういう話なわけか」
「違います!」
急に大きな声が出るものだから、シンもリリィ自身もぎょっとする。
リリィは顔を真っ赤にし、胸の前で手を交差させた。
「そうではなく、決してそのような話をしにきたのではありませんっ。第一、先生への弟子入りはアンナが望んでいることなので、私はそれを応援するだけです。私は私で確かめたいことがあってここにっ」
「確かめたいこととは?」
「あ……あぅ、あの……うぅ……」
「はぁ。シンのことはよく知っている。ある程度のことなら話せる。と言ってもルーギスから聞くのと大差ないだろうがね」
リリィは落ち着きを取り戻し、おもむろに口を動かす。
「……教会を転々として三年前ようやく、このハスミの街にやってこられました。ルーギスさんにもお話を伺っています。あの人は魔女と一緒にこの街を頻繁に訪ねていたこと、禁術に手を染めたこと、この街を追い出されたことも。あの人に何があったのかそれ以上聞くつもりもありませんでしたし、ルーギスさんも話せない様子でした」
「深入りしても良いことはない。教会の人間なら知っているだろう。魔女の信者がどれほど面倒な連中か」
「ですから、私は聞いたのです。二十年ほど前にあった賊殲滅戦とその残党狩りの話、それから魔女が最後の残党を捉えた小さな街での話を。私が確認したいことはそれです」
「賊の話……なるほど。大方、その残党狩りで少なからず助かったと言ったところか」
リリィはこくりと頷いてみせた。
「私は、助けられました。偶然、近くの町の酒場にいた魔女とルーギスさん、それから一緒にいた魔女の弟子によって。私を見つけてくれたのは魔女の弟子だと、物心ついたときにシスターから告げられ、ずっとずっと、会える日を待ち望んでいたんです」
それはシンにとってよくある話だった。魔女に連れられ、旅のついでに賊の残党狩りなど数知れない。どの街で誰と戦い、誰を捕まえ、誰を助けたかなど一々覚えているはずもなく、魔女の拷問染みた修行の方がよっぽど記憶している。
神妙な面持ちのリリィを、鼻を鳴らしてあしらう。
「了承した。そういう事情なら、返事が来るかは分からんが文を綴っておこう。他に何か伝えたいことはあるかね」
聞いても、視線を落としもう何度目かになる沈黙の空間が訪れる。
まだ何かあるようで、片眉を吊り上げていると、リリィは直にぽつりと言葉を漏らした。
「バン先生では、ないんですよね」
吹けば飛ぶような声だったが、静まり返っているおかげでよく聞こえる。
さて、と一考する側となったシン。聞こえなかったフリでどうにかなるなら、迷わずそうする。
「俺がシン・ライトニングだと、それはまた気の利いた冗談だ」
「すいません。失礼、ですよね」
「気にするな。そういえばキミは精霊に好かれていると聞く。試しに精霊の声に耳を貸してみればいい。目の前の不審者が前科持ちかどうか」
リリィは慌てて頭を下げ、ばさばさと銀色の髪をばたつかせながら部屋を出ていってしまう。茶の匂いもどこかへと失せていた。
野兎であれば追って獲って皮を剥いで食っていたが、どっしりと椅子に座り直す。明確に釘を刺しておくべきだったのかもしれない。遅かれ早かれ、別のシスターに教えてもらう可能性はある。
ハスミの街の人間のほとんどは魔女に好意的だ。いまだに魔女が使っていた家を残しておくほど。正体が知れ渡ったところでなんてことはない。だがそれはシンに限った話だ。
魔女信者の騒動を思い出す。例えば魔女の弟子と弟子が在住することを肯定した街が存在した場合、まず間違いなく信者は拠点にしたがる。そうなればスフィアが起こした騒動とは比べ物にならないほどの被害が及ぶ。
スフィアとの魔法合戦後で気を失ってから、他の魔女の信者が現れたことも、しばらくしてルーギスから告げられた。当面は警戒しなければならず、出来るだけアンナからも目を離さないようにしている。
そこに新たに一人考慮する必要が出てきたわけだが。
リリィ・アルタ――名前にも顔にも覚えはない。
シンが賊殲滅戦、また残党狩りに参加したのは十二やそこらの歳になったばかりの頃だ。歳の頃から考えてもリリィはまだ赤子でシンの顔を知らない。
預けられた教会で事情を聴かされたのなら、一応の筋は通っている。名前は教会で付けられたのであれば、それこそシンに覚えがないのは至極当然。旅をしていれば銀色の髪などいくらでも見かける。
「教会……銀髪は北の方……ふぅん」
唸り、天井を見上げる。リリィの態度がどうにも気がかりだった。
礼を言いたいのならそれこそルーギスにでも頼めばいいわけだ。大きい男が苦手だというのなら尚更、バンという教師に頼むものか。
座りづらい椅子に違和感を覚えて、ここが学校であり、自分がするべき仕事を否が応にも思い出させる。あれそれ考えるよりも、前任の用意した資料に手を伸ばした。
教頭からの小言は頭が痛くなる。生徒たちからの視線は他所者を見るそれ。
今にも胃が熱く燃え上がりそうだ。




