一章「アンナ・ロマン」 1
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そこは西の大陸の小さな街で、近くに巨大な森のある田舎であった。めぼしいものといえば街の入り口付近に教会が立っているくらいで、たまに旅人が立ち寄り、祈りを捧げていく。
住んでいる人種は所謂人と呼ばれる者たちから、獣の耳や尾や体毛を生やした獣人、耳が長く老いを知らないエルフと様々ではあるが、いざこざも無く、平穏そのものである。
四季に恵まれ、農作物もよく育つ。東と西の大陸間で戦争が起きたのも数百年前の話。
白い光を浴びて小鳥がさえずるそんな日の朝にアンナ・ロマンが、エルフの年長者ルーギス・メレーナの家を訪ねていた。
街の一軒家に住んでいるルーギスが寝ぼけ眼で扉を開ければ、一人の少女がなにやら真剣な面持ちで立っていた。
アンナは街には二件しかない衣服屋の娘だ。
イスタルがこの街へ魔法を教えに来ていたころは、ルーギスも学び舎に顔を出してもいたので何人かの生徒には見覚えがある。
檸檬色の短い髪からは清涼感が滲み出る。
「キミは確か……ロマンさん家の娘の」
「お初にお目にかかります。魔法学校学生のアンナ・ロマンと言います。朝早くにすいません」
「ん。それは構わないんだが。して、私に何か?」
ルーギスの欠伸に対して、ロマンは深々と頭を下げた。
「折り入ってご相談がありまして。弟子に、していただけないかと」
「弟子? 弟子って言うと、魔法の?」
見ればまだ若く、年頃の子にはよくある話だった。
魔法を学ぶためには弟子入りが手っ取り早く、学校からも推奨されている。学校では難解な魔導書を読み、実践は師に習うという図式が一般的であった。
「申し訳ないが既に何人かいてね。難しいかもしれないが、一度素養を見てからでも」
「あの、すいません。ルーギスさんに志願できるなら、それはありがたい話なのですが」
「ん? あぁ、別に教えを請いたい人がいる、と」
「はい」
「ふむ。それで私の伝手でどうにかならないか、とそういう訳かい」
「場所を、居場所を教えていただければ、と思いまして。ルーギスさんしか、たぶん知らないと思ったので……」
「つまるところ、誰を探しているんだい」
「あっ、そうでした。シン、シン先生の弟子に、なりたいんです」
顔を上げたアンナの言葉に、ルーギスは辺りを見回す。
「とりあえず入りたまえ。誰かに聴かれていい話でもあるまい」
家の中に招き入れて、ふと思い出したのが、旧友のことである。
自分の家に人を入れたのは、長い年月を遡っても、旧友と目の前のロマンだけであった。
旧友の名はイスタル。魔法という魔法を我が物とし、西の大陸で魔女の名を轟かせた。
なにかの思し召しなのだろうか、と呟けばアンナが振り向いた。
「いや、なんでもない。椅子に座りたまえ。お茶を出そう」
「おお、お気遣いなく」
「遠慮するな。なに、怪しい薬なんか入れやしない」
緊張のせいか、アンナはガチガチに体を強張らせる。
香りの強い茶を出してルーギスが腰を下ろせば、アンナもようやく席に着く。
「さて話を聞こう。なぜ彼の弟子になりたいのかを」
アンナが口にしたのは、都の魔法学会からも、大陸の住人からも除け者にされている魔法使いであった。かつてはイスタルとともに、この街で子ども相手に魔法を教えていたこともあったが、人道に反する行いをしたためである。
しかし、アンナはそのいわくつきの魔法使いの弟子になりたい、という。
「いや聞くまでもないのかもしれない。元より魔法を習ったのはイスタルからなのだろう。しかしイスタルは既にいない。ならば必然的にその弟子である彼に白羽の矢が立つ、というもの」
「あっ、は、はい。ではなくっ。シン先生に昔、お願いしていたんです」
「お願い?」
アンナは静かに眼を伏せる。
「お願いをしました、私を弟子にしてくださいと。その時に、自分はまだ未熟だから教えることはできないと断られました」
「そのときは彼も二十そこらだ。例えまだ幼かったキミでなくとも、そういう受け答えをしていただろう」
「今の先生のお話は色々聞いています。禁忌に踏み入ったとか、外道魔法使いとか。悪い噂が大半ですが、それでも私はやっぱり、シン先生は凄い人なのだと思いました。他の魔法使いにはできないことを成し遂げたのだと、尊敬するばかりです。ですから、私も魔法の基礎を積んで少しはマシになった今、再び先生に志願したいんです」
「待て。待て待て。それじゃ君は、禁忌の魔法を習いたいと、そういうわけか」
「違いますっ。そうではなんです。魔法の面白さを気付かせてくれた先生みたいになりたいんです。それに、先生が噂通りの悪いことをしようとしていたとは思えません。あんなにやさしかった先生だから、きっと何か訳があったにっ」
「分かった。落ち着きたまえ」
語気が荒くなってきたアンナを制止させる。
大人しそうに見えて、熱のある子であった。
「彼のことを慕っているのは分かった。けれど、真相はどうあれ、世間ではよく思われていないのが事実だ。それは承知しているかい」
「……分かっています」
「彼に志願したと他の人に知られれば、キミのご両親もただでは済まないだろう。この街の人たちの多くはイスタルに好感を抱いているとはいえ、壁に耳ありだ。責任どうこうは問わない。周囲の人たちを危険にさらしてでも、キミは彼の弟子になりたい、そういうことでいいんだね?」
「はいっ」
大きな返事と、それから真っ直ぐな眼差しである。
ルーギスは茶を一口飲む。
「ん。分かった。元より隠すつもりもない。彼に会いに行こう」
アンナの目が大きく見開かれた。
「あまり期待はしない方がいい。私も口添え出来る立場でないから、君がダメだと思ったら素直に諦めることだ。いいね?」
それでもアンナの目の輝きは色褪せない。狂信、とまではいかないものの、それに準ずるなにかが見える。
街を出て、巨大な森へ向かう道中、ルーギスはアンナの話を聞いていた。
「先生が見せてくれたのは、紙の魔法でした。犬や蝶を模って動かす魔法です」
「折り紙の魔法か。あれはイスタルがシンに教えた最初の魔法だ」
「そうだったんですか?」
「人形と同じ。動かすのは簡単なんだが、似せるとなるとこれが難しい。学校で教わるような、いわゆる役に立つ魔法ではないけれどね。普段学校では普段どんなことを習っているんだい。というかキミ今いくつだ。十六、七?」
「高等部二年の十六歳です。最近の授業では、物体浮遊や魔法薬などの基礎、それから五大元素を習っています」
「ちゃんとしてるねぇ。うん。これも何かの縁だ。これからも分からないことがあったら私のところにくるといい。弟子がいると言っても、皆別々の地で研究に没頭しているから」
「それは、とてもありがたいです」
「なあに、私とて今回の申し出はありがたい」
森の目の前まで来ると、アンナの足が止まる。背の高い木々が立ち並び、日は天辺にあるというのに数歩先がもう暗闇で、洞窟と遜色ない。
思わず生唾を飲みこんでしまう。
「シン先生は、ここに……?」
「森の中心部に屋敷がある。そこで暮らしている、はずだ」
「はず?」
「なにせ私も五年ほど顔を合わせていない。合わせる顔もないというか、今更どうこう理由を付けて会うのも恥ずかしくてね」
「大丈夫、なんでしょうか」
「近くには河もあるし、獣を捕える技量ならそこらの猟師とは比べ物にならないさ」
「おぉわいるど……でも、なんか、イメージと……」
「どうかしたかい? 足を止めると迷子になるぞ」
「い、行きますっ!」
アンナは先に踏み出した。森の中は入り組んでおり、埃や蜘蛛の巣が大変多く、年頃の女子は小さい悲鳴を上げるばかり。
ルーギスの持っていた日の光を貯めた硝子玉で道を灯し、たどり着いた先には確かに屋敷があった。人が住んでいるか怪しいほど、蔓や苔や雑草にまみれた風貌だ。
魔法、魔術が生活の一部となってから長い年月が経つ。錬金術の発展や、魔女狩りと呼ばれる魔法禁止令が公布された時代もあったが、それでも世に受け継がれた。
小さな田舎の街でも、学校で習うほどである。都では学会が開かれ、日夜研究が進められている。
家事や狩りの補助が広く一般的で、賑わいのある街では芸能や魔法競技などで親しまれる。軍事利用もされているが、西の大陸では近年目立った争いはなく、汎用性にも乏しいため、廃れつつあった。
アンナ・ロマンが魔女イスタルとその弟子シンと出会ったのはまだ八つの頃。学校の小頭部に通っているところに、突然現れた二人がおよそ三年に渡り、多くの魔法を見せる。
冷たい炎や氷の花、手足の代わりとなって動く蔓や喋り出す本と愉快で奇天烈なものばかりだ。中でもシンの見せる魔法は、派手ではないものの、童心を掴んだ。
あっという間に惹かれて、自発的に魔法について調べるようになる。二人が姿をくらませてからも続け、高等部一年の冬の頃、学校の試験にて魔法使い見習いとして認められた。
魔法使い見習いは、師の下で魔法を習うことができる。アンナは十の頃に一度断られたシンへの志願を再度叶えるため、街の物知りであるエルフのルーギスを訪ねた。
かくして、憧れの人との再会を果たすわけだが、またも弟子入りを断られる。
しかも今度はこれと言った理由も告げられず、「余所に頼むといい」の一言は耳の奥に張り付く。おまけに顔も毛むくじゃらでアンナの知るシンの面影はどこにもない。
シンが姿を消した当時、アンナの友人の一人がこんなことを言った。
「見捨てたのよ私たちを。裏切り者。絶対に許さない」
その友人は都へ進学し、今も魔法の勉強に勤しんでいる。