三章「死霊術師」 4
4.
気絶した男子生徒を背負い、スフィアは先頭を行く。華奢な体格だが上体が揺れず、むしろ軽やかに校舎内の廊下を進んでいった。
日は沈み、暗い校舎内を照らすのは火の魔法。丸く発光する球体は窓際に連なり、行き先を照らす。
「保険医はもういないみたいです。私の部屋になら医療用具があるから寄っていきなさい」
その提案に、アンナとリリィは頷いた。リリィの首の痣は引いたが、アンナは男子生徒の魔法で腹を強く打たれている。
アンナはリリィの肩を借り、腹を抱える。腹部が痛み、火の魔法で焼かれているかのように熱い。けれど腫れているくらいで目立った外傷などはなく、意識は保っていられた。
今にも泣き出しそうなリリィが顔を覗き込む。
「ひどく痛むの? もうすぐスフィア先生の部屋に着くから」
「大げさだって、いてて」
「あぁもうそんなに動かないで。あんなの当たって平気なわけないんだから」
強がりも空しく、ほとんど引き摺られるような形で部屋まで連れてこられた。二人並んで、ソファーに腰かけて医療用具を受け取った。
魔法陣が書かれた布を赤く腫れた腹部に当てて、テープで止める。痛みを和らげ、自然治癒力を高める医療用具だ。応急処置としては十分に機能する。
スフィアは向かいのソファーに男子生徒が寝かし、額とそれから首に、同じ布を貼った。簡単な処置を終えてから、落ち着いた様子で離れた椅子に腰かける。
「何があったんですか? 相談を受けていた時期もありまして、彼のことは真面目な生徒だと認識していました。しかし、あの錯乱した様子は常人のそれではありません。決して人に魔法を向けるような子だとは」
部屋に浮かぶ火の玉がぼうと光り、スフィアの顔に影が差す。
しんと静まり返り、沈黙を破ってリリィが首を横に振って答えた。
「そちらの男子から話があると呼び出されたのですが、突然なにかを口に含んでそれから様子がおかしくなって」
「口に?」
「たぶんなんですけど、その……」
「なるほど……口に含んだ、ですか」
スフィアは瞼を閉じ、思案するように口元に手を置く。
気絶している男子はまだ目覚めない。静かに寝息を立てて眠りについているかのようだ。普段以上の魔法を使い、疲弊しているだけであることは予想がついた。
アンナはその額に張られた布を見て、手に熱を覚える。見ても何の変哲もない、包帯の巻かれた手の平があるだけだ。
火の弓はまた出せる――矢が命中した時と似たような根拠のない自信があった。形が違うだけで元は火の魔法。それでも手によく馴染んでいた。
隣にいるリリィの温もりに安堵しながら、いまさらになって肩の力が抜けていく。
全身の緊張が解け、ソファーに身体を埋めた。
脱力した指先に硬いものが触れて、はっとなる。ポケットをなぞり、恐る恐る手を入れた。顔に出ていたのか、スフィアの鋭い視線に捕まる。
慌てて床を見るが、何をためらう必要があるのか。ポケットの中で固まっていた手を、少しずつ外に持っていく。アンナは小瓶を取り出した。
「今朝、教室の机の中に入っていました。これを飲んだんじゃないのかなって」
横に座っているリリィが険しい表情になる。
「机の中って、それ」
「うん。たぶん薬。活性化薬って言って、一時的に実力以上の魔法が使えるようになるって聞いた」
「学校の中でばら撒かれているってことなの……」
「私のことも知ってるのかも。魔法使うの下手だし」
「そうだとしても何のために? アンナにそれを飲ませようとする意図が分からない。アンナだけじゃない。そんなもの作って、配って、人も街もめちゃくちゃになるだけよ」
リリィがアンナの手を取る。その手は小さく震えていた。
教会で患者を診ていれば無理もない。アンナは手を握って、笑ってみせた。頼りない格好だがリリィの手の震えも治まる。
椅子を軋ませ、スフィアが立ち上がった。
「えぇ全く。無造作にばらまかれては面倒ごとが増えるというもの。この件は私に一任されたというのに、いやはや困ったものですよ」
何食わぬ顔で窓の傍に立って、外を眺めながら淡々と口にする。
二人はぽかんと口を開けた。
「先生……?」
「すいませんリリィさん。教会の手を煩わせようとか、そんな気は毛頭ないんです」
「何を言って、らっしゃるのですか」
「そっちの彼も私が進路相談を受け持っていましてね。魔法で悩んでいる子たちを積極的に回してもらうよう頼んでいたわけですよ。大人子どもに限らず、強大な魔法の虜になってもらって、ゆくゆくは仲間に加わってもらおうと、そういう手はずではあったんですけどね」
段々とアンナの顔は青ざめていく。
「スフィア先生がやったの……? なんでっ」
言い切る前に、リリィがアンナの手を握ったまま、扉まで一直線に走り出した。
にわかに信じがたかったがスフィアが戯言を吐くとも思えず、リリィは先に動いた。続いてアンナも振り向くことなく出口を目指す。
開いていたはずの扉が、誰の手を借りることなく閉まった。
「開かないっ」
押しても引いても、鍵を回そうとしてもドアはびくともしない。
「どいて! 壊す!」
アンナは咄嗟に叫び、火の弓を作り出した。不格好な形だったが、ふさがった逃げ道目掛けて矢を放つ。
だがドアに接触した直後、霧散してしまった。傷一つ付かないドアに目を丸くする。
「無駄ですよ。鍵の魔法は私の得意分野でしてね」
二人は壁を背に振り返る。振り返らざるを得ない。
空に浮かぶ月のように、口角が吊り上った。普段の温和な雰囲気とは一転し、ぴんと背筋を伸ばす様に空気までもが張り詰める。
スフィアはまるで獲物を捕らえた獣のように目で笑ってみせた。
「魔女イスタルをご存知ですよね。あなた達にはあの御方の生贄になっていただきます。あぁそこの彼は生贄の対象ではないので安心してください。必要なものは同性の肉体、魂に限られているみたいですから」
「意味が、意味がわかりません。一体なんでそんなことを。まるで狂信者の世迷言ではありませんか。まず第一に死者の復活なんて、できるわけがありません」
「シスターリリィ・アルタさん。崇拝対象が空想でしかない哀れな子。あなたは奇跡を目にしていないから世迷言だと宣えるのです。エルフの森の大火事を鎮め、賊を一人残らず殲滅し、大水道を通したあの御方の魔法はまさに奇跡そのもの。そしてその弟子もまた、奇跡を生み出した」
懐から真新しい皮の本が取り出される。造りは粗雑で、本というよりは穴を空けて紐を通し、皮でまとめてある紙束だ。
厚みも題名もない本に、アンナの口から言葉が零れた。初めて目にする。存在自体に疑心暗鬼を覚えていた物を、なぜスフィアが手にしているのか、
「黄泉返りの本……?」
「流石に聞いているみたいですね。あの御方の弟子は禁忌を犯したとされ、辺境の森の中に幽閉されてしまいました。私たちは彼の無念を晴らすために立ち上がったと言っても過言ではありません」
「おかしいです。シン先生は別に、無念になんか思って無さそうでした。むしろ――」
――キミ一人が犠牲になることは結果として間違いでなかったけれど。
アンナの中でルーギスの言葉が引っかかる。外出を毛嫌う様子といい、蘇りに執着を見せているようには見えなかった。
「ははっ。師との再会を願わない弟子など居るわけがない。アンナさん、アナタなら分かってくれると思って、アドバイスもしてあげたんですがね」
「あっ……」
ルーギスの下へ行くよう催促されたのは、スフィアの謀だったのだと理解する。
「生贄の条件として、所縁のある者でなければなりませんでしたからねぇ。弟子と知り合いで、あの御方の魔法をその身に受けていれば十分でしょう」
「あ、ああああぁ……なんでそんなっ。ひどい、騙し……ひどい」
「アンナしっかり! スフィア先生、いえスフィア。貴方の行い、決して許されるものではありません。悔い改めなさい」
崩れるアンナに、リリィは寄り添う。もはや二人の知る教師スフィアはどこにもいなかった。リリィは感情をそのまま舌に乗せた。
「精霊の加護、汝の角に幸あれ! 顕現せし怨根断つ、つる……ぎ?」
魔法を唱えきる前に、膝から力が抜けた。抱えていたアンナを見れば、気を失っているかのようで、支えきれず一緒に床に倒れてしまう。
起き上がろうと腕に力を入れても床を滑るだけ。次第に視界もぼやけていった。
「むしろ慈悲深いと思ってほしいものです。あの御方の生贄にされただけでなく、最期に死ぬ理由も教えてもらったわけですから」
スフィアの足が近づく。歯を食いしばることすら許されず、意識が途切れた。
二人が眠りについたのを確認してから、スフィアは床に仕掛けていた昏睡の魔法術式を踏み消す。予定よりも時間が経過していた。
騎士が街に来る知らせを受けてはいたが、その三日後に酒場で出くわしたときには肝が冷えた。
魔女復活を祝うためのクレイマンで騎士の注意を引く策は上手くいっている。魔女の魔法で街中を攪乱させ、拠点である学校から邪魔者も排除した。慢心はせず、これ以上引き延ばすのは難しい。
何より、スフィアが待てなかった。誤って浮遊魔法を使いそうになるほど。人に魔法を使えば少なからず体内の魔法の種に影響を及ぼす。
昏睡の魔法が解けてしまえば元も子もない。まずはアンナを抱えて中庭に降りた。
中庭にも準備を済ませてある。神出鬼没な校長の目を盗み、夜な夜な仕掛けを進めていたのも今は懐かしい。一人街に潜伏し、この機会を今か今かと待っていた。
中央で立ち止まる。草が踏まれる音を聞き逃さない。自分以外のものだ。男子生徒やリリィが目を覚ましたという線も薄い。
となれば後は一人だ。
スフィアはアンナを寝かせてから、校門の方を向く。夜の暗闇の、そのまた木の陰に浮かび上がるのは背丈のある男だった。
月明かりの下まで出てくれば、その蓄えた髭も真っ黒だ。黒髭黒髪は東の大陸の人間の特徴であり、イスタルが死霊魔術の研究対象として選んだ者たち。
現れたのはその一人。魔女の唯一の弟子とされている、禁忌の魔法使いだった。
「お待ちしておりました。やはり貴方でしたか」
「キミは……そうか。確かにそうだな。あんな時間にあんな街の隅に用事ってのも妙な話だ。名前は、えー、なんだったか」
「スフィアでございます、シン・ライトニング様」
苦笑するシンを、大手を広げて出迎えた。渇望し、こがれ続けた光景が目の前に広がり、腹の底から笑う。
「なにがそんなに可笑しいんだ?」
「自分でも惚れ惚れするほど上手くいったもんだと、そう思いまして」
「ほう。クレイマンも骸骨どももキミ一人でやったのか」
「大したことではありませんよ。それよりも、こうして馳せ参じていただき恐悦至極。シン様をお迎えするのは黄泉返りの術を成功させてからと半ば諦めていましたから、共に再会の時を迎えられるだけでもこの上ない喜びなんです」
「そうかい。さっさと帰りたいんだが、そこの娘を返してもらっても?」
聞いていないと言わんばかりに、シンの調子は変わらない。
「帰る? あぁすいません。私が何をしているのか、説明していませんでしたね。今から貴方様が編み出した黄泉返りの術で」
「三度目はない。そこの娘を返してもらってもいいかね」
言葉を遮られ、唖然とする。
知らぬ間にシンの手には、肩ほどまである杖が握られていた。歪な木々が絡み合って形作られた杖の、周囲の空間は捻じ曲がって見える。
握りしめている手も、月の明かりも、木の影も境目が湾曲し波打つ。目を奪われ、はたと気づいた時には何のことはない、古びた一本の杖があるだけだ。
そんなわけがない。そこらの木で造られたものなわけがない。空間が捻じ曲がって見えたのではなく、実際に捻じ曲がっていたのだ。
スフィアには心当たりがあった。優れた魔法使いのみが所持できる九本の内の一本で、尋常ならざる魔法の種への干渉力を有し、使い手の魔法を何倍にも増幅させる魔道具。それが杖の正体だ。
魔女も所持していた物とは言えど、杖は人を選ぶ。切り倒された世界樹で造られたと言われているその杖を、相応しくない者が持てば、腕をちぎり落とされる。弟子が必ずしも受け継げるというわけではない。
シンは杖の頭を落とし、低い体勢で飛び出す。間合いを詰め、杖を大きく振りかぶった。高く夜天を突く杖の頭からは、白色の刃が伸び、怪しく光を返す。
体を捩りながらスフィアの頭に浮かんだのは、死霊術師にふさわしい、死神の二文字だった。