一章「リリィ・アルタ」 2
2.
校舎に囲われた中庭のベンチに座って、アンナはサンドウィッチを貪る。涼しい風に吹かれるとつい眠ってしまいそうな昼頃。
リリィも隣でパンを齧りながら、アンナの様子をうかがっていた。授業中もそうだが明らかに睡眠不足で隙さえあれば船を漕ぐ。
口の中に野菜のみずみずしさが広がっても、なんとも歯がゆい。
原因は分かっている。シンに弟子入りしてからというものの、アンナの元気な姿を見る方が珍しくなった。
魔法の訓練をアンナ自身が望んでいるのだから何を言えよう。授業中に居眠りをしなくなり、これでもかと目を開いてペンを走らせる様は以前よりも意欲的である。なにより成果が表れていた。
正気を失った学生に襲われたとき、リリィはアンナに助けられた。元より男子の喧嘩に混ざるような子で、その手に握られていた火の弓が無ければ、いつも通り、逆に心配で仕方なかったことだろう。しかし、そうはならなかった。
燦然と輝く火の弓を忘れはしない。お世辞にも魔法が上手とは言えない子が、魔法を使いこなし、人を助けた。
修業はアンナに必要なことで他人が介入できるはずもなく、せめてこうして隣で見守るくらいしかできない。
睡魔に負けて倒れてきたアンナに肩を貸す。筋肉が付いたのか、支えているつもりが逆に支えられているような気さえする。
アンナをここまで焚きつけたあの教師は、さぞ立派な魔法使いなのだろうと内心納得しながらも、リリィは慣れずにいた。
教会で出会ったあのときから胸にざわつきを覚えている。空気が濁り、重くなるのは錯覚でも辛い。火でも放ちそうな目に睨まれながら、やれと言われたらハイと二つ返事する自信すらある。
アンナが慕っているのだから悪い人では無いはずだが、端的に言えば苦手だ。図体がでかいのも声の圧も、立ち振る舞いが合わない。教会に務める者としてどうかとは思うがこればかりは致し方ない。
涼しい風が頭の熱をかっ攫っていった。よだれを垂らして眠りこけるアンナを見て、午後の授業までひと眠りしようと目を瞑る。
校舎に囲われた中庭では生徒たちの声が聴きながら、まどろんで数分。こちらを呼ぶ声がしたので目を開く。
瞬きをしながら、前方から歩いてくる二人と視線を交わす。
クラスメイトの男子二人だ。アンナの幼馴染のマルクと、ハスミの街よりさらに東の地方出身のキジは、アンナとリリィのようにセットで見かけることが多い。活発なマルクと寡黙なキジとで意外と反りが合うようだった。
「っと、なんだ寝てるのか」
マルクは寝ているアンナを見て声量を落とす。
「この子に用事?」
「ちょっと相談っていうか。ほら祭りがあるだろ。そのための情報交換でもしておこうと思ってな」
「今朝その話になったんだけどあまり知らないみたい。最近、忙しそうだし」
「珍しいこともあるもんだ」
「見て回る気はあるみたいなんだけどね。バン先生に付きっ切り」
「あーなるほど。変わったなぁこいつも。昔はあんなにシン先生シン先生って言ってたんだけどな」
眠りこけているアンナの顔を、マルクは覗く。
シンという名前に先に反応したのはリリィで、それと同時に瞼をしばしばとさせながら起きるアンナ。
「シンって、あの魔女の弟子の?」
キジも組んでいた腕を解いて、興味深そうに顎に手を添える。話題が話題なだけに神妙な面持ちだった。
「シン・ライトニングはこの街に頻繁に出入りしていたと聞く。マルクとロマン殿が彼を知っていても不思議ではないか」
西の大陸全土に広がる大水道を開通させるなど多くの偉業を成し同時に災厄を齎した魔女を知らない者はいない。その姿を隠すまではハスミの街に弟子と共に魔法を教えにきていた。
弟子というのがシン・ライトニングという。魔女を復活させようと禁忌を犯そうとした魔法使い。学会や街からは追放され、今はとある森の中に身を潜めているという話。
リリィも生唾を飲み込む。アンナからそういった話は聞いたことはなかった。
わざわざ口にするような話でもないので追及はしないが、リリィがこの街に来たのも魔女とその弟子の噂を聞いたためだ。気にならないわけがない。
「話したことなかったっけ? 他にも何人か知ってるやつはいるけど、あの人を慕っていたのなんてアンナくらいなもんよ」
アルクに鼻で笑われ、アンナはふくれっ面で睨みつける。
「なにさいきなり。ふんっ、いいよーだ。先生のいいところ知ってるのは私だけで」
「なんか優しかったのは覚えてるけど何考えてるか分からん人だったんだよな」
「アルクのばーか!」
「幼稚かよ……そういやお前、レイから何か連絡きてないのか? あいつも祭りの日くらいは戻ってくるんだろ」
「手紙来たけど、試験が近いからダメだって」
なにか話しているようだったが、リリィの耳は拾わない。
無意識の内に熱い視線を送っていたようで、アンナに怪訝な顔を向けられた。
「リリィどしたの」
いつもの調子で「なんでもない」と言いかける。
シンのことをアンナは隠していたというわけでもない。そんなに器用な子でないことは数年の付き合いだがよく分かっているつもりだ。
整理しているうちに、アンナが以前話していた師匠の話を思い出す。昔から知っているかのような口ぶりだった。
けれど、アンナの師匠はバン・クロスだ。親戚ならまだ分かるが、少なくともハスミの街で見かけたのは一度切り。昔から街にいるとは考え難く、なによりアンナが夕方街を出ていくところを見かけている。
少し先の街に住んでいる可能性もあった。
思案し、一人納得してから尋ねる。
「アンナはシン・ライトニングのこと知ってるのよね? どんな人なの?」
ぽかんとするのはアンナだけでなく、アルクとキジもだった。
一拍置いてから、アンナは慌てて喋り出す。
「ど、どんな人って言われても、優しくてかっこよくてかわいくて、魔法使いとしても、人としても尊敬できるような人、かなぁ」
ベタ褒めだ。指で金髪を弄りながら、恥ずかしそうに語る様子は、師匠の話をする時と似ている。
「好きなの?」
「好き? ……好き!? すっ好きっだけど、好きだけどそういうのじゃないっていうかなにどうしたのリリィっ」
頬を林檎のように赤く染め、リリィの服の裾を握って何度も引っ張る。
可愛らしい反応に和んで、それから自分を恥じる。探りを入れようとしたことを、胸の内で反省。修道女にあるまじき行いだ。
リリィは手を伸ばし、アンナの頭を撫でた。
なにもアンナに聞かずとも、本人に直接聞いてみればいい。バン・クロス。苦手だが、仕方ない。
「でもお前、バン先生に弟子入りしてるんだよな? いやまぁあの人には会えないだろうけどそれでいいのか?」
「……いいの。バン先生だって凄い人なんだよ。先生のおかげで、やっと私も魔法の使い方が分かってきたんだから。体力も付いたし動物だって獲れるようになったし、みんなや、都で頑張ってるレイにだって追いつける気がしてきたの」
アンナは口を尖らせてマルクに反論してみせた。
「万年ドベの癖に言うようになったじゃねぇか」
「今の内に吠えてるといいよ。次のテストで実技も筆記も一位になってやるんだから」
「あら? 私を押しのけてということかしら?」と横から現れたのは、獣耳をピンと立てたシャルロットだ。
廊下を歩いていたところ、見慣れた集団を目にしたため、混ざりに来たのだ。リリィが横にずれてベンチの席を空ければ、軽く会釈をしてから腰を下ろした。
シャルはリリィの陰から顔を覗かせて、アンナを見やる。
「まぁ最近のアンナさんはとくに努力なさっていますわ。ですが、私に勝とうだなんて百万年早いですわ。なぜなら私も日々努力を欠かしませんから、差が縮まるなんてことありません」
「ぐぬぬ……褒めるか馬鹿にするかどっちかにしてほしい」
「事実を述べているだけです」
意識も実力も目に見えて向上しているからこそ、認めているのだ。シャルも不器用なだけでちゃんとアンナを見ている。
リリィは二人に挟まれながら、ゆったりと水筒の水を飲んで一息。
がやがやとしていく内に、だいぶ落ち着いてきた。
「しかし珍しい。シャル殿が庶民の世間話に参加しに来るとは」
「やめてください、キジさんそういうのは。私は貴族として権力を振るうつもりなどありませんし、ましてや学友相手なのですから」
「浅慮だった。すまない」
キジの言うことも一理ある。シャルは令嬢で、都から離れた遠方の街にいるのが不思議なくらいだ。肩を並べて勉強するのも本来なら委縮する。
高飛車な面はあるものの、明け透けな立ち振る舞いのおかげで親しみやすく頼りになる。
「みなさんの方こそ、珍しく勉強の話をされてるので気になっただけですわ」
「元は祭りの話でもしておこうと思ってただけなんだけどな。そういやバン先生って言えば、どっかで見たことあるんだよなぁ。アンナはどこであの先生見つけたんだ?」
「どこって、ルーギスさんに紹介してもらっただけだけど」
「ルーギスさんがねぇ」
「なんか言いたいことありそう」
「ちょっとな。先生っぽくないっていうか。授業もついていけてるのシャルくらいだろ」
アルクが眉を顰めると、キジもそれにうなずく。シャルも黙って背もたれに身体を預けた。
突然辞めていった教員の代わりとして現れたシンに、皆思うところはあるようだ。授業風景はよく言えば真面目で、悪く言えば堅苦しい。
「でもシャルに正面からぶつかる先生って中々いなかったから、私は新鮮で楽しいかな」
今にもアルクの服に火を放ちそうなアンナを止めるように、リリィは助け舟を出す。
「引っかかる発言でしたが……確かに知識はありますし、そこは私も話していて為になるとは思います」
シャルは同意した後に、他の十数名全員同じとは限りませんけど、と溜め息混じりに付け加えた。