五章「森を抜けて」 2
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鼻をくすぐるのはベーコンの焼ける匂い。アンナはベッドから飛び起きて、身支度を済ませてから朝食を口に放り込み、家を出た。
ぎらぎらと眩い太陽の光に充てられ、玄関先で怯む。片目を瞑れば千の星が降ったかのような、あの夜を思い出す。
シンとスフィアの魔法を目の当たりにしてから、魔法について考える時間が増えた。正式な弟子としても認められ、一層やる気も増す。
大人同士の酒場前での喧嘩とはまるで規模が違う、魔法の応酬に足がすくみ、立っているのもやっとだった。今こうして地に足を着けて、学校へと向かっているのが不思議なほどで、巻き込まれない保証などどこにもなかった。
いくらでも人を傷つけられる。スフィアの歴史の授業でもよく聞かされていた。魔法の発展の根幹は戦時下、大規模な魔法も、医療魔法もより洗練されていったのだ。
とは言え、使うのは人だ。戦争を知らないアンナが、争いの道具として使う道理はない。
それこそ幼いころより、ずっと見てきたことだ。親も隣の家のおばさんも、パン屋も火の魔法や水の魔法を使っている。嵐の後は街の皆で修繕作業に取り組み、祭りの日には魔法で花火を打ち上げる。
シンから魔法は教わる。けれど、シンのようになろうとは、なれるとは思わない。
アンナは駆け出した。清々しい。よく晴れ渡る空の下、風を切る音が心地よい。学校まで一直線だ。
朝から教室が騒がしい。男子女子入り混じり、ざわめき立つ。
中庭が真っ平になり、スフィアが退職した日も似たような騒ぎようだった。
近くの男子に声をかける。
「なに、どうしたの」
男子は眉を顰め、まるで抜き打ちテストがあることを小耳に挟んでしまったかのような顔をしていた。
「委員長が職員室でなんか知らない人を見かけたらしくてさ。スフィア先生いきなりいなくなったから、その人が代わりの先生なんじゃないかって」
「歴史嫌いだっけ?」
「そうじゃないんだけど。ほら、スフィア先生がいなくなったのって、この前の夜の魔法と関係してるって話だろ。それを調べに、魔女の信者がやってきたんだよ、きっと」
スフィアは魔女の魔法の再現に失敗したため夜逃げ、あるいは魔女の信徒と争って連れ去られた、あるいは魔女の呪いと相打ちになった、と生徒間で様々な噂は流れるものの、真相を知る者はアンナとリリィくらいなものだった。
「そんな決め付けるのはよくないって」
「そりゃまぁ。でも他のやつも廊下ですれ違ったみたいだけど、なんか熊みたいな大男で目つきも悪いって話」
ヘビみたいに舌が長い、片眼の潰れたダークエルフ、そこかしこから嘘みたいな話が出てくる。
なんだか的を得ず、よく分からないまま席に着く。
隣を見れば、呆けた顔のリリィがいた。周囲のざわめきに流されず、どこか上の空。最近は授業中でさえ、余所見をしている。
「リリィさんリリィさん」
「あ、え。おはよう。もう授業始まるの?」
「違くて。新しい先生来るんだって、みんな言ってるけど知ってる?」
「そうなの? 初めて聞いたわ」
「……大丈夫? スフィア先生のこと気にしてるの?」
教会で治療を受けていたとはアンナも聞いている。
リリィが顔を合わせていないはずもなく、スフィアが姿をくらませてからずっとこの調子だった。
「あの人、言ってたよね。師との再会を願わない弟子はいないって。アンナもそう、なんだよね」
「弟子として認められたのは最近だけど、そりゃあ誰でも慕ってる人には会いたいでしょ」
「そうよね。スフィア、先生のことは認めたくないけど、他人を犠牲にしてまで会いたいという強い想いだけは、尊敬したいなって思ったの。あぁごめん、アンナは嫌だよね」
「んー……まぁ私は会えて弟子にしてもらえたし、家族だって友達だっている。だから、頭ごなしに否定するつもりはないよ」
「ごめんね。それで、新しい先生ってどんな人? もしかしてルーギスさん?」
「男の人みたいだけど見てないから何とも」
「今から歴史の授業よね。居眠りしても優しく起こしてくれる先生だといいわね」
「私を仮眠キャラにしないでくださいー」
始業の鐘が鳴り、席に着く。
口を閉じ静かにしているが、生徒はそわそわと落ち着かない様子だった。廊下から届く足音は重く、あまり機嫌のいいようには聞こえない。
扉を開けて姿を現したのは背丈のある男。短く切られた黒髪と獣じみた目つきは、これから戦に向かうつもりなのかと思わせる。数歩歩いて教卓に立ち、生徒の視線をこれでもかと集めた。
右腕が無い。薄緑のコートの袖がひらりと揺れ、直に垂れ下がる。
眉間にしわが寄る生徒が数名いる中、椅子を飛ばすほどの勢いで立ち上がったのはアンナだった。
ヒゲは剃られ、髪も短くなっていたが、教室に入ってきたときから気付いていた。なんのことだと呆気に取られていたが、はっとなっては堪らず叫ぶ。
「先生!? なんで!?」
しんと静まり返る教室で、今度はアンナに視線が集まる。名前を呼ばなかったのだけは幸運だったかもしれない。
我に返り、アンナは縮こまって椅子に座った。
次に声を上げたのはシャルロットだ。
「どこかで見かけたと思いましたけど、アンナさんと一緒にいた方でしたか」
「あ? そうか、あの時の君がそうだったか」
「どこぞの魔法使いに頼むなんて、先生方もよっぽど急いでいたんでしょうか。アンナさんへの指導ならともかく、私たちへの授業はしっかりとお願いしますよ」
「そういう君は、医療用魔法道具研究の重鎮、マイン・アルボレ様の御令孫だと聞く。なるほど通りで腕は立つようだ。礼儀の方は勉強中かね?」
「なっ、なんですって」
「最初に自己紹介というやつをさせてもらいたいもんだがね。それが常識ってやつなんだろう」
「ぐぅ……失礼しました」
咳ばらいをしてから、男は教室内を見渡す。委員長とのやりとりと仏頂面のせいもあって。空気は張りつめていた。
それでもかまわず口を開くが、わずかだが表情が緩む。
「バン・クロスという。前任のスフィア先生が急遽帰省されたので、臨時教員として歴史の授業を担当することになった。研究分野は死霊術、呪術、魔法道具。あぁそれから、そこのアンナには魔法を教えている。他に聞きたいことはあるかね。ないなら、授業を始めさせてもらう」
そう言われても、腕のことなど聞ける雰囲気でもなく、シャルロットもだんまりを決め込んだままだ。
一人ばれないように足をばたつかせているのはアンナくらいなもの。
授業は滞りなく進行し、質疑応答もほとんどシャルロットとのぶつかり合いだったが、勉強する分には困る内容でもなかった。
顔が怖い上に、片腕が無いのでは近寄り難い。
放課後、シンが書物を積んで運んでいるところに声をかけられるのもアンナくらいなものであった。その隣にはリリィもいて、シンと顔を合わせるなり、頭を下げる。
「丁度いい、少し案内をしてくれ。スフィアの使っていた部屋は分かるか」
「部屋ならこっちです。あっ、本持ちます」
研究室には机とソファが残されたきり。荷物はあらかた校長が処理していたようで、埃一つ見当たらない。
二人をソファに座らせ、シンは本を返してもらうと机の上に置く。
壁に背をもたして一息吐いた。
「なんだ。授業で分からんところでもあったか」
「リリィが先生にお礼言いたいみたいで」
「あっ、あの、先日は助けていただき、ありがとうございました」
リリィはすかさず立ち上がり、地面に頭突きでもするかのように深く頭を下げた。
誰だと聞く前に、スフィアに捉えられた贄の一人だとシンは察する。
「本当に危険な時に俺は寝ていたみたいだがな。原因を辿れば俺のせいでもある。礼を言われる筋合いはない」
「先生はなんでそう……はぁ」
「なんだ、言いたいことがあるならはっきり言え」
「お礼くらい、素直に受け取れないんですか」
「筋が通っていない。そら、用が済んだなら帰れ。今日は訓練も無しだ」
顔を上げたリリィの顔が目に留まった。
銀髪が揺れて、藍色の眼が奥から覗かす。
「待て。キミ、教会にいた子か」
リリィはこくりと頷いた。
「そうか。あの時は驚かせて悪かった。気を付けて帰りたまえ」
「せんせーわたしはー」
「腹が減ったからって野犬を獲って食うんじゃないぞ」
「どんななの。先生の中の私って、どんななの」
アンナはまだ緊張しているリリィの手を取って、研究室を出ていった。
シンが足を二度踏み鳴らすと、地べたが盛り上がり、椅子を模る。深く腰かけ、ずるりと体から力が抜けた。
無い腕を組めば眠ってしまいそうなほどだ。