四章「弟子」 4
4.
弓の弦が風を切って乾いた音を鳴らす。矢は滑るように飛んで兎の細い首を貫いた。
木にぶつかって動かなくなった兎を持って引き返した。
アンナはこなれた様子で森の中を行く。まだ息のある兎を抱え、他の獣に警戒しながら急いだ。もう木の根から木の根へ飛び移るくらいわけない。筋肉もついた。
屋敷に着くと兎をシンに渡し、後日、処理を隣で見ていた。腹を裂き腸を抜き、噴出した血は手の上で玉状にまとまる。
内蔵と玉状の血はそれぞれ瓶に入れ、首を落とし皮を剥いて手ごろな大きさに切り分けていった。ついさっきまで抱えていた温もりは消え、食すためだけの肉が並べられる。
「見てるだけでもつまらんだろう。次からはお前がやるか?」
「お、お願いします」
「断ってもいいんだぞ。これはただの食事の支度だからな。苦手なら食わなくてもいい」
「そんなことできませんよ。私が獲ってきたんですから私が食べます」
パンとトマトを添えて皿に乗せ、向かい合って昼食にした。
魔法の火で炙った兎の肉を、まじまじと見つめたまま動かなかったアンナも、腹を鳴らす。照れ隠しに俯いてから口に運んだ。
舌の上でほろりと崩れ、独特の弾力が口の中を転がった。控え目の油にはわずかな臭みがあり、咀嚼の度に調味料と混ざり合う。
飲み込んで、次の肉を放り込みまた味わう。初めて狩った動物の肉を食べている。
「狩りはどうだった?」
パンを齧って小休止しているところに、まだ食事に手を付けていないシンが尋ねた。
アンナは面食らう。少なくともアンナに対してシンは、あまり口数が多い方ではなかった。魔法に関しては稀に話したがりになるくらいで、食事中ともなれば終始無言である。
「いつものようにやったつもりでした。当たってラッキー、やったー、みたいな。あんまり実感が湧いてないです」
「兎は旨いか?」
「おいしいです。すごく」
「ルーギス曰く、矢は当たってから放っているそうな。放つという行為は過程であり、確かな意志により矢が当たったという運命を引き寄せるのだと」
「あの、すいません……よくわからないです」
「エルフはたまに頭のおかしなことを言うが、意志ってのは分からんでもない。日々の鍛錬で培われていれば、過程など些末な問題にすぎん」
「魔法もそうなんでしょうか」
「一様に手段だからな。自然と手に馴染むものになるだろう」
あぐあぐと肉を食べだした。
「この時期にしてはまあまあだな」
「えー、おいしいですよ」
「学業はどうだ」
「え、突然なんなんですか」
「調子がいいみたいだからな。気になっただけだ」
「いいですよバリバリすっごくいいんです。そんな赤点なんて取るわけないじゃないですかやだなー先生ったらもう」
「……正式に弟子にする件、考え直させてもらう」
「なんですかそれ!? 初耳なんですけど!?」
昼食を済ませて屋敷の外に出る。
庭でアンナが見せたのは火の弓矢だった。空に向けて矢を放つと音を立てて爆ぜる。
吹けば飛んでしまいそうな小ぶりの弓だが、燦然と燃えている。りんごを彷彿とさせる赤は鮮やかで、木々に溶け込むようだった。
「見てくださーい。火の魔法、上手く使えるようになりました」
弓を握ったまま手を振れば当然、辺りに火の粉が散る。
足元が火の海になって慌てふためいている様子をシンは眺めていた。鍛錬の成果か、一般的な規模よりも小さな魔法なら安定するようだった。抜けているだけで筋は悪くない。
弟子にしても教えられるものはそう多くない。それはシンの気が変わったところで同様である。
自力で災いの元を払えるくらいにはなるだろうと、アンナが泣きじゃくりながら助けを呼ぶまでの間、根拠のない自信が湧いていた。
森を出て街の教会までシンは足を運んだ。極彩色のステンドグラスの影を跨ぎ、修道女の一人に声をかける。
背丈はアンナほどで、近づくと黙ってしまう。髭を蓄えたローブ姿の男が圧をかければそうもなろう。
仕方がないので別の修道女にスフィアの居場所を聞いた。
「症状は治まったので都へ戻ると言って、昨日出ていかれましたよ」
「そうか。失礼、邪魔をした」
「あぁ、いえ。しばしお待ちを」
言われて待っていれば、修道女は数冊の書物を抱え、その上に手紙を乗せてやってくる。
「ローブの方にと、預かっていたものです」
「俺に渡されてもな……」
「おや? てっきり貴方宛てかと思いましたが」
「いや合っている。そういえば受け取る約束をしていた気がしないでもない」
手に取って確認する。間違いなく都の図書館に蔵書されていたものだ。
一先ず書物は置き、手紙の封を切って中身を広げた。布用紙には丁寧な文字で、今回の騒動の謝罪と、それから信徒としてではなく一人の魔法使いとしてハスミの街に貢献できるよう都で勉学に励むといった展望が記されている。
――許していただけるのなら、いつか貴方と語り合いたい。
末尾まで目を通してその場で火を着けた。
用紙は黒く焦げ、灰になりながら縮まって鳥の形になる。燃えカスの鳥は、シンの片腕から飛び立ち、教会の窓の隙間をするりと抜けていった。
「彼は他に何か言っていなかったか」
「いいえ。残されていった物は先ほどの手紙とそちらの本だけでしたよ」
「そうか。そうだ、さっきシスターの一人を驚かせてしまってな。まだ若い子だ。すまなかったと伝えておいてくれ。ここらで失礼させてもらう」
「若いというと、あぁ彼女ですか。教会内で最初に会ったのが彼女であるなら、尋ね人との再会の日もそう遠くはないでしょう」
「別に会いたくはないんだが……なんだ、妙な言い回しだな」
「彼女は特別、精霊に好かれているのです。主の声を聴く精霊たちのお導きか、人と人との巡り合わせに何かと縁があるのです」
「魔眼持ちではないのか。あれは見えないはずのものが見えるらしいが」
「まさか。代わりに彼女自身、会いたい人には中々会えず、気まぐれな精霊たちに頭を悩ましているみたいですが」
「面白い話を聞いた。寄付でもしていくか」
「滅相もございません。シン・ライトニングさんなら、彼女に与えられた加護の正体をご存知かと思いまして」
名を呼ばれ、シンは目を細める。
「なんだ、知っているのなら知っているとそう言え」
「外見は少々変わっておられますが、預けられた書物からそうではないかと」
「昔話などするつもりはない。どいつもこいつも人をおちょくるのが好きらしい」
「あぁそんな、とんでもない。お詫びと言ってはなんですが、ここで育てている野菜を持っていってください。先の騒動を止めたのは貴方だと、ルーギス様からも聞いておりますから、ささやかながらそのお礼も兼ねて、ぜひ」
よっぽど不機嫌な顔をしたようで、慌てる修道女を見て眉を緩めた。
それはそれとして野菜の袋詰めを片手に教会を後にする。
人行く道の端を歩いてみれば、なんてことはない。よれたローブで無い腕を隠していても、いかにも高級そうな薄紫の布袋が身の潔白を証明してくれている。
多少目立ちはするものの、誰に呼び止められることもなく、ルーギスの家の戸を叩く。
「腕を取りに来た。ほら土産だ」
家に上がるなり、ルーギスに包みを放り投げた。
ルーギスは椅子に座りながら器用に体を乗り出して受けとる。
「教会にも寄ってきたのかい?」
「やつの、スフィアの様態を確認しに行ったが入れ違いになった。盗んだ本だけは置いていったみたいだがな」
袋を指さすと野菜を掻き分けて本が飛び出し、机の上に積まれた。
ルーギスは転がり出てきたトマトを掴んで齧る。滴り落ちる果汁に舌鼓を打ち、口周りを拭いてから返事をした。
「盗難自体が隠蔽されているからねぇ。キミの屋敷で保管してもらったほうが都合は良さそうだ」
「構わんが話はそっちでつけておけよ」
「全部、狂信者の仕業ということになったからね。キミへの疑いは晴れ、都の偉い人たちは騎士様方へ遠征の命令を下しているはずだよ。可哀そうに。カーナくんの青ざめた表情が目に浮かぶ」
「スフィアはどうなる」
「どうにも。主犯は名も知れない信徒で未だ見つからず。それ以上でも以下でもない」
「……そうか」
「気に掛けるなんて珍しいねぇ」
無視して地下室に降りていく。研究部屋になっている地下は肌寒く、ローブを身に纏っているくらいが丁度いい。
ランプに明かり点け、部屋の隅で氷漬けにされている腕を見つけた。綺麗に切断された断面はくっつきそうな気さえしてくる。
ルーギスも降りてきて、氷の前に立つ。
「このまま持ってく? それとも一度解かすかい」
「こう見ると何かに使えそうだな」
「常用しようとしても腐るだけでしょ……やだよ屋敷の中を這いまわる腕なんて」
「駄目だな。腹が立ってきた。庭にでも埋めるとするか」
氷漬けのままローブに巻き込みつつ抱える。屋敷までの距離なら溶け切ることもない。
用事を済ませたところで誰かが階段を下りてくる。
乾いた音が地下室にはよく届いた。
ルーギスは首を傾げてから、来訪者に気づいて一人納得する。
「あぁそうだったそうだった。今日来ると言っていたね」
来訪者は女性だ。猫のような獣耳と尻尾の淡い青が、ランプの明かりで映える。
どこか遠くを見据えるような瞳に、シンの体は強張った。若くもなく、老いてもいない白い肌の人形のような容姿に不気味ささえ覚える。
シンには目もくれず、来訪者はルーギスの前に立った。
「居間に見えなかったので、上がらせてもらいました。いえ、下らせてもらいましたが正しいのでしょうか」
「すぐにお茶の用意をするよ」
「お返事を聞きに来ただけですので、お気遣いなく」
「考えはしたんだけどねぇ。結構他所へ出かけることも多いし、個別ならともかく柄じゃないっていうか」
「どうしてもお願いできませんか」
「うーん……」
二人の会話に耳を傾けながら、シンは速足で脇を抜ける。話の流れからろくなことにならないのは、察しがついた。
肩を掴まれればもう遅い。
振り向けばルーギスではなく、来訪者の手が伸びている。
「では、こちらの方にお願いしても?」
「その手があった」
「その手があった、ではない。おい放せ」
言っても聞かないものだから、身体を捩って振り放す。
その間も来訪者は無表情で、シンの顔をまじまじと見つめていた。
「貴方は、シン・ライトニング氏で間違いないですか」
「初対面の相手に知られているのは気分のいいものではないな」
「私はこの街の魔法学校校長、リアス・ディと申します。以後、お見知りおきを」
「校長? 校長は老婆だと聞いているがどういうことだ」
「三年前に亡くなって以来、私が務めさせていただいています。婆様も私もあまり外に出ないので知らないのも無理はないかと」
「奇遇だな。俺も滅多に外に出ない。それでは失礼。引きこもる用事があるのでな」
「お話聞いてもらえませんか?」
「聞いてやる義理がない」
「先日、教員の一人が退職されて少々困っていまして。都の方からの派遣も時間がかかるとのことで、急ぎ臨時で入っていただける方を探しているのです」
「おいルーギス。なんだこいつは」
「まぁまぁ」
いつのまにかルーギスに周り込まれて地下室から出られない。
よく冷えた氷を抱えながら、来訪者のリアスとの距離を詰めた。
「そこまで尻拭いをするつもりなどない」
「一部始終拝見させていただきました。まずは礼を述べないといけませんね。ありがとうございます、生徒を守ってくださり」
「結果的にそうなっ……待て。人質がいたはずだったが、なぜ、見ていた?」
「タイミングです。彼が何をするのか見てみたかったのと、それからいつ首を刎ねるか、計っていたところに貴方が来てくれたんです。おかげで誰も犠牲にならず済みました」
淡々として語るものだから、嘘を吐いているようにも見えない。
シンは一歩引いて鼻を鳴らす。
「ふんっ。言うではないか」
「若輩者で校長とは名ばかりの業務しか熟せませんが、それでも生徒は大事にせよと婆様から習っていますから」
「殊勝なことで。で、スフィアの代わりに俺がやれと、そう言いたいのか」
「結果的にそうなった、ですよね。そうではなく先ほども申しましたが、臨時で入ってくださる方なら誰でもいいんです。ただ適任者はなかなかおりませんから、貴方ならばと思った次第です」
「では俺も再度言おう。話を聞いてやる義理も、そこまで尻拭いをするつもりもない」
「困りました。ルーギスさん、なんとかなりませんか」
ルーギスはにたりと笑みを張りつけながら、絶対に動かないと言わんばかりに扉の前で腕を組む。
「ケガの手当をしてやったんだけどねぇ」
「おい、そこでそれを持ってくるな。第一、そんな頻繁に屋敷を離れられるか」
「私もたまに留守番するよ。それでいいだろ? キミが屋敷に引きこもっていたのは、キミの行いが故。元より森の魔術が強力で、屋敷を守る必要なんて無いに等しいじゃないか」
ルーギスの言う通り、現に今まで森を越えて屋敷にたどり着いたのはアンナだけだ。
正しい道を敷けるだのなんだのとシンは言ったが、根拠はない。偶然、森の魔術の対象から外れた可能性もある。一人抜けられたのだから今後もないとは言い切れない。
だがアンナが邪な考えを持っていなかったのも事実である。たったそれだけの理由に、シンは口を閉ざす。
「シンさんは」
代わりにリアスが、掻き消えそうな声を発した。
「シンさんは、この街で魔法を教えていたと存じております」
「それで」
「なら問題ないです。臨時ですので短い期間ですが、よろしくお願いします」
「あれだな。突っ込むのも疲れた。俺みたいな無法者に生徒を任せてもいいのかと、問いたいんだがね」
「はい。魔法は見ていますから」
「……趣味が悪い」
リアスは自身の懐に手を忍ばせる。
「婆様が言っていました。指導は己を見つめ直すことに繋がると。きっとシンさんのためにもなると思います」
取り出した一枚の用紙とペンを、シンに差しだした。
それまで面でも張り付けていたかのような表情が和らぐ。
慈愛とも取れる表情に、シンは溜め息を漏らした。氷漬けの腕を手ごろな机に置いて、空いた手でリアスの頭を掴んで揺らす。
「生意気だ。見当違いも甚だしい。阿呆な弟子のためだ。必要以上のことはしない。それでいいな」
これでもかと青い髪と耳をくしゃくしゃにし、仕舞には手を放しても、ふらふらとその場で揺れ続けた。
シンは薄っすら涙目のリアスから、用紙とペンを奪い取るのだった。




